【210】トルコのニューハーフ【ミリエト紙】【2009.01.06】

1月4日付けのミリエト紙日曜版より、ファティフ・テュルクメンオウル氏のコラム。イスタンブールで暮らしているニューハーフのエスメライさんにインタビューを試みています。

****

ニューハーフのエスメライは、かつてセックス産業に従事していた。今は夜のベイオウル街で“ムール貝のピラフ詰め”を売り、“魔女の風呂敷”というコメディー・ショーの舞台に立ったりもする。

エスメライは、インタビューの為に約束した場所へ1時間遅れてやって来た。私とカメラマンのエルジャン・アスランに頬を向け、「謝罪しなければなりません。ぶって私を許して下さい」と言い、それから、半ば色が落ちたマニキュアの長い爪でビニール袋を開き、「見て下さい。友人に息子が生まれたので、ネッカチーフに帽子を編んでいたんです。夜なべして編んでいたものだから起きられませんでした」と言いながら編み物を見せてくれた。

年明けのこの日、エスメライは自身に関する全てを明らかにする為、私の前に姿を現したのである。


Q:周辺から世間の圧迫というものを感じますか?

A:いつの時代も同じでした。“拷問のスレイマン刑事”が活躍したのは、AKP政権の時代じゃありません。「AKP政権になったら、“世間の圧力”が始まった」というのは非常に間違っています。今、一人のニューハーフが、AKP(公正発展党)やCHP(共和人民党)へ“仕事が欲しい”と頼みに行ったところで、どちらの党も聞いてくれません。それどころか、AKPの時代になって圧迫が少なくなったと言うことさえ可能です。これは政党じゃなくて思考方式の問題ですよ。

Q:独りで暮らしているんですか?

A:独り暮らしです。男の友達はいません。恋人がいない為に悩んだことはありません。人間は独りになる必要もあります。私は人生を楽しんでいますよ。

Q:今は“ムール貝のピラフ詰め”を売ったり、舞台に立ったりしてますね?

A:両方とも続けています。ムール貝を売っている時に嫌がらせを受けたことはありません。ただ、ある少年が「お姉ちゃん、頼みがあるんだけれど」と言い寄ってきたことはあります。「何なの?」と訊いたら、「セックス」と言うんですね・・・君は狂っているの? 私はニューハーフよ、解るけれど・・・次の日、その少年が来て私に謝りましたよ。それから、週に2回ぐらい来るようになり、時々、お喋りしています。その少年と友達になったんですね。

Q:将来は?

A:「家があって、夫がいて、車もあって」なんてことは望んでいません。あっても良いけれど。しかし、不安は大きいですね。社会的な不安があります。テレビで女性の為の番組を観ると裁縫をやっていたりしますよね。夕方、他の番組を観たら、ある男が自分の妻を17箇所も刺して殺していたりします。外国へ行きたいとも、他の都市へ行きたいとも思っていません。今暮らしている所で生きて行きたいと思っています。私はスピーチの為にドイツへ行ったりしていますよ。あそこだって楽園じゃありません。警官の暴力はあるし、ニューハーフは売春しています。

Q:現在、セックス産業に従事していないニューハーフがいることに、人々は喜んでいますよ。

A:私を見て、地面に唾を吐いたりしている人たちまで、「良かったな」と言ってますよ。大袈裟なことを言う人もいますね、「ほら見なさい。この人は救われたよ。他の連中も救えるはずだ」なんて考えたりしているんです。それじゃあ、セックス産業はニューハーフの罪ですか。私は今ムール貝を売っている街角の人たちと皆仲良くやっていますよ。バーのボディガードたちは私のことも守ってくれます。ある面、私はその街角の名物にもなっているんですね

Q:“名誉の殺人”はニューハーフに対しても行なわれますか?

