【215】最大の敵:国民国家!【ラディカル紙】【2009.09.14】

2週間も経ってしまいましたが、9月1日付けのラディカル紙より、ヌライ・メルト氏のコラムです。巧く訳せそうもないから止めようかと思っていたけれど、とても興味深い内容なので何とか自分なりに訳してみました。リベラル派の言論人が激しく批判している国民国家の体制について論説しています。

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私たちは、クルド問題に限らず、長い間、民主主義の発展を語る中で、国民国家について議論してきた。近代史の清算に関わる議論もその一部である。

これは、平凡な頭脳の鍛錬といった類いの議論ではなく、政治的・社会的な閉塞感から抜け出すための道標になるものだ。例えば、解決が得られないなら、近代史をこう見たらどうなるか、国民国家をこのように定義したらどうなるか?

民主主義を発展させる為に、近代史を検証し、いくつかの政治的概念を新たに評価しなければならない。なぜなら、多くの国民国家は、その成立過程において、近代的、世俗的な枠組みの中で共通の基盤を構築すると称して、出来る限り均一化を図ろうとするからだ。統治イデオロギー、国民の定義、教育及び文化政策は、この目標に制約される為、文化的な多様性や宗教帰属性は、部分的あるいは完全に無視される。

トルコ共和国の成立過程も同様である。トルコの場合、国民化を図る過程で抑圧された宗教帰属性とクルド人のアイデンティティーが、時を経て、国民国家の枠組みを揺るがし始め、その政治的な主張が、社会の中で反応を得るに至った。

もしも、この緊張が現存する体制の崩壊へ向かえば、私たちは大きな対価を支払うことになる。それなら、穏やかに和解の上でこの緊張を解決しようではないか。それが民主主義であり、その為に民主主義は必要とされているのである。

人類の歴史においても、私たちの近代史においても、和らげられない緊張が断ち切れた時の痛ましい結果は、充分に経験済みだろう。そんな歴史のマゾヒズムに囚われる必要はない。これが解れば、民主主義を“壊れる前に柔軟性を持たせる方策”として受け入れることができるはずだ。

一方で、民主主義にも柔軟性の限界はある。この限界は、社会の発展性の度合いによって明らかにされる。民主的な発言は、社会の発展性を高める限りにおいて、政治的な過程に良い影響を与える。さもなければ、発言は無駄なものになるか、もっと悪いことに、発展性を低める要因になってしまう。

私は、民主主義の名において行われている国民国家の議論が、その限界に達したのではないかと考えている。そう考える大きな要因の一つは、統治イデオロギーのヘゲモニーとその抵抗であり、もう一つは、国民国家に対する批判がその説得力を失ってしまうのではないかという懸念である。

全ての社会的・政治的な問題の筆頭責任者は国民国家であると宣言し、頭が痛いのも国民国家の所為にしようとすれば、批判の説得力は失われ、これに反発する声の影響が広まってしまうだろう。現状で、トルコにおける国民国家の議論はこれに至っている。

国民国家への批判は、固定観念を打破し、国民国家に多く見られる硬直した差別的な態度と闘うことから始まったのであり、この為に重要な意味を持っていた。しかし、現状において、その言動は、国民国家の枠組み中で自分自身を定義している一般の人々を困惑させて喜んでいるような残虐性を帯びている。

先ず、「私たちの父祖はアルメニア人を殺しました。クルド人を弾圧しました。そもそも独立戦争なんて大したものじゃなかったのに大袈裟に誇張されているんです。もともと私たちは最悪の民族です。おそらく全世界に謝れば、まともな人間になれます」なんてことを朝から晩まで頭に刻み込んで改善された社会など何処にもない。

次に、国民国家を問質すことは、「巧く行かなかった。最初からやり直そう」などという軽い考えで出来るものではない。だから、「憲法の改正は、不変の条項も変える。そもそもいつかは変わるのだ」というような馬鹿げた背伸びはしなくても良い。

もちろん、如何なる国家においても、憲法やその条項は、昔からあったわけでも永遠に続くわけでもない。しかし、ある政治システムの骨組みをそっくり変えてしまうことは、民主主義でも改正でもないだろう。それは革命である。

私たちが望んでいるのは、そんな重大で高くつく断絶ではなく、柔軟な継続を実現することだ。断絶に至れば大変なことになってしまう。

最後に、流行が過ぎてしまった為、誰も国民国家の歴史的なプロセスにおける重要性を認めたがらないが、国民国家とは、伝統的な社会が良い意味で解体されて行く上でのプロセスである。そして、アフガニスタンやイラクで見られたように、このプロセスに逆行して、より抑圧的な社会へ戻ってしまう危険性も存在している。

その為、独占的、排他的、権威的な枠組みから脱け出せるなら、はっきり申し上げて、国民国家のモデルは今でも重要性を失っていないと私は思っている。

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原文
http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=RadikalYazarYazisi&Date=01.09.2009&ArticleID=952362

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