【181】スカーフ、イスラム、ライシテ【ラディカル紙】【2008.01.24】

1月22日付けのラディカル紙より。中東工科大学の哲学部教授ヤスィン・ジェイラン氏は、スカーフ着用に関する論争により、イスラムとライシテ(政教分離・非宗教性)の双方が傷ついていると論じています。

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80年に亘るライシテ(訳注:トルコ語のライクは一般的に政教分離と訳されていますが、ここでは、非宗教性、宗教的な束縛からの独立という意味合いが強いようなので、ライクの語源であるフランス語のライシテを用いました)の試みにも拘わらず、トルコでは未だにスカーフの着用がイスラムにおける義務か否か、あるいはライシテの体制に相応しいか否か、といった議論が続いている。これは、この社会において未だにイスラムが完全に理解されていない、もしくは未だにライシテが理解されていないことを示している。いずれにせよ、宗教を中心とする生活とライシテに基づく生活の違いが何であるのか理解されていないのは明らかである。

スカーフ着用問題の解決をコーランに求め、近代的な生活の条件に基づいて様々な新解釈を導き出そうとするのは無駄なことだ。それは、14世紀に亘って固められてきたイスラム的な生活の様式にも合っていない。また、なによりも、宗教的な生活から世俗的な生活への移行を意味するライシテの体制で、問題の解決を聖典に求めるのでは、矛盾に陥ってしまうだろう。

この為、筆者は聖典を原語により様々な解釈と共に読んでいるが、そのような試みを企てるつもりはない。


アラビア語の柔軟性とコーランの歴史性を利用して、女性の頭からスカーフを外すことがイスラムに反していないと主張することは可能である。実際にこれを試みた所謂改革派という怪しげな宗教家もいないわけではない。しかし、それが解決になるのだろうか? アル・アズハルのようなイスラム世界において権威のある機関がファトワによって、スカーフの着用が義務ではないと宣言したとしても問題が解決されたとは言えない。ある女性が「宗教の命じるところに従ってスカーフを外します」というのはライシテに反しているからだ。これは、「宗教の命じるところに従ってスカーフを被ります」というのがライシテに反しているのと同じことである。

こういった例に共通して見られる過ちは、ライシテの体制を受け入れた社会、あるいは個人の生活に関わる事柄を宗教的な権威に問うている点だ。何故なら、ライシテに基づく生活の最も明確な条件は、全ての宗教的な権威を拒否することである。この条件を満たさない限り、その生活様式はライシテに基づくものであるとは言えない。

一方、ライシテに基づく生活様式を、法や強制、禁止といったやり方で定着させることはできない。敬虔な人が、その信心により宗教的な権威を生活の中心に据え、納得しているのであれば、ライシテを主張する人も、世俗的な生活の規範を受け入れ、納得して自分とその思想を信頼しなければならない。時と場合に応じて、相手のやり方や思考に寄り添って弱みを見せれば、自分たちを擁護できない状況に陥ってしまうだろう。トルコにおけるライシテ主義者の状況は残念ながらこれである。イスラムの巨大な要塞に対して自分たちを守るべき武器がないため、結局のところ、自分たちが打ち崩そうと思っていたその要塞に入り込んでしまうのである。


スカーフの着用を自由の観点から擁護しようとする動きは、これまた奇妙な様相を見せている。ライシテの理論が自由のテーゼとして示されている中で、一部の人たちはライシテの体制が自由を制限する生活様式であると訴えているのは実に興味深いことだ。

つまり、ライシテの原則が、自己の意識の上にある宗教的な権威を拒否して、これを自由で独立した個人の定義に反するものであると見ているのに対し、敬虔な人々は自己の意識の上に宗教的な権威を認め、その機構の命ずるままに行動することが自由であると考えているのである。

ライシテの原則では、宗教的な権威への従属を思考の束縛と見なしているため、このような権威が要求するものを自由とは認めていない。それゆえ、おそらくライシテの原則に最も反するものは、「信じているからスカーフを被ります」という主張である。この合法的で純粋に思える表現に反映されている思考方式は、まさにライシテが2世紀に亘って打ち崩そうと努力してきた思考方式に他ならない。そういった表現を認めるのは自己を否定することである。しかし、「なんとなく被りたいと思った。その方が自分に似合う」というような一見理由付けが甘い表現であれば、個人の自由というカテゴリーに入るため、ライシテの原則に反することはない。

こういった分析から別の重大な結果を導き出すこともできる。ライシテは自由な思考であり、一方の思考は宗教的な権威(あるいは何らかのイデオロギー)を認めて、人間の生活を神の僕の使命と見なす一種の精神的・肉体的な束縛であるならば、何故人々は自由ではなく束縛を選ぶのか? これに答えるためには、哲学的な分析が必要となり、この文の主題から外れてしまうだろう。しかし、次のように申し上げることはできる。トルコの80年に亘るライシテの試みは、残念ながら人々を自由にするメカニズムとはならなかった。それどころか、時として、人々の思考を異なる束縛へ追いやるメカニズムになり果ててしまったのである。

また、自由を要求することが、その人の人間性を高めるという意味であるならば、これを要求できるのは、その用意が出来ている、ある程度の徳を身につけた人たちに限られてしまうだろう。

最後に、私たちを袋小路に追い込んでしまう“スカーフの着用・イスラム・ライシテ”の論争に関して次のことを明らかにしたい。この論争により、イスラムとライシテの双方が害を被っている。双方とも、その目的と核心が歪められてしまった。双方とも、満足してもらえる珍妙なモデルのために頑張っているのである。

ライシテの体制は、自身が争ってきた従前の思想と和することはできない。せいぜい可能なのは、自身より新しい思想にその位置を明け渡すことである。

一方のイスラムは、人類に大きく貢献し、歴史的な財産となったそのプロジェクト本来の目的と理想を軽んじて、何世紀も前に使い古した手法を活かそうとしいているが、これはイスラムを最も不当に扱うものである。もしも、人間の知性と経験から得られる能力が時と共に発展するのであれば、人類の高邁な憧れに近づけるために、現世紀の支配的な文明を優先させなければならないだろう。

神よ、神よ、と言いながら神から遠ざかることが可能なように、神の名を口にせずとも神へ近づくことは可能なのである。

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原文
http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=245133

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