【158】コンヤの最後のアルメニア人【ミリエト紙】【2006.06.14】

6月13日付けのミリエト紙よりジャン・デュンダル氏のコラム。85歳で亡くなったコンヤにおける“最後のアルメニア人”キルコル・オザラット氏を偲んで、その一族の物語を伝えています。

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先日、コンヤ市の聖パウロ教会で慎ましやかな葬儀が執り行われた。85歳で亡くなったコンヤにおける“最後のアルメニア人”キルコル・オザラットの葬儀である。参列者は、カナダとフランスから来たアルメニア人が15名、そして、オザラットのムスリムの友人たちや近隣の人々が70〜80名ほどであった。

コンヤで家族ぐるみの付き合いをしていた外務省参事官アリ・トゥイガンの花輪が片隅に置かれていた。総主教府は一人の司祭を派遣し、教会の庭に建てられた小屋に住む二人の修道女も葬儀に携わった。

葬儀の後、キルコル・オザラットはクリスチャン墓地に埋葬された。コンヤ市の中心部にありながら余り目立つことのない、5〜6の墓が並ぶこの墓地に彼の母も眠っている。亡くなった兄は母の左側に葬られた。オザラットは母の右側に埋葬されて永遠にコンヤの大地に留まることを望んでいたが、その通りになった。

“キルコルおじさん”の物語を、葬儀に参列する為、フランスから訪れた甥のサムソン・オザラットが語ってくれた。

一族はもともとビトゥリスに住んでいたそうである。

キルコル・オザラットの父アルティンは、1915年に全ての家族を失い、一人で強制移住の列車に乗った。列車が移住先の中心地コンヤに到着すると、知事のジェラル・ベイは移住者にパンと水を補給させ多くの命を救った。こうして18歳のアルティンはコンヤに定着する。

メラム−デレキョイで、軍用のパンを作っている製粉所に就職し、そこで親方の娘アルスィネと結婚、4人の子をもうけた。その一人がキルコルである。

キルコルは、コンヤ・イドゥマン・ユルドゥで最初はサッカー選手、後に管理者となった。彼はコンヤで最初の鋳造所を造っている。その徒弟たちが仕事を覚えて大きな鋳造所を設立したのである。

コンヤで生まれたサムソン・オザラットは、子供の頃のコンヤをこう言い表している。「深いイスラムの信仰、しかし狂信的ではなく、メヴラーナの影響もあって他の宗教に敬意を表す都市だった」。

1915年以前、6千人のギリシャ人、5千人のアルメニア人が暮らしていたと言われるこの都市にはアルメニア人街があり、現在、軍の宿泊施設となっている所はアルメニア教会だったという。子供たちはアルメニア人高校に通ったそうだ。

デデ・ガーデン、メラム・ガーデン、そしてトランス・アイレ・カジノでは舞踏会や結婚式が催され、オーケストラの伴奏でダンス・コンテストが開かれたりした。

ムスリムとクリスチャンの家族はお互いに行き来し、お互いの祭日を祝い合った。

詩人であったサムソンの父パノスの詩がイエニ・メラム紙に発表されていたという。

ところが、その後宗教に政治が絡み始める。寛容の精神は弱くなり、異教徒との関係は途絶えた。メラム・ガーデンのオーケストラは音を潜め、ダンスを踊る者はいなくなる。

アルメニア人は次々とコンヤを去って行った。去らなかった人たちは名前を変え、イスラムに改宗した。彼らは“異教徒”という綽名で思い出されるそうだ。

身分証明書に“アルメニア人”と記されているのはオザラットの一族だけになり、1980年代には、彼らもコンヤから去って行く。移住を拒んだ“キルコル親方”は鉄道沿いの質素な家で妻のアズミフと二人きりになった。

先週、キルコル親方が亡くなると、一人残ったアズミフ・オザラットも故郷であるアンカラにいる姉妹のもとへ移ることを決意した。彼女も去ることにより、一時期多くのクリスチャン人口を抱えていたコンヤに、アルメニア人は一人もいなくなってしまう。

歴史へ次のように記そう。“コンヤの最後のアルメニア人は、今、市中央の小さな墓地に眠る”。

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原文
http://www.milliyet.com/2006/06/13/yazar/dundar.html

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