【205】ブック・フェアの後に【ザマン紙】【2008.11.12】

11月11日付けのザマン紙よりエリフ・シャファック氏のコラム。気鋭の女流作家エリフ・シャファック氏がイスタンブールで開催されたブックフェアを訪れた際の思い出、そして読者と作家の関係について語っています。なかなか文学的な文章でもあり、巧く正確には訳し切れなかったかもしれません。

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また、TUYAP開催のブック・フェアが始まり、そして終った。なにしろこの時代のことだから、もの凄い速さで。フェアの最終日、私がスピーチとサイン会の為に訪れると、会場を埋めた人々はにこやかに私を迎えてくれた。

今までに参加したどの文学イベントにおいても、聴衆は、あらゆる年齢層、職業から成り立っていた。しかし、今回は圧倒的に若い人たち多かった。高校、大学、大学院まで含めて・・・。好奇心に溢れ、話好きで、分かち合う気持ち、興味、愛情に満ちた人たち・・・。読書を愛し、好きな本についてなら書き手よりも良く知っている人たち。作家を入念に選び、辛抱強く追いかけ、文学上の冒険において作家と共に歩む人たち。つまり、全ての作家が望んでやまない読者の顔がそこにあった。

どのくらい読まれているのか露ほども気にしていないと言い張り、たくさん読まれている本に対し、「これは皆、ポピュラーな文学だ。ポピュラーな全てものは下らない」と鼻であしらう作家たちなんて信じられない。如何なる作家も読まれたいと望む。そして、如何なる作家も、より多くの人に読んでもらいたいと望むのである。この逆は見たこともないし経験もない。しかし、聞いたことはある。それも何度となく。聞いたけれど信じてはいない。

何故なら、いにしえより通用してきた法則があるからだ。全ての作家はその核心において語り部である。そして話を語る人は、−最も伝統的な社会から最も近代的な社会に至るまで−聞き手であり受け手でもある。つまり話し相手を求めている。さもなければ、何故、その話を言葉にして語る必要があるのか? もしも、ある話を語っているのに、聞いている人がいなければ、その言葉は思いを果たせないだろう。本を存在させているのは読者であり、作家ではない。そして、全ての作家がこれを知っている。言葉の達人は、言葉の不在を恐れる。しかし実のところ、読者の不在は、少なくともそれと同じくらい恐ろしいことだ。悪夢である。

一方で、ただひたすら読者から好かれるように書き、それによって物語を選ぶ。これほど作家を酷く毒してしまう“欲の戯れ”も他にないだろう。読まれ気に入られたいという願望が、如何に芸術家に特有のものであるならば、読まれ気に入られたいという願望に動かされて書くことも、同じくらい芸術に反するものだ。作品で取引してはならない。ある小説のテーマ、キャラクター、言葉、あるいは結末を取引によって成り立たせてはならない。それでは立ち行かなくなってしまう。微妙なバランスが必要だ。作家は書いている時に、なるべく読者を考えるべきではない。読者が何を望んでいるのかは隅に押しやり、真摯な、そして誠意に満ちた想像力を沸き立たせて、ひた走るのである。しかし、筆を置き、物語が終った後、作家はもちろん読者を求め、考え、大切にしなければならない。

年を経るに従い、各国の文学事情を比較するたびに、段々と強まってきた思いがある。私たちの社会には何とダイナミックで感情的な文学の読者たちがいるのか。これは僅かな国々にしか見られない状況だろう。この大地には言葉の魔術がある。私たちは一つの小説を気に入れば、父母、親戚、親しい友人たちに必ず読ませたいと思う。最も孤独な芸術である小説を他者と分かち合うのだ。本は手から手へ渡り、ページにはその跡が残る。如何に近代化されようとも、如何に西欧化しようとも、何があろうとも、私たちは未だに、焚火やストーブ、あるいは炉端を皆で囲み、煙草を燻らせ、コーヒーを啜り、冬の夜に身を寄せ合いながら、子供のような好奇心で語り部の話に耳を傾けた父祖たちの古い雄大な語りの伝統から遠ざかっていない。それほど物語を愛している。

読者たちと語り合った後はサイン会になったけれど、2時に会場へ着き、5時間後にやっと会場を後にした時は、身に着けていた指輪もマフラーもブレスレットも何も残っていなかった。皆、読者たちが持って行ってしまったのだ。その代わりに、私のもとへ読者たちがくれたマフラー、ブレスレット、指輪、土産物、手紙、名刺、写真、そして何よりも大切な微笑みが残った。有り難き読者よ。君がいなければ文学もないだろう。

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原文
http://www.zaman.com.tr/yazar.do?yazino=759010

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