【161】トルコ人と40年【ミリエト紙】【2006.12.04】

12月3日付けのミリエト紙よりジャン・デュンダル氏のコラム。23年間を外交官として韓国とトルコの友好に尽くしてきたぺク・サンキ氏のことが紹介されています。

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先週、ローマ法王の来訪が全ての注目を集める中、アンカラは一人の来訪者を静かに迎えていた。ぺク・サンキ氏、彼は遥か彼方の韓国からアンカラを訪れたのであるが、まるで我が家にいるようだった。人々は彼のことを“半分トルコ人”と言う。

アンカラには多くの知人がいて皆と会っていた。ヴェジディ・ギョヌル国防相が彼を招待したのである。イスタンブールではハルビエの国軍クラブに宿泊、アンカラでは政治学部でスピーチし、国会や参謀本部を訪問した。

公的な任務のない一韓国人がこれほどの関心を寄せられることは通常ありえないが、アンカラで“バイ・ぺク(ミスター・ぺク)”を知る人たちは、この関心の多さにひとつも驚いていない。なぜなら、彼には“一つの国で最も長期間在任した外交官”という肩書きがあるからだ。

1966年にアンカラの韓国大使館で三等書記官として任務につき、23年間一度もこの任地を離れることなく、1989年、一等参事官を最後に退官した。

しかし、彼のトルコ、そしてトルコ人との関わりはこれだけに留まらない。彼は75年の人生で55年間をトルコ人と関わってきたのである。そればかりか、この関わりには映画の題材にもなるような興味深い物語が伝えられている。


*戦争で始まった友情

1950年、朝鮮戦争が勃発した時、ぺクさんは高校を卒業し、法学部に入学したばかりだった。4月に入学し、6月には戦争が始まっている。20歳で学徒兵として徴集されると、米国情報部が募集していた英語の通訳に応募、試験に合格するや、参戦しているどの国の部隊で任務に就きたいのか問われた。彼は「トルコの部隊」と答える。

彼が暮らしていた街には洋服屋を営むトルコ人がいた。家族で中国から韓国へ渡ってきたそうである。ぺクさんは、彼らからトルコについて聞き、好感を持っていたと言う。まさに、その洋服屋さんが、彼の人生を変えてしまうことになる。

こうして、ぺクさんはトルコの旅団に派遣された。しかし、当時、トルコとトルコ人に関して学識と言えるものは、中学の歴史教科書に限られたものだった。そして、祖国と言葉を共にする人々に対し、全く知らない土地から来た、全く知らない言葉を話す人々と肩を合わせて戦うことになったのである。


*同じ運命

5,080人からなるトルコ軍旅団は、10月に韓国へやってきた。ぺク通訳官と彼らの運命はここで交わる。

ぺクさんは初めて会った彼らの印象を、「非常に規律正しい、強い気質の口髭を蓄えた英雄的な兵士たち」と表現している。

旅団の司令官、タフシン・ヤズジュ准将と知り合い、「君はもう我々の仲間だ。同じ運命を分かち合い、兄弟のように戦場へ向かおう」と言葉を掛けられる。ぺクさんは、民間の通訳として第二大隊へ送られた。任務は、韓国人、アメリカ人、トルコ人の間のコーディネートを補助することだった。しかし、運命は彼をクヌリでトルコ人たちと肩を合わせて戦う戦場に引きずり込んでしまう。


*クヌリの戦場(ぺク氏の回想)

クヌリは北朝鮮の小さな町でした。11月末、連隊を組んで未舗装の道を進み、クヌリへ向かったのです。27日にクヌリへ到着した時には、中国の志願兵たちがそこへ向かい始めていました。トルコ旅団は5千の兵力でしたが、中国側は二師団、つまり2万の兵からなっていました。既に彼らが押さえている山の中へ、そうとも知らずに進んで行き、気がつかないうちに私たちは囲まれてしまいます。電線が切断され、司令部との連絡は途絶えていました。

気温はマイナス20℃でした。空腹だったので、親しくしていたアリ伍長と一緒に食堂テントへパンを取りに行こうとした時、照明弾が炸裂し、辺りは昼間のように明るくなったのです。私たちは走って窪地に身を投じました。これを見た相手は、銃撃を開始し、数多の銃弾が私たちの頭を掠めて行きます。アリ伍長と身を寄せ合い、お互いを守りました。

その時、頭の中を幻想が過ぎたのを覚えています。私は死んでしまい、父や母、親しい人たちが私を見送りに来ているような幻想です。

命令系統は寸断され、中国側は私たちを心理的に追い詰める為、左から太鼓、右からトランペットを鳴らし、投降を呼びかけました。

この状態で、トルコ旅団、散り散りになったグループは白兵戦を開始したのです。正面切っての凄まじい戦闘でした。取り囲む2万の兵に対し、5千のトルコ兵がこの封鎖を突破することに成功したのです。2夜3日に亘るこの戦いは、中国軍を押し留め、連合軍の撤退へ大きく貢献しました。

この戦闘中に、私たちはアリ伍長と共に窪地を離れ、白兵戦が続く中、道端でトルコ旅団のトラックを見て、合図しながらこれを止め、乗り込みました。韓国人、トルコ人、イギリス人、アメリカ人からなる50〜60人の兵士がトラックの荷台にひしめき合っていました。左右から一斉射撃される中を進み、運転手は負傷して血まみれになり、片手で操作しながら、封鎖を突破したのです。2〜3キロ行って、トラックが止まった時、荷台には地獄のような光景がありました。死体が重なり合い、10〜15人程度が生き残っていただけでした。