A:「家族が私を見つけ出して殺すだろう」という恐怖は、全てのニューハーフ、同性愛者にあります。“名誉の殺人”も発生しています。実際、ウルファ(訳注:南東部地方の県)出身の友人は捕まえられて連れ戻され、手足を縛られたそうです。でも、部族会議が開かれた末、「これを殺すのは止めよう。こいつは女じゃない。殺したら、ニューハーフであることを認めたことになる」という結果が出たと言います。つまり、私たちは殺すにも値しないと思われたんですね。私たちは余りにも名誉を汚してしまったから、もう清めることはできないと言うのでしょう。

Q:どういう経緯で舞台に立つようになりましたか?

A:10年ほど前、セックス産業から足を洗いました。友人たちは誰も私に仕事をくれませんでした。カフェテリアでウェイターも出来たし、厨房で働くこともできたのに・・・。大変でしたよ。家でパイを作って売ったり、ショールを編んで売ったりしました。あの頃、周囲の人々の二面性を知りましたね。ある時、大家さんが“ムール貝のピラフ詰め”を持って来て、「おい、これを売って来い」と言うんです。そうやって無理強いされてムール貝を売り始めました。その頃、人々は私の物真似の才能に気づいたんですね。村の結婚式で、子供の頃から物真似をやっていましたよ。私もこう叫びたいです。「こんな道があっても良いだろう」って。

Q:練習したりしなかったんですか?

A:プロデューサーをやっている友達と一緒にショーの骨組みを作り上げたんです。女優のアイチャ・ダムガジュも私の友達です。彼女とは1ヵ月一緒にやりました。アイチャは私に舞台の使い方を教えてくれたんです。下ネタは使わないようにして、罵詈雑言の無いショーを作りました。ジャーレ・カラベキルとも1ヵ月やっています。ショーの名前も付けましたね。“魔女の風呂敷”。ビルギ大学の試演会では、300人の会場に800人も入ったんですよ。

Q:地方巡業にも出ましたね?

A:ディヤルバクル(訳注:南東部地方の県)まで行きましたよ。この前は、ミマル・シナン大学で、学生たちが私に「先生」と声をかけたんです。社会学を学ぶ学生たちは、私や舞台のことをとても良く理解してくれました。私は小学校しか出ていないのに、彼らは私を「先生」と言うんですから・・・。

Q:舞台は続けるんですか?

A:“魔女の風呂敷”が巡業に出た時は、名前も“魔女の風呂敷、旅に出る”でした。イスタンブールでは違う舞台をやりますよ。多分、“魔女の風呂敷、逗留中”。

Q:エスメライは本当の名前じゃないでしょう?

A:もう私の名前はエスメライですよ。もう一つの名前は私も忘れました。1972年にカルス(訳注:トルコ最東部の県)で生まれて、15歳の時、イスタンブールへ出てきました。18歳の時以来、カルスには行ってません。私の場合、社会から疎外されるような条件が全て揃っていますよね。“女”“クルド人”“色黒”“フェミニスト”・・・。

Q:家族は? ご両親は?

A:お母さんとは時々会っています。父とは20年来、全く会っていません。6人兄弟です。女兄弟とは会っていますよ。皆、結婚して家族もあります。兄たちとはもともと仲が良くありません。それで傷ついたこともないです。

Q:何歳の時、イスタンブールに出て来たんでしたっけ?

A:15歳です。どんな仕事でもしました。イスタンブールは私を救ってくれる、そう考えていました。私は7歳まで自分のことを女の子だと思っていたんです。違っていたんですね。男が好きであることに気がつきました。イスタンブールでは、まず母方の叔父さんの家に住まわせてもらってペンキ屋の仕事をしました。それから、レストランでも働いたけれど、ずっと嫌がらせを受けました。16歳の時に、同性愛者のグループと知り合い、18歳でニューハーフとなる決意をしたんです。そして女性のような身なりで出歩くようになったのです。

Q:しかし、性転換の手術はしていませんよね?

