【203】アタテュルクと国民【ヴァタン紙】【2008.11.10】

11月8日付けのヴァタン紙より、ズルフ・リヴァネリ氏のコラム。リヴァネリ氏は、トルコにもともとアタテュルクの改革を受け入れる土壌があったと論じています。リヴァネリ氏については以下のサイトを御参照下さい。

http://www.geocities.jp/livanelistkyj/

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数年前、欧州“緑の党”の大会がイスタンブールで開催された。この時、ドイツの外相だったJoschka Fisher(ヨシュカ・フィッシャー)やJoost Lagendijk、Daniel Cohn Bendit、Olli Rehnといった影響力のある政治家が名を連ねた会議の提言者の中に私もいた。

私はその提言の一部で、以下のような見方を明らかにした。「皆さんにお願いしたい、どうかトルコをもっと理解するように努めて下さい。もしも、次のように考えているのであれば、これは全く間違っています。あるイスラムの国へ、いつの日か西からブロンズの髪を持った男が現れ、その国の言葉、宗教、習俗、生活スタイルを変えてしまった。これは実に大雑把な見方で、歴史や社会学に基づいていません。私たちは250年に亘って西欧化の努力を続けて来たのです」。

それから、この西欧化への努力を実証する例を挙げて見せた。

ところが、今、周囲を見るならば、トルコにもそういった幼稚で何の合理性も見られない意見を述べる人たちがいるのである。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、サロニカにおける革命思想、イスタンブールの自由主義運動、ナムク・ケマルやテヴィフィック・フィクレットの薫陶を受けている。

御存知のように西欧化運動はそれ以前から始まっていた。例えば、アブドュルハミト帝の時代には、それまでに発行された翻訳書の総数を上回る西欧の書物が発行されている。また、文字を解り易くする努力もこの時代に始まり、エンヴェル・パシャによって実践されたほどである。

オスマン語をラテン文字で表す試みは、当時の大きな関心事の一つだった。修道院でラテン文字によるトルコ語の新聞が発行されたことが知られている。そして、最も大事なのは、オスマン帝国やアナトリアにおけるイスラム思想がアラブのものとは異なっていたことだ。

民衆が育んで来たこの文化により、変革は可能となったのである。

ムスタファ・ケマルは、自由主義と近代化運動の創始者ではなく、その意志によってこの運動を頂点に導いた指導者だった。

私が何を言いたいのか理解して頂く為に、ここで一つの例を示してみたいと思う。

1928年、アフガニスタンの国王アマーヌッラー・ハーンはアンカラを訪れ、アタテュルクの改革運動に感銘を受けた為、「帰国したら、私もアフガニスタンで君と同じ改革を行なおう」と言った。「国民議会を開き、スカーフを外させ、西洋の帽子を被らせよう」。

ムスタファ・ケマルは、彼に焦らないように勧め、こう言った。「アフガンの民衆はトルコの国民と比較にならない。アフガンの民衆へ直ぐに帽子を被らせ、スカーフを外させることは出来ないだろう。君のところの国民は、未だそれを受け入れる段階へ至っていない。絶対に焦ってはいけない。王座と王政を失ってしまうだろう。これは見た目ほど容易いことじゃない」。

アフガン国王はアタテュルクの忠告を聞かずに、スカーフや帽子に取り組んだ為、勃発した反乱により、王座を失ってしまう。

2008年において、トルコの民衆とアフガンの民衆との違いは明らかだろう。

要するに、ムスタファ・ケマル将軍は、秀でた意志の力により、この国の知性のエネルギーを動かし、救国戦線と改革を成功させたのである。

忘れてはならないが、分散し潜在的であるにせよ、このエネルギーは今も存在している。トルコは他のイスラム諸国とは異なっていた。

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原文


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