【189】豚肉は何故禁忌なのか?(2)【ザマン紙】【2008.07.29】

7月24日付けのザマン紙よりアフメット・クルジャン氏のコラム。2回に亘り、ムスリムにとって“豚肉は何故禁忌なのか”が詳細に説き明かされています。

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前回、“フスン−クブフ(良−悪)”の視点から豚肉の禁忌を検証しようとした。神から命じられた、或いは禁止された行いは、人にとって良いことなのか悪いことなのか? それとも、これらの良悪は、神の命令に基づいて考えなければならないのか? 例えば、前回、言及した姦通という行為は、人にとって悪いことだから禁止されたのか、それとも、神が禁じたから悪いことなのか?

イスラムの学者たちは、この問題について二つの異なる見方を提唱している。アシュアリー派は、「良悪は神の命令と禁止に基づく。神が命じるならば、命じたから良いのであり、神が禁じるのであれば、禁じたから悪いのである。人の個性は全く考慮されない」と言う。マートゥリーディー派は、「人の個性による良悪である。知性はこれを理解できる。神はその行いが良いから命じた、悪いから禁じたのである」というように考える。

出来るだけ短く要約したこの二つの説を、豚肉の禁忌に適用した場合、次の結果が得られる。「神が禁じたから豚肉は悪いのである。或いは、豚肉は人に害を与える、悪い、神はその為に禁じたのである」。

但し、一部のイスラム法学者はこれに次のような説明を付け加える。「神の命令が人にとって良く、禁忌が人にとって悪いということは必要にならない。何故なら、神は太古のそして永遠の科学により、命じたことや禁じたことの良悪を御存知であるからだ」。

最初の分析においても、付け加えられた説明においても、結果として何かが変わる訳ではない。豚肉は禁忌なのである。

この結果により、神の命令と禁忌の理由が示される示されないといった結果を得ようとすべきではない。歴史を通して、神の命令と禁忌の問題がイスラム学者たちにより議論されてきた。“イスラム法の目的、立法の意思、法の解釈”という表題のもとに前述の議論が記録されている。それどころか、今日、これらは方法論の中で独立した表題となり、数多の博士・修士論文のテーマになっている。

そもそも他に考えようがない。何故なら宗教は、「人間に利益のあるものを招き、害になるものを追い払う」という意味の重要性によってもたらされたからだ。その為、神の命令と禁忌が人間たちへ、現世と来世へもたらした事柄を検証するのは非常に自然なことである。この観点から、マートゥリーディー派の知性に中心的な役割を与えるアプローチは非常に重要だ。科学を志す者へ研究の精神と勇気を与える。知性を開放し、一部の宗教に見られるドグマに対しては、全ての門が閉ざされる。

さて、注意して頂けるならば、始めからここまで、豚と言われた場合、殆ど全ての人が知っている事柄には一言も触れていないのである。つまり、脂身の多い肉、これによる動脈硬化、血圧の上昇、心筋梗塞の原因になること、成長ホルモンの過剰、これが人体へ与える害、旋毛虫に旋毛虫症という病気 ― 動脈の詰まりから脳の炎症に至る多くの病気の原因となる ― そして、嫉妬の感情を削いでしまうといった事柄には一切触れなかった。

何故なら、これは問題を間違った視点から捉えることになる。豚肉が禁じられた理由、それが神の命令だからである。上記の事柄は、せいぜい“考え”と言えるものかもしれない。判断は“考え”の上ではなく、理由の上に築かれる。

しかも、これらは今日の科学的な研究の成果である。昨日のものではなく、おそらくは明日のものでもない。昔、豚肉が健康に及ぼす害を知らないムスリムたちはどうすれば良かったのか? そして、将来の科学的な研究により、遺伝子の操作、或いは現在の私たちが思いも及ばない未知の新技術で豚肉のああいった害が除去されたならば、豚肉の禁忌は解けるのだろうか?

最後に申し上げるが、命令と禁忌を適用する、あるいは適用しないことにより、現世と来世でもたらされる利益と損害、功徳と罪は、結局、人間に戻って来る、神にではない。

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原文
http://www.zaman.com.tr/yazar.do?yazino=717749


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