【209】人類初の共通の祝祭【ラディカル紙】【2009.01.02】

1月1日のラディカル紙よりテュルケル・アルカン氏のコラム。グレゴリオ暦の新年は異教徒の祝祭であるとして、これを祝うべきではないと主張する一部のイスラム主義者に対し、アルカン氏は皮肉を交えながら、この主張を批判しています。

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私たちが新年を祝っていることに、彼らは相当腹を立てているようである。モスクでは、「異教徒の習俗を祝ってはならない」と説教している。新聞では、「あの異教徒の祝祭を私も祝わなければならないのか?」と問いかけた後、文学的に研ぎ澄まされた言葉で襲い掛かる。「出て行け糞ったれ、知ったかぶりの裏切り者め・・・」と。

しかし、新年はやって来るし、我国ばかりでなく、世界中で驚くべき熱狂の中に祝福されている。太平洋の小さな島から始まり、新年の最初の日は次々に世界を照らすのである。

“グローバリズム”と言われる現象をもっと巧く表しているものが他にあるだろうか? 国家の力、人々の種族や宗教を問わず、あらゆる国と民族が新年を同じような熱気で祝い、世界の人々がお互いに手を差し伸べ合い、お互いに喝采し合っている。

国ごとに宗教や固有の祝祭があり、同じ宗教を信じる人たちは、民族の相違を問わず、同時に同じ祝祭を祝っている。ラマダン祭はムスリムの為、クリスマスはクリスチャンの為に神聖であり、その信者によって祝福される。

しかし、新年には、こういった神聖なものであるという主張がない。民族固有の祝祭でもない。ところが、最近は特に世界中で熱狂的に祝福されている。宗教や民族を問わないこの祝祭は、人類共通の熱狂を表し、世俗的であり、民族的ではない。

これは、グローバリズムが到達した、あるいは到達し得る次元について、何らかのヒントを与えている点において重要だろう。

新年に腹を立てて罵倒している人々は、自分たちの観点からすれば正しいかもしれない。信仰し、崇拝している価値観が徐々に影響力を失い、通用しなくなって来ている状況を目の当たりにするのは、もちろん不愉快だろう。

しかし、一方で次のことを忘れてはならない。

信仰し、崇拝している価値観が、空虚なところに成り立つことはない。テクノロジーの発展段階、経済構造、手にした知識は世界を理解する上でどれほど有効か、地政学的な立場は・・・、こういった全てのことが、私たちの価値観が形作られ、発展し、変化して行く為に役立っている。

如何なる価値体系も変化を経ずして永久に残ることはできない。社会、経済、テクノロジー、そして科学の変遷に伴い、時にはゆっくりと、時には速やかに私たちの価値観も変化する。

教育が普及し、テレビ、パソコン、インターネットが通信の分野で革命を起こし、航空機で数時間の内に遥か彼方まで行けるようになったこの地球で、消費の習慣が広がり、経済や相場がお互いに影響しあっているこの世の中で、新年とは、暦の上で新しい年になるだけではないはずだと私は思う。

既に、新年は人類共通の価値となっている。一種の世俗的な祝祭・・・。

固有の価値観と新しい世界的な価値観が衝突したらどうなるだろうか? もちろん、不愉快なことになるだろう。タクシム広場でツーリストの女性たちを玩弄するような・・・。

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参考:【180】タクシム広場の新年【ラディカル紙】【2008.01.06】
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00180.html


原文
http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=YazarYazisi&ArticleID=915089&Yazar=%20&Date=02.01.2009&PAGE=

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