【187】ローザンヌ条約は勝利か敗北か?【ミリエト紙】【2008.07.25】

7月24日付けのミリエト紙より、タハ・アクヨル氏のコラム。1923年の7月24日に締結されたローザンヌ条約について論じています。

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こういった設問は危うい。複雑な現実を白黒に分けて済ませることで人の目を見えなくさせるからだ。それ以上の関心が殺がれ、調べれば解る事実について、私たちを無知な状態に留めてしまう。その無知により、今日の複雑な問題も見えなくなる。

ローザンヌ条約は、必ずや読んで学ばなければならない偉大な外交戦略のファイルである。

第一次大戦後に調印された全ての平和条約が第二次大戦で反故にされたにも拘わらず、ローザンヌ条約が85年も続いているのは、それが現実的なバランスの上に成立している証しと言える。領土と主権のバランス、そして軍事力のバランス・・・。

イスメット・パシャ(イノニュ)の言葉によれば、“あの広さの、もしくはこの広さの祖国”であるが、“必ず完全な独立を”ということになる。これが意味するのは、カピチュレーションを完全に取り払う為、例えばモスルの領土問題で譲歩したことである。

軍事力のバランスについて言えば、救国戦線は東方に依拠したが、ローザンヌ条約において、新しいトルコは西欧のバランスの中に位置を得ようと決意した。

ローザンヌ条約をセーブル条約と比べるのは無理である。セーブル条約は敗戦後に、ローザンヌ条約は勝利の後に調印された。ローザンヌ条約は二つの基準から見ることができる。

・ローザンヌ条約における目標:我々はローザンヌ条約で主要な項目において目標に達している。確かに、エーゲ海の島々とキプロスは取り戻せなかったし、“国民の誓い”に含まれていたモスル(北イラク)を失ってしまった。ボスポラス海峡を完全に主権の下へ置くことが出来ず、ハタイを得られなかった。

しかし、エーゲ海の島々とキプロスは、もともと我々のファイルに存在していない、そのページはずっと以前に閉じられていた。

また、モスルを英国から完全に取り戻す為に我々の力は不充分だった。ムスタファ・ケマルに限らず、カラベキルやラウフ・ベイも含めて、全ての指導者が同じ見解であり、その為、モスルを二次的な目標としながら交渉したのである。

ボスポラス海峡の完全主権は、世界の状況が好転した後、モントルー条約により1936年に確保され、さらにハタイも祖国に復帰している。

・ローザンヌ条約におけるパワーバランス:ローザンヌ条約で我々の前に立ちはだかった勢力は英国である。イスメット・パシャは、正しく英国の政治力がギリシャの軍事力より重要であると喝破している。英国と戦争する局面に達した時、そこで立ち止まらなければならないのはトルコだった。

この2点から見た場合、ローザンヌ条約は成功したと言える。

イスメット・パシャが、ローザンヌからアンカラへ送った電報で、モスルの権利を放棄して平和を得る以外に方法がないことを伝えたのは、一つの転機となった。しかも、この電報は英国諜報部の手に渡っていたのである。国会における反発・・・国会議員たちは「モスルを失えば、将来、国境線はエルズルムまで達するだろう」と金切り声をあげる。この危険をガーズィ(アタテュルク)とその同僚も認識していた。

ところが、モスルで我々の前に立ちはだかっていたのは英国の軍隊である。英国と戦争になれば、やっと救い出した祖国の全てを危険にさらしてしまう。

実は、その後明らかになった英国の記録によれば、持ち堪える可能性はあったようだ。モスルを分け合って安全な国境を引き、石油からも大きな取り分が得られたかもしれないのである。しかし、当時、我々は戦争に疲れていた。アンカラは“一刻も早い平和”を望んだ。我々は東方から別れてしまった上に、西欧とも未だ同盟を築いていない孤立した国だったのである。そして、1925年にはシェイフ・サイトの反乱が勃発している。

そのモスルを1926年には安く失っていたかもしれないのである。

モスルを除き、ローザンヌ条約がもたらした成功は大きい。ローザンヌ条約は実に教訓のある外交文書である。戦線から交渉のテーブルについた作成者の全てを敬意と共に追慕したい。

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原文
http://www.milliyet.com.tr/Yazar.aspx?aType=YazarDetay&ArticleID=970499&AuthorID=62&b=&a=Taha

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