【217】ラマダンとバイラム【ラディカル紙】【2009.09.22】

9月22日付けのラディカル紙より、ヌライ・メルト氏のコラム。メルト氏は、バイラム(宗教上の祝祭)を機会にして、宗教の重みを深く考えてみようと論じています。

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信仰のある人もいれば、無信仰の人もいるだろう。それでも、私たちは共にバイラム(宗教上の祝祭)を祝っている。人々は、バイラムのために、里帰りしたり、モンテカルロへ行くかもしれない。いずれにせよ、ラマダンを並の月のようにした“休暇”というものを利用しているのである。

これでさえ、少しは考えてみなければならない状況じゃないだろうか? 

私たちは、「きちがいには、毎日がバイラム」などと言って、何の必要や理由もないのに、毎日が“バイラム”になっている人たちを“きちがい”と呼んでいる。

しかし、“砂糖祭”と言っても“ラマダン祭”と言っても良い、この度のバイラムはラマダンに関わっていて、私たちはこのバイラムによってラマダンの終わりを認識する。あるいは、認識しないまま、習慣通りに“休暇”を楽しむ。私は、出来ればこの機会に、断食月について、少なくとも5〜10分、もっと深く考えられたなら、と思う。

ラマダンを通して、あらゆるイスラム国(もっと解り易く、人口の大半がイスラム教徒の国と言おう)で、宗教的な雰囲気が高まり、新聞やテレビで宗教的なお話が伝えられ、イフタルの夕食が振る舞われる。しかし、それ以外には何もない。

こう言うと、「それ以上何を望むのか? そもそもAKPが政権に就いて以来、保守勢力に取り囲まれてしまっているのに、その枠をもっと狭めてもらいたいのか? もうたくさんだ!」と反発する人もいるだろう。

私が期待しているは、そんなことじゃない。信じる者たちが1ヵ月の断食を義務付けられたこの期間に、信じる者も信じない者も、この義務の意味は何なのか、人生に何をもたらすのか、と今一度考えてみる、そういった雰囲気が生じることを期待している。それだけである。

ラマダンの断食や、その他の宗教における断食が、人々に不必要な苦痛を与える為に行われていないのは想像できるだろう。御存知のように、信じる者たちは、神に認めてもらう為、快楽や要求から一定期間遠ざかり、帰依を確認するのである。信仰の根幹を成す帰依は、断食の実践により、自分たちの存在についての糸口、そして道標を示してくれる。

当たり前の欲望に囚われず、それを払いのける(限界はあるとしても)力が自分自身にあること、即ち他の動物と異なる“優れた創造物”であることを思い起こさなければならない。

断食月において、実践者たちは、ひもじさに身体が苦しめられる為ではなく、以上のことを思い起こすゆえに、揺さぶられるのである。ラマダンで人々は、ひもじさや睡眠不足によらず、このために暫し立ち止まってみるべだ。立ち止まって考えるため、考える度に立ち止まるため。

とはいうものの、既にそんな世の中ではない。支配的なのは、「止まらずに続けよう!(訳注:AKP政権のスローガン)」という空気である。一方では、イフタルの夕食、信仰についてのお話があり、もう一方では、「さあ、売って買って、景気を良くしよう」という宣言が掲げられる。兎にも角にも消費し、消費させることへ希望を託した人間模様。資本家のシステムと言われる世界的横暴の束縛から逃れるのは容易なことじゃない。それは解っている。

しかし、この支配的な構図を全く問質そうともせず、そこへ迫ろうともせず、ひたすらその端を行ったり来たりしている者たちが、大いなる存在の思想を伝承していると主張することに如何ほどの意義があると言うのか? そこに意義のない限り、世界的に宗教への関心が高まっているように見えても、そんなものは空虚なばたつきに過ぎないだろう。

その重みを理解することなしに、宗教の伝承をたやすくすれば、宗教へ近づくのは容易になるが、そのメッセージからは遥かに遠ざかってしまう。

今まで余り信仰していなかった者たちによる観光的な小巡礼が増えるなか、以前から熱心に信仰している者たちの中では、モンテカルロへの憧れが大きくなり、今のところ、豪華な誕生パーティーでそれを紛らわしているのだ。その結果、彼らは自らを失ってしまうだけに違いない。神聖なメッセージの輝きへ影を落とすには、何人の力も及ばないだろう。

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原文
http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=RadikalYazarYazisi&ArticleID=955609&Yazar=NURAY MERT&Date=22.09.2009&CategoryID=98

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