【163】西欧は何故我々を理解できないのか?【ザマン紙】【2006.12.30】

12月24日付けのザマン紙より、エティエン・マフチュプヤン氏のコラム。マフチュプヤン氏は、西欧が考えているような脱宗教による世俗化・近代化ではなく、信仰を新たに解釈しながら世俗化を図る道があると論じています。

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グローバル化が、それまで自分たちの狭い思想世界で生きてきた西欧とオリエントを取り込んで以来、我々は相互の不理解に直面せざるを得なくなった。双方、いずれにも多様性があることはもちろんだが、こうして双方が接近したことにより、各々の中心勢力は感情的な考え方を広めようとしながら、相手に向けての政治的なトーンを明らかにしている。

西欧はオリエントに対し、彼らがいち早く近代化を図り、その過程で彼らの主観に基づく要求をある程度自制するよう望んでいるが、オリエント側は、西欧の近代化がもたらした平等と自由が自分たちにも認められるように望んできた。

ここで肝心なことは、相互理解を深めようとする活動が、社会的な基盤、そして政治的な言葉を持つことである。

しかしながら、我々は未だ相互理解から程遠い所にいる。その責任は、了見の狭い政治家ばかりにあるのではない。より重要なことは、現代の社会科学が見せている愚かさである。社会科学の本流は、あらゆる哲学的な蓄積を蔑ろにするかの如く、未だに極めて実証主義的である。近代というパラダイムが如何に有効なものであるかを証明しようとするかのように、社会科学は、近代的な事柄へは理解のある態度を示すにも拘わらず、異質なもう一方に対しては、またしても実証主義的な態度を取ろうとする。

最も理解のある真摯な社会科学の研究においても、例えば、オリエントで高まっている新しい宗教傾向の意味を解明できずにいる。明らかにされている唯一のことは、“宗教的な信仰と価値観が、社会における影響力を失う為には、未だ長い時間が必要であり、如何に発展した社会であっても宗教が無くなることを期待してはならない”ということである。それはそれで結構なことだが、こんな提言を導き出す為に、科学的な研究などする必要があるのだろうか? 簡単な常識論や大まかな歴史認識によっても明らかにされたこの事実が、今改めて“発見”されたというのは少々滑稽なことじゃないだろうか? この提言の科学性も怪しいものだ。期待通りにならないと、「つまり、長い時間が必要である」と言うのであれば、これは崩れ去るロジックに付け足されたつっかい棒に過ぎない。

社会科学における問題は、実証主義的な期待を持ち続けている研究者が“科学”を行うという、かなり無理な状態が続いていることにある。このトラウマ的な状態は、異質であるもう一方の側に向けた考え方に良く現れている。なぜなら、実証主義は最終的に“向こう側が自分たちに似てくること”を仮定するものだからである。

結局、近代というパラダイムによれば、オリエント社会には二つの選択肢が残されている。それは、社会が近代化を遂げて世俗化し、西欧の社会に似てくるか、さもなければ、世俗化と近代化を拒否して、封建的な宗教信仰の虜となり、前近代的な旧態に留まるかである。

ところが、今日のオリエントは、全く異なる第三の道を歩もうとしている。宗教から遠ざかるのではなく、逆に信仰を新たに解釈しながら世俗化を図り、こうして、日常的な生活に現れる、近代化への伝統的な障害を乗り越えようとしているのである。

“トルコ経済社会研究所”で、アリ・バイラムオウル氏が“近代化によって迷信がなくなることはない”という考察によって示したように、今日、敬虔であるかどうかの境界線は広がりつつあり、“敬虔さ”は多様なものになってきている。

こうして、イスラム的であることの意味が多様化され、イスラム的なエリアも社会活動のエリアから距離を置き、ある意味で独立することが可能となった。もしも、これに名前をつけようとするならば、ポストモダンによる近代化と言えるのではないか。

西欧の社会科学者たちに潜んでいる実証主義は、この展開を理解できずにいる。彼らは宗教的なものの全てに封建主義的な脅威を見出そうとするばかりではなく、問題が長期的には近代のパラダイムによって解決されるという“迷信”を培っているのである。

“科学”がこの有様であるのに、政治からはいったい何が期待できるというのだろう?

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原文
http://www.zaman.com.tr/webapp-tr/yazar.do?yazino=476901


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