【180】タクシム広場の新年【ラディカル紙】【2008.01.06】

1月6日付けのラディカル紙日曜版より、“Taksim Teaching Hospital”の医師であるトゥンジャイ・タス氏(男性と思われます)が寄稿した記事を訳してみました。新年を祝うタクシム広場で、男たちが集団で女性を取り囲み玩弄するという事件があったようですが、タス氏はこういった罪を犯す男たちの心理を鋭く分析しています。

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女性を玩弄する男たちの性的な難題が、コンサートや祝祭の催されている広場で多く見られるのは何故だろうか? また、こういった男たちの粗暴で自己中心的な様子を目の当たりにした場合、何故彼らが道徳的な態度を身につけることができなかったのか理解できるだろうか?

その目的が“楽しむこと”ではなくて、楽しんでいる人たちを観ることになってしまった社会がここにある。楽しんでいる人たちの側に近寄ることを何度も夢見ては叶わぬ度に孤独を感じる者、“うおのめ”のようになってしまった脳の一部を必要な正しい知識で満たすことができなくなっている者が社会の中で増えている。そもそもは、社会が彼らの頭に衝撃を加え続けた結果、その脳は“うおのめ”のようになって使い物にならなくなってしまったのである。彼らは、ただ生きて行く為に、その脳の一部分だけを使っている。

何年もの間、テレビの前で、ダンサーや歌手が楽しんでいる場面を呆然と眺めていた子供たちや彼らの手本とする先輩たちが社会に現れたことを私たちは知っている。その僅かばかりの想像力へ、自らというよりその多くは周囲が押し付けて固めてしまった感情が、隣近所の目から逃れた瞬間に、例えば、コンサートや祝祭の広場の暗がりの中で、女性を玩弄する行為として表に出て来るのは当然のことだろう。

女性を玩弄する男の表情を見るならば、それは幸せそうなチンパンジーによる唇や顎の動きとほぼ同じものであることが解る。しかし、実のところ、チンパンジーが唇や顎を前に突き出すのは、その多くが恐がっている時なのである。女性を玩弄する男も、心の中で思ったより恐れを感じている。ずっと長い間、彼らは恐がってきたものだから、たまには皆で一緒に(彼らとその玩弄の対象となっている女性)恐がってみることへ不都合を感じない。これは、彼らにしてみればノーマルなことだろう。それに、グループとなって人数が増えれば、恐れも分かち合うことができるというものだ。恐れと罪の意識は減ずる。そこへ集まった10人〜20人の若者は、お互いから力を得ながら、神や警察をそれほど恐ろしいと思わなくなってしまうのである。

ある友人同士が喧嘩をして刃傷沙汰となり、傷の手当ての為に同じ病院へ担ぎ込まれた。先ず一人目を診療しながら、医師はその若者の話を聞いている。「先生、友達の電話番号のメモリーを断りもなく見て、そのガールフレンドに電話しても良いんですか? “あいつと付き合っているんだから、俺とも付き合え”なんて言っても良いんですか?」。次に二人目の傷を縫合しながら、医師はその若者の話も聞く。「先生、友達と言って仲良くしている男が、腰の軽い女の為にその友達と喧嘩するもんですか? 奴がその女と何をしたのか得意になって話したものだから、“あいつと付き合っているんだから俺たちとも付き合うだろう”と思ったんですよ。これが悪いことですか?」。

おそらく、この若者たちも、コンサートや祝祭の広場で玩弄の行為に及ぶ若者たちと同じように、“こんな時間に帰宅していないのだから弄んでやっても良いんだろう”と考えているに違いない。若者たちの家族の女性はその時間に帰宅しているはずだからだ。さらに、こういった若者たちへ、外国の生活スタイルが不充分に誤った形で伝えられている為、女性がボーイフレンドと一緒にいたとしても、弄ぶことに何の不都合も感じないのである。正常な人間をぞっとさせる光景の底にはそんなものが横たわっている。

社会の中で、一部の若者たちの性的な苦悶が、不健全な性的執着へ至ってしまうことは不安を懐かせるものだ。私はこの問題を“性に対する敬意”という面から見るべきだと思う。誰にでも性的な欲望はある。ところが、私たちはその性に対する敬意を怠ることで競い合っている。相手を罵倒するために、はしたない卑猥な言葉を使っていないだろうか? 性はジョークや小話の主要なテーマにもなっているのではないか? コミカルなことで名を馳せている教養人たちは、性が彼らの名声を高めてしまう秘術を、この社会のアブノーマルな者たちへ披露しているが、社会のことを正常であると思っている人たちはこれを観て笑っている。彼らが思う存分名声を高めている間、他の人々はスタンドアップ・ショーがチケットの料金に見合うだけ面白いことを有難がっているのである。

人間は自分自身を辱しめるものへ敬意を表さない。人々は性よりも、他人が何を考えているのかについて恐れる。だから、敬意も性に対してではなく、性が如何に下品であり、低俗であり、罪深いものであるかを説く人間に対して表されるのである。しかし、敬意を表すこともない性のために、何故、人々はこれほどまでにコミカルな、低俗な状況へ陥ってしまわなければならないのか? 私はこれに驚いている。

女性に対する性的な玩弄の罪が話題になると、“調停、鎮静化、和解、平静あるいは無視、女性への圧力”に力が注がれ、事件の対策どころか、さらに広がり急速に増える原因となってしまう。これは社会がその責務を悪い方向へ使っている最たる例かもしれない。

社会は今回も“調停、鎮静化、和解”へ動いている。事件をアルコールへ結びつけようとしているのだ。しかし、次のことを考えてみなければなるまい。彼らが女性を玩弄したのは、摂取したアルコールの所為なのか、それとも享受しなかった教育の所為なのか?

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原文
http://www.radikal.com.tr/ek_haber.php?ek=r2&haberno=7849

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