【213】さようならマモステ・アラム【ラディカル紙】【2009.08.27】

8月16日付けのラディカル紙日曜版より、フェスィフ・アルパグ氏の記事を訳してみました。表題に“マモステ・アラム”とありますが、マモステとは、クルド語で師匠という意味になるそうです。8月8日にアテネで亡くなったアルメニア人の歌手アラム・ディクラン氏を追悼する記事をトルコのクルド人映画制作者フェスィフ・アルパグ氏が寄稿しています。

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アラム・ディクラン(Aram Dikran)に初めて会ったのは、昨年の秋、イスティックラル通りでのことだった。私は、エリヴァン・ラジオに関するドキュメンタリー映画を撮る為、準備を始めていた。ラジオで活動した数多のミュージシャンの内、残念ながら、現存者は数名に過ぎなかったうえ、この企画で取り上げることになっていた最も重要なミュージシャンの一人は彼だったのである。

アテネに住んでいることが知られていたので、連絡を取ろうと思った矢先、彼はコンサートの為にトルコへやって来た。コンサートの数日前、取材を申し入れたところ、タクシムのテュネル辺りの楽器店でジュムブシュ(弦楽器の一種)を探すつもりだから、そこへ来るように言われた。

エリヴァン・ラジオで聴いていた忘れられない歌声、それに寄り添うジュムブシュ、アルバムに載っていた幾つかの写真、これらによって私は彼を記憶していた。その人物と生で会うことになるのだ。そして、私の前に、シックなスーツを着こなして気品のある70歳を過ぎた小柄な“青年”が現れた。

私は我を忘れたまま浮ついた調子で自己紹介し、企画について説明しながら、彼にとっては第二の亡命地であったエリヴァンから帰って来たばかりである旨を明らかにしたところ、彼はこれに喜んでくれた。何年も訪れていないエリヴァンの街、一緒に活動したミュージシャン、ラジオについて私から聴きだそうとした。

私がアテネの自宅における取材撮影を希望すると、彼はこれも快く了承したので、私たちはイスタンブールのコンサートやその準備風景を撮影した。その後、彼がディヤルバクルへ行ってからは、私たちの準備が整わなかったり、彼も忙しかったりして、なかなか会うことが出来なかった。これに予算の不足が重なり、取材は延び延びになってしまった。最後に彼がディヤルバクルで病に倒れると、最悪の事態を覚悟しなければならなかった。そして、ディヤルバクルでの治療が終わってアテネへ帰った彼の後を追い、私も慌ててアテネへ行こうとしていたところへ訃報が届いたのである。

彼を愛する多くの人々と同様に私もその死を受け入れることができない。『何故、映画の中にいなければならない彼の姿を撮ることができなかったのか?』と悔しくて堪らない気持ちだ。ドキュメンタリー制作者として時を捉えなければならなかったのに、何故、これほどまで無責任に過ごしてしまったのかと思う。自分なりの弁解は可能かもしれないが、マモステ・アラムに、そして彼を愛する人たちに謝罪しなければならないだろう。

彼はこの世を去ったが、私たちは大きな空白を残したまま映画の撮影を続けて行く。彼と初めて会った日に、私たちは悲しみを伝えるクラム(クルド語の弾き語りによる歌)よりも、人の心を活き活きさせる恋のクラムについて話し合った。映画でも悲しみより喜びを伝えるつもりだったのだ。しかし、またしても悲しみを分かち合うことになった。

この大地には、アラムの声を聴きながら育った三世代の人々がいる。彼の人生は、この大地の悲しい歴史そのものである。バットマン県のサソンにある村で暮らしていた彼の父は、1915年の迫害を逃れてシリアのクアミシロに落ち延びることができた数名の村人の一人だった。アラムは、1934年にクアミシロで生まれ、15歳の時には、結婚式や祝祭、酒の席でジュムブシュを弾きながらクラムを歌うミュージシャンとなり、少しずつ民衆の間にその名が知られるようになって行った。

元来はアルメニア人であるアラムだが、家族の他の面々と同様に、クルド語を母語のように話すことができた。最初の頃はクルド語だけで歌い、それからレパートリーにアルメニア語も加わり、その後はトルコ語やアラビア語でも歌うようになった。60年代、シリアでは既に良く知られた歌手であり、他の国々のクルド人の間にもその名声は知れ渡った。

その頃、ソビエト政府はアルメニア共和国の国営ラジオ局に、世界初のクルド語ラジオ放送となるイエレヴァン(Yerevan)・ラジオを創設したが、これはラジオの運営者たちとアラムの希望により、エリヴァン(Erivan)に改められる。クルド語で口笛を吹くことさえ禁じられた時代だった。しかし、ラジオの電波は国境を越えてしまう。規制したところで全ては防げない。秘かに聴かれていたこのラジオは、毎日2時間の放送により、クルド人の為の“礼拝”“癒し”“存在意義”となった。

国境を越えるラジオから、その歌声やジュムブシュの響きが伝わり、アラム・ディクランの伝説が始まる。瞬く間に民衆の心をつかみ、そのクラムは人々の間に広まり、“Ey Dilbere(美しい女よ)”の歌は俗に言う“ヒット”となった。

当時、アルバムを作ることは殆ど不可能だった。しかし、特にトルコでは、ラジオから録音されたクラムが家々やレコード店に集められ、秘かに売られていた。こうして作られた10種類ぐらいのカセット・テープが人々の手から手へ渡りながら中東の各地域を廻ることになる。

60年に亘るミュージシャン活動で、400に近いクラムを歌ったが、残念ながら、この名匠の僅かな作品が近年になってからプロのスタジオで録音されアルバムとなったに過ぎない。そして、シワン・ペルウェル(Siwan Perwer)やジワン・ハジョ(Ciwan Haco)を始めとする多くのクルド人ミュージシャンが彼のクラムを歌った。

90年代になってソビエトが崩壊すると、アラムは第三の亡命地となるアテネへ渡る。人間はひとたびルーツから切り離されると何処にも定住できなくなってしまう。しかし、ようやく、何年も亡命者として暮らしたギリシャから恋焦がれた父祖の大地へ赴くチャンスが訪れる。パスポートを受け取って渡航の自由を手にするや、最初の願いを実現させて、父が生まれた大地へ向かった。

イスタンブールとディヤルバクルでコンサートを開くと、その歌声に魅了された多くのファンが、シンプルで哀愁を帯びたアラムの声を聴きにコンサート会場へ押し寄せた。

しかし、コンサートの舞台では垣間見せることもなかったが、既に老境と病が彼を蝕んでいた。まるで“Ey Dilbere(美しい女よ)”で歌われたように。「美しい女よ嘆くな、フェキエ・タイランは既に年老いた、弱りきった病人なのだ」。

ディクランの音楽を聴きたい方には、2002年にコム・ミュージックから出た“Evina Feqiye Teyran”というアルバムを勧めたい。

最近、我が国では、皆が「良くなるだろう」と言っている。もちろん私も皆と同じように期待している。しかし、いつもそうだったように、今回も乗り遅れてしまうような気がしてならない。亡命を余儀なくされた素晴らしい人たちの死は、私たちを酷く悲しませる。最後にメフメドゥ・ウズンを生まれた大地へ葬ることが出来たけれど、アラムにはそれも叶わなかった。

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原文


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