A:そうです。心理的にはいつでも受け入れられる状態だったけれど、経済的な問題を解決できませんでした。ある日、スカートを穿いて街に出ました。家族の援助がなく、教育もなく、家もなければ、辿り着くところは一つしかありません。セックス産業です。他の道はありません。

Q:今度は、そこでも他の闘いが始まったんですね?

A:とても厳しい闘いです。まず、名誉の問題を考えなければなりませんでした。私は封建的な構造の中で育ったんです。骨の髄までしみついた“男と女の役割”であるとか名誉の概念を消し去ることは不可能でした。最初は、「昔のメフメットは死んだ。もうエスメライになるんだ」と言ったものです。しかし、あの仕事は全く好きになれませんでした。そして5年間苦しんだんです。「ここからどうやって脱け出すこと出来るのだろう?」と考えました。

Q:5年間も?

A:そうです。タルラバシュ、メルテル、ハルビエ、至る所で働きました。その当時はインターネットなんてありませんでした。今、セックス産業は、皆、インターネットでやるようになっています。私は警官のありとあらゆる暴力にさらされました。拘留されたり、髪を切られたり。辛かったです。その頃、女とは何であるか解ったんです。

Q:女とは?

A:ある日、引越しをしていたんです。机が一つ残っていたんで、私がそれを持ち上げたら、引越し屋の人が来て、彼は「姉ちゃん、止めなさい。腰を痛めるよ」と言いましたね。

Q:でも、それは女性を尊重したからじゃありませんか?

A:違いますよ。全く逆に、男の力を強調しようとしたんです。私はその日以来、それを克服しようとして来ました。プナル・セルチュクと知り合いました。アトリエでの経緯はたくさん書かれていますよね。街角に捨てられた物を集めて来て、色んな物を作りました。それから、本を読み始めたんです。少し自分を発展させることができましたね。その後、“自由と連帯の党”のメンバーになりました。

Q:“自由と連帯の党”の経験は貴方にとって幸せなものでしたか?

A:最初はそう感じましたね。後から、あそこも天国ではないことが解りました。左派の政党でしょ。何人かはクルド人やアルメニア人もいて、少しニューハーフも・・・。そういう風に考えているんですね。平等なんかありませんよ。ガザは破壊されてしまいましたよね。平等は何処にあるんでしょう? 何処でも同じです。社会的な転換を迎えなければ、平等について語ることは不可能でしょう。

Q:ディヤルバクルで、“娘シャーバン”と呼ばれていたシャーバン・チェレンが殺されてしまったのは知っていますね?

A:えっ? シャーバン姉さんが、ディヤルバクルのシャーバン姉さんが? ああ、シャーバン姉さんが亡くなったとは、今初めて聞きました。ニューハーフはたくさん殺されていますから・・・。とても愛されていましたよ・・・。私も知り合ってとても好きになりました。

Q:“娘シャーバン”は、南東部で同性愛者として生き続けたわけですから、それは容易なことじゃなかったでしょう?

A:いや、ある同性愛者がディヤルバクルやハッカリの街を出歩いたところで何にも起こりませんよ。内部アナトリアのが厳しいでしょうね、石を投げられますよ。私は南東部にそれほど問題はないと思っています。イスタンブールのようなもんです。私がディヤルバクルでショーをやった時、会場は満員の盛況でしたよ。しかし、ニーデとかヨズガット(訳注:いずれも内部アナトリアの県)へ行ったら、どうなることやら解りません。

****

原文
http://www.milliyet.com.tr:80/Pazar/HaberDetay.aspx?aType=HaberDetay&Kategori=pazar&KategoriID=26&ArticleID=1042421&Date=04.01.2009&b=“O%20kadar%20namussuzuz%20ki,%20tore%20cinayetine%20bile%20layik%20degiliz”&ver=93

▲トップページ
▲前の記事
▲次の記事
▲トルコの新聞記事INDEX