【195】無認可のコーラン教室【ラディカル紙】【2008.08.11】

8月10日付けのラディカル紙日曜版より、メフメット・アリ・ギョカチト氏のコラム。不法のコーラン教室の問題をさらに掘り下げて論じています。

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昨年、TESEV(トルコ経済社会研究基金)が主催した宗教教育に関する会議で発言した際、コーラン教室も他の教育機関と同じようにチェックしなければならないと申し上げ、現状において、問題となっているコーラン教室は“月の暗い面”であると表現した。そう表現したのは、否定的に見ようという意味ではなく、実態が知らされていないことを強調しようとしたからである。

先週、コンヤ県タシケント郡のバルジュラルで、ガス漏れに起因する事故から教室のビルが崩壊、18名の若人が亡くなったことにより、この問題は再び議論を呼んでいる。しかしながら、双方が周知のきまり文句を繰り返すだけで、議論はその先へ進まないように見える。

ここで次のように問う必要はないだろうか? どのような人たちが教室へ子供たちを預けているのか? 何故、預けているのか? トルコの農村地域では、如何なる社会構造が支配的なのか? これらの教室は、言われているように危険なものなのか? もしも、そうであれば、その危険は何であるのか、どのレベルに達しているのか?

こういった問いに答えるのは容易くないだろう。しかし、問題を理解する為にはこれから始めなければならない。

共和国が成立する以前、中央と地方の間に、社会的・文化的な関係をもたらしていたメカニズムの筆頭にタリーカ(神秘主義教団)がある。口伝の文化に依存していた伝統的なオスマン帝国社会の価値観は、こういった機構を通じて生かされていた。

共和国が成立した後は、これが禁止となり、完全に消滅したと看做されていた。その空白を近代的な機構が埋めることになっていたのである。しかし、そうはならなかった。タリーカの一部は独自の様式を保ったまま、一部は時代の条件に合わせながら、トルコの地方において存在を維持し続けた。考えられているように地下へ潜ったりしたわけでもない。

新しい秩序、革命が地方まで浸透していないことに気がついた時は、既に少し手遅れだった。中央が地方を近代化させる為に農村研究所を設立した時は、その施設数の不足と民衆の反感により、何かを変える力が欠けていた。要するに、問題は今日になって始まったものではない。共和国の歴史と共に存在していた。だから、「見なさい、AKP政権のもとに我国はどうなってしまったのか?」と言ったところで始まらないのである。

社会的・文化的に感化させることが出来なかった地方の層が都市へ流入してきた為、新しい問題に直面する過程で、さらに国の社会保障的な面が薄れた場合、目前に現れる光景は想像がつくだろう。リベラルな政治により、自活するように求められた人々が、この条件のもとで頼ることが可能な唯一の存在であるジェマート(宗教集団)やタリーカに導かれるのは、実に自然な成り行きである。

これは単に無認可のコーラン教室の問題ではない。国の社会保障が存在しない場合、人々は、援助団体、学生寮、塾、保健組織、慈善食堂、教室などに導かれざるを得ないという現実から見て行かなければならない。社会的、経済的な社会の様相と共に問題を捉える必要がある。そうしなければ、亡くなった子供たちの家族が、なぜ事件を信心によって受け入れ、ジェマートやコーラン教室の運営者たちを全く非難しようとしなかったのかが理解できないからだ。

問題の教室(ここでは寮付きの教室を意味している)は、地方においても大都市においても、80年代までは男子の生徒を主体としていた。ここで注意しなければならないのは、こういった教室が公立の導師養成学校とは異なり、理論と共に実践も含んでいることから、宗教に携わる者たちが実際の教育を受ける所になっていた点だ。

さらに、これらの教室では、一つの生き方が全ての規則によって実践されるので、そのタリーカやジェマートの思想を日常生活の実践から理解し内面化させる為に役立つ。その多くは地方の農村出身で経済的に貧しい人々が教育を受けている教室は、こういった点から見て、トルコで宗教に携わる者を育てる苗床のようになっている。

トルコで、タリーカやジェマートに支配されているモスクは意外に僅かなものでしかない。しかし、宗教に携わる者たちの多くが、最初に教育を受ける教室は、その殆どがタリーカやジェマートによって運営されているのである。この為、教室の管理者や先生は、そのタリーカやジェマートのメンバーであることが知られている。これは、コーランや宗教の教育とは別に、若者たちをタリーカやジェマートに獲得する為の教唆、誘導に対してオープンになっていることを意味する。問題は、この点から見て行かなければならない。

その多くが教育機関としての条件を満たしていない、こういったジェマートに属する教室は、キャパシティー以上の生徒を受け入れていることが知られている。また、教室が外の世界から遮断されているばかりでなく、管理者や先生が教育学の知識に欠け、宗教教育においても充分ではないことを見た場合、それが何を意味しているのか、もう一度考えて見なければならないだろう。

近年になって、女子の生徒も多くなり、敬虔な人たちにとって、一種の社会生活の場となっているこの類いの教室は、真の宗教教育を与えるには程遠いばかりか、多くの例で見られるように、若者たちの精神における様々な問題の原因となっていることも申し上げる必要がある。

社会保障の問題と同様に、国はこの面でも義務を疎かにしてはならない。子供たちの宗教教育を望んでいる人々へ、健全な内容のある宗教教育を実施できる環境を整えなければならないだろう。

忘れてならないのは、この活動が空白を埋めていないことだ。

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原文
http://www.radikal.com.tr/Default.aspx?aType=EklerDetay&ArticleID=893070&Date=16.08.2008&CategoryID=42

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