【206】犠牲祭【ラディカル紙】【2008.12.10】

12月9日付けのラディカル紙よりヌライ・メルト氏のコラム。犠牲祭における生贄の問題が論じられています。

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この祝祭(バイラム)は、砂糖祭とかラマダン祭と呼ばれている他の祝祭とは異なり、“生贄”という複雑な問題を含んでいる。数多の宗教学者、一方では数多の人類学者が、“生贄”について様々な説を語った後で、私は何か申し上げる立場にない。その為、ただ複雑な問題であると言うだけに留めたい。それでも、平凡な人間として、この複雑なテーマを少しでも考える為に、祝祭は良い機会じゃないかと思う。

屠殺人の手から逃れた牛、追いかける人々を嫌な目で見たり、生贄の屠り方に近代的な解決を求めることでこの問題は終らない。結果として、如何なる方法であろうとも動物は殺され、我々はそれを美味しく頂くのである。

実を言えば、私はそれほど美味しく頂いていない。数年来、ベジタリアンに近い状態である。昔から肉料理は好きじゃなかった。「肉は殺人である(Meat is murder)」というベジタリアンのスローガンが脳裏から離れることはない。

子供の頃に、犠牲祭がトラウマになったというわけではない。いとおしんで育てた子羊が屠られるような場面には遭遇しなかった。生贄を提供するけれど、決してこれに立ち会うことはない“文明的”な環境で、私は育ったのである。

モダンな文明と言われるものは、ある側面、こういった偽善的な状態のことではないだろうか? 肉、それも生肉に近いような肉の料理(ローストビーフ、燻製肉、タルタルステーキ)を食べながら、一つの命が失われたことは全く考えないように努める。問題はここに始まって、人間の死に対する態度にまで至る。モダンな人間として、死を頭の片隅から遠ざける為に、あらゆる方法を駆使する。もっと悪いことには、人の命を奪う戦争について正しく追究する代わりに、“戦争反対”と言って自分自身を慰めようとする。

死をもっと真摯に考えていれば、こういう風にはならなかっただろう。戦争は、数人の狂った、或いは悪質な政治家の所業であるという虚構に逃げ込もうとしなければ、自分自身の責任にもっと気がついただろう。ある人々(我々も含む)が、より快適な生活を営む為の代償を、他の人々が貧困と挙句の果てには命によって支払っている連鎖の中にいることを考えなければ、我々を悩ませている状況は変わらないだろう。

人間の存在には暗い面がある。モダンな文明は、ある意味、この暗い側面を遠ざけることによって成り立った。しかし、この暗い側面に目を向けなければ、モダンな文明が約束した、暴力と抑圧のない、あるいは最低のレベルに引き下げられた世界を築くことは不可能である。

宗教的な教えは、今日まで、人間の暗い側面を口実にした抑圧的な社会秩序を正当化する為に使われてきた。何もこうなる必要はないが、人間の暗い側面を我々に思い起こさせる警告の声として宗教は必要とされている。少なくとも信仰している我々は、このように考えるのである。

我々の暗い側面を見ずして啓蒙を望んでも、それは役に立たなかった。暗い側面と向き合ってこそ、それを超克することが出来るだろう。犠牲祭は、こういった全ての事柄をもう一度考えて見る為に良い機会である。それはさておき、皆さんの心をこれ以上暗くする前に、「犠牲祭おめでとう」と申し上げて、この文を終わりにしたい。

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原文

http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=YazarYazisi&ArticleID=912002&Yazar=NURAY%20MERT&Date=10.12.2008&CategoryID=98

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