血まみれになった死体の群れの中で、アリ伍長を探したけれど、残念ながら亡くなっていました。私は彼を肩に担いで衛生隊へ引き渡したのです。彼は今、韓国にある連合軍墓地で安らかに眠っています。


*DP(民主党)の奨学金により政治学部で学ぶ(ぺク氏回想の続き)

戦争の後、私は学業を続けることができませんでした。タフシン・ヤズジュ氏はトルコへ帰り、“朝鮮戦争の英雄”として民主党から国会議員に選出され、国防委員会の委員長となっていました。そして、当時の国会議長、レフィック・コラタン氏に私のことを話したのです。「その子は我々の所為で学業を続けることができなかった。我々がここで学ばせよう」。

トルコ政府が名指しで私の奨学金を用意した後、コラタン氏は公式に韓国の国会議長へ連絡してきました。

韓国の国会議長は私を呼び、コラタン氏の招待状を見せて、「どうする?」と尋ねたので、私はもちろん非常に驚いたけれど、「喜んで応じます」と答えたのです。

当時、一韓国人が国外へ出ることは殆ど不可能でした。しかし、私の為に国会議長は外相へ電話を入れて、「この子の手続きを直ぐに済ませてくれ」と伝え、私を外務省へ送り出したのです。私が急いで出掛けたところ、外相は私に「近い将来、トルコと外交関係を結ぶつもりだ。君があの国へ行くことを強く勧める」と言い、私も「喜んで行かせてもらいます」と答えました。

二日間でパスポートが用意され、航空券を手配していた時、トルコ旅団の司令官が「我々と一緒に船で行こう」と伝えてきたので、「かしこまりました」とこれに応じて、1956年の6月29日にトルコ軍兵士たちと共にソウルを旅立ち、25日後にイズミルへ到着、私はトルコの地を踏んだのです。


*最も印象に残っているのはオザルとエブレン

ぺクさんがトルコへやって来ると、朝鮮戦争で負傷した英雄たちは、まるで競い合うように、この親愛なる韓国の友人をもてなした。

ぺクさんはマルテペにある“ヴェヒビ・コチ学生寮”へ落ち着いたが、夕方になると部屋は訪れた人たちで一杯になり、面々に朝まで戦争の思い出を語らなければならなかった。

先ずは、トルコ語を学び、それから政治学部へ入った。学校に外国人の学生は三人だけで、極東から来ていたのはぺクさん一人だった。そこにいたトルコ人の学友たちには様々な顔が揃っている。ヒクメット・チェティン(訳注:後に、外相、国会議長等を歴任)、イナル・バトゥ、ヤヴズ・ジァネヴィ、エルトゥルル・クムジュオウル、フィリズ・ディンチメン、そして、後に大臣となって彼を再びトルコへ招待することになるヴェジディ・ギョヌルもいた。

授業を受け持った人たちも錚錚たるものである。ヤヴズ・アバダン、ファヒル・アルマオウル、ベドゥリ・ギュルソイ、そして当時は未だ助手であったミュムタズ・ソイサルがいる。

1957年、トルコは韓国と外交関係を樹立する。政治学部の二回生に進んでいた“ミスター・ぺク”は、大使館設立の際に手伝うよう望まれた為、学校へ一年間の休学を申請し、学業から暫く離れて、大使館設立の仕事を手伝った。

1961年、政治学部を卒業し、直ぐに韓国外務省へ入省。いよいよ、トルコと韓国の友好に、外交官として貢献することになったのである。

1966年、トルコの韓国大使館へ赴任。トルコでの任務は、この1966年から1989年まで、23年間に亘って続く。その間、二回の軍事介入、4人の大統領、8人の首相に接した。「最も印象に残っているのは誰ですか?」と尋ねたところ、「オザルとエブレン」という答えが返ってきた。

この二人は、一時期、トルコにとても相応しいと考えられていた“韓国モデル”に欠かせぬ名前である。

トルコと非常に似た近世史を持つ韓国では、1961年の軍事クーデターにより、民主化が棚上げされた。軍部は、「後れた国の場合、民主的な体制では急速に発展することができない」という考えから、トルコの例で見られるように直ぐ退くことはなく、18年間、軍の制圧下で発展を遂げる。

ぺクさんは民主主義の重要性を信じながらも、韓国がこの期間に実施された政策により現在の奇跡を実現したと言う。「戦争で我が国は廃墟と化してしまいました。地下資源もなく、四方を敵に囲まれた状態でした。しかし、今や世界で10位に入る経済力を作り上げたのです」。

「トルコは早く民主化した為に的を外してしまったのですか?」という私のエスプリに笑い、「トルコの将来にはとても希望を持っています。私たちよりずっと良い状態ですよ。国土は広く、人口も多い。地下資源も豊富ですね。戦略的に重要な位置にいるし、政策が良ければ、発展できない理由などありません」と言うのである。

そして、トルコに居た23年間に大きな変化を目の当たりにしたこと、今回新たに訪れ、1989年以降に実現した変化に驚いたことを明らかにした。

現在、トルコでの回想録を出版するために準備し、四半世紀に亘って一人で掲げてきた友好の旗を、アンカラ・カレッジで学ばせた子息へ引き継がせようとしている。

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原文
http://www.milliyet.com.tr/2006/12/03/yazar/dundar.html


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