【219】宗教と文化【ラディカル紙】【2009.10.15】

10月14日付けのラディカル紙より、テュルケル・アルカン氏のコラムを訳して見ました。

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宗務庁長官アリ・バルダクオールは、批判に耳を傾ける、学界出身の理知的な人物である。しかし、先日開かれた第4回宗教評議会で、長官が語った次の言葉に私は賛同できない。

「宗教を内的、そして普遍的な深みから引き上げ、乾いたイデオロギー的な言説の集積として評価したり、文化的な事象のひとつとして見たりすることの対価は非常に高くついてしまった。・・・先ずはじめに、政教分離は全ての宗教に配慮しながらバランスを求めることによって生まれた」

私が理解した限りにおいて、バルダクオール氏はこう言いたいようだ。「宗教は社会的な事象ではなく、預言に基づく神聖な事象である」

この言い方は、“宗教社会学”“宗教心理学”“宗教哲学”“宗教史”といった学問のエリアを認めないという意味にならないだろうか? それは、宗教的な活動が学問になることを妨げる発想だ。

次に、「政教分離は全ての宗教に配慮しながらバランスを求めることによって生まれた」という提言だが、確かに、政教分離の国家には、こういった特質がある。しかし、これでは、政教分離が各宗教の間で審判を務める存在に要約されてしまったかのようであり、政教分離の最も明確な特質を語っているとはいえない。

“各宗教を公平に扱う”のは、政教分離(というより世俗主義)が求められた理由ではなく結果である。世俗主義は、合理的、科学的な世界観を含んでいる。世俗主義、あるいは政教分離が、宗教に反対することはないが(その為、各宗教を公平に扱う)、公的な活動が宗教の戒律によって営まれることには反対している。

かつて、エルバカンが良く用いた狡猾な言い回しがある。「政教分離とは宗教と良心の自由である」

もちろん、宗教と良心の自由をもたらすためには、政教分離が必要である。政教分離なくして、宗教と良心の自由はありえない。しかし、政教分離を、宗教と良心の自由に要約してしまえば、その本質は見失われてしまうだろう。

今日、「政教分離とは宗教と良心の自由である」という言い回しはなくなったが、その代わり、「政教分離は各宗教を公平に扱う」と言い出したようだ。この二つの提言は、部分的に正しいものの、政教分離の全てを明らかにするには、甚だ不充分である。

宗教評議会では、エルドアン首相もスピーチを行っている。このスピーチは、“宗教は文化的な事象ではない”と言った宗務庁長官より、遥かに学問的、合理的なものだった。

「あらゆる分野で行われたように、宗教学においても、古い学説を見直して、更新し、今日の世界とその要求に従って、解決を模索しなければならない時がある。ここで、誤解されないように断って置くが、私が言おうとしたのは、決して宗教の改革ではない。しかしながら、学問的な表現、特に宗教学の表現における改革は、避け難い現実として提示されている。もちろん、宗教は完全なものだが、私たちが宗教から得ている解釈や思想は、進化し発展を遂げているのである!」

つまり、宗務庁長官は、政治的なスピーチを行ない、首相は学問的な色合いの濃いスピーチを行ったということだ。エルドアンは、解釈によって、宗教で新しい扉を開きながら、変わり行く社会の要求と宗教、そして文化を結び合わせなければならないと明らかにした。

「宗教の改革は是か非か」という論争には全く意味がない。政教分離自体が宗教の改革ではないのか?

カソリックの信徒が離婚や避妊を始めたように、ムスリムも4人妻であるとか、遺産相続の取り分が女性は男性より少ないといった慣習を改め始めたが、これらの全ては、社会的な文化が宗教に与えた影響を示していないだろうか?

アフガニスタンの宗教と、トルコで営まれている宗教の間に違いがあるならば、それは、社会的、文化的、歴史的な要因に根ざしているのではないか?

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原文
http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=RadikalYazarYazisi&Date=14.10.2009&ArticleID=959072


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