【160】スカーフは何を象徴しているのか?【ラディカル紙】【2006.11.30】

11月28日付けのラディカル紙よりトュルケル・アルカン氏のコラム。スカーフの着用者は数を増したことにより、その性質に変化が見られるようになったと指摘されています。

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スカーフは確かに宗教的なシンボルである。髪を露わにすることが宗教上の罪になると信ずる者がスカーフを被っているからだ。同時に政治的なシンボルでもあり、敬虔な保守層、右派的な傾向のある人たちによって使われている。

そして、ある種の社会的な価値観を表現する為にも有効である。伝統的な道徳観を身につけた人々が、これを目に見えるものにする為の手段にしているとも言えるだろう。

“スカーフ”を取り巻く長年に亘る騒動は、こういった異なる機能が、時として衝突したり疲弊してしまう結果を招いたのではないか、と折々考えずにはいられない。一つのシンボルにこれだけ重い負荷を与えたこと、そしてこれを数多の民衆によって使われるようにしたことが、歳月の中で疲弊の原因になったかもしれないのである。

スカーフを被った女性たちの“保守的な考え方”に疲弊は見られないだろうか? 流行に合わせたファッション、ボディーラインがはっきりと分かるような着こなし、平気でボーイフレンドと手に手を取って歩き、ポップシンガーのコンサートで熱狂してステージに駆け上がるスカーフを被った娘たち・・・。

こういった事象は当初“一過性で通常のものではない”と見られていた。ところが、そのうちに根を下ろした明らかなものになり始めた。既に、全く一過性の事象とは思えないものになっている。それは、スカーフを被っていない女性たちの行動スタイルが、スカーフを被った女性たちの間にも広がり、受け入れられたことの証のようになってきたのだ。

この状況は、スカーフを敬虔な保守層の政治的なシンボルであるかのように理解する人々の立場を難しいものにした。そして、この傾向が時と共に広まりながら続いたとしても全く驚くには当たらない。

スカーフの着用が広まると共に見られるようになった出来事の数々は、このシンボルを身につけている者たちが、身につけていない者たちに比べて、より道徳的できちんとしているのではないかという考え方やそれに対する期待を揺るがせることになった。

最近、立て続けに起きた事件がそれを物語っている。

短銃を貴金属商につきつけるスカーフを被った強盗、我が子を殺すスカーフを被った殺人者、スカーフを被った詐欺師たち・・・。

殆ど毎日のようにこういったニュースが伝えられ、スカーフを道徳の具現したものであるかのように見ていた“共通の理解”は揺らぎ始めている。

ここで問題は、スカーフへ果たせないほどの重責を負わせてしまった“共通の理解”に潜んでいるのである。スカーフを被った者も被っていない者も、結局は同じ社会の人間たちであることが忘れられている。行動スタイルとその価値観には一般に考えられているほどの、そして、そう見られるように望まれているほどの大きな違いはないと私は思う。

社会における様々な価値観が、総人口中にある割合で存在しているならば、スカーフを被る者の数が増えた場合、スカーフ着用者の中においても同じ割合で存在するようになるのは当然のことだと思わねばなるまい。

保守的で敬虔な人々はこの状況に悲しむかもしれない。しかし、何はどうあれ、統計と象徴化の原理はこのような動きを見せているのである。

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原文
http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=205835


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