【188】豚肉は何故禁忌なのか?(1)【ザマン紙】【2008.07.28】

7月17日付けのザマン紙よりアフメット・クルジャン氏のコラム。2回に亘り、ムスリムにとって“豚肉は何故禁忌なのか”が詳細に説き明かされています。

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「視覚、知性、思考があると言ってはならない、全てを無くせ。/ お前には湖のように見えても、神が砂漠と言えば、それは砂漠だ」。何故と問わずに、神が下したあらゆる命令と禁止に対し、畏まりましたと言う信者の姿がこれである。この言葉はウスタドゥ・ネジップ・ファズルのものだ。こういった姿を自分に見出すことが出来る、信心がこのレベルにあるムスリムにとって、豚肉の禁忌を受け入れることは何の問題もない。

この人は次のように考えるだろう。『神は、食肉として羊、山羊、牛、雌鳥、七面鳥、雄鶏、等々、数えようとしても数え切れないほどの恩恵を下さった。“許されている。食べるが良い。お前が利用できるように創造したのだ”と仰り、“しかし、この中で一つをお前に禁じた。決して近づいてはならぬ。そして食べてはならぬ”と命じられた。今、私が過分なこの恩恵を前にして感謝する代わりに、何故それも許してくれないのですかと訊いて、この禁忌を無礼にも問質そうとすれば、もしくは、それどころか命令を聞かずにこれも食べようとすれば、一言でこれは恩知らずな行為である。この禁忌に、何の考えも理由も利益も無かったところで、私は従うだけだ。何故なら、人間の存在理由は神の命だからである。その褒賞は神の賛意、天国、神の御許へ迎えられることであり、来世で与えられる。それに、神は無駄なことはなさらない。私たち人間が解らなくても必ずや人間に利益があるはずだ』。

“神が下した命令と禁止を前にして、私の首は毛よりも細い”と言う知性と信仰に満ちた心はこう考えるのである。しかし、だからと言って禁忌の意味を調べるなという訳ではない。コーランの表現により、優れた洞察力を信仰の中心に据え、個人の自由によって信仰が受け入れられることを原則とするイスラムには、もちろん、こういったテーマにおいて、道を開き、視野を広げ、受容と共に知性と思考の満足をもたらす、納得できる説明がある。

この問題を二つの異なる視点から考察してみよう。

一つは、科学、学術的な分析、実験室における研究などである。これらは、科学の発展と並行して時代と共に変わり得る主観的な知識である。何故なら、科学が最終的に完璧な知識へ至ることは不可能だからだ。科学、科学的な考え、科学的な調査に基づいて、昨日は正しかったものが今日は間違いとされる数多の例があることは周知の事実であり、これが3〜5年の間に同じ人から明らかにされることもある。前提や条件付け、信心や不信心に基づくイデオロギー的なアプローチ、この世の物質的な利益が、前述の科学的な分析を主観的なものにしてしまう役割を否定することはできない。

神を信じている人が実験室で研究して得た成果と信じていない人が得た成果は、白黒の基準で100%異なる可能性がある。これを考慮した上で、普通の市民、例えば私が、科学的な分析の成果に客観的な性格を認めることは非常に難しい。それが無いという意味ではないが、豚肉の禁忌の如く最終的に信仰の問題として明らかにされる分析が、先ほど線を引こうとした枠の中に入ることは疑いもないだろう。実際、今までに行なわれた分析の結果は、この考え方を肯定するものだ。

もう一つは宗教である。宗教的な視点から理由を明らかにして禁忌の意図と目的を調べ、神意の理解に努めてみよう。ここで先ず考えてみなければならないのは“フスン−クブフ(良−悪)”だろう。最近、宗務庁の公式サイトに記された“姦通−恋の戯れ”に関するメディアの議論で頻繁に用いられた言葉で表現するならば、“良い、美しい、正しい、醜い”といったものが“フスン−クブフ(良−悪)”である。

命令と禁止の意思を調べる上で、初期の時代からイスラム神学者やイスラム法学者が一般的に用いた概念がこれであり、そこには鍵となる二つのことがある。知性と物の本性である。例えば姦通だが、これは人にとって正しい、良い、美しい行いだろうか? 知性はこれを全ての要素から把握出来るだろうか? もしも、把握出来て、知性がこれを良い、美しいと言うのであれば、全ての啓示宗教における禁忌、そして、これに伴う姦通を間違い、悪とする判決をどのように評価したら良いのだろうか?

豚肉に関しても同じアプローチが可能である。

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原文
http://www.zaman.com.tr/yazar.do?yazino=715048

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