【152】アナトリアの歴史と文化【ザマン紙】【2006.05.13】

5月13日付けのザマン紙よりシャーヒン・アルパイ氏のコラム。アルパイ氏は、イスタンブール大学古代史学教授ムスタファ・サヤル氏がアナトリアの歴史と文化について語ったことを読者に伝えています。

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先週の土曜日、メルシンにいる我が家の家主さんが、私たちを歴史ツアーに案内してくれた。先ず、バスでシリフケ(いにしえのセレウキア)まで行って、滔々と流れるギョクス河(カリジャドノス河)を眺めた後、トロス山系の1200mの高地にあるウズンジャブルチ(古代都市ディオカエサレア)ヘ登った。数百年の時の流れに抗するが如く支柱の立ち並ぶゼウス神殿遺跡は紀元前3世紀のものだ。この遺跡をイスタンブール大学古代史学教授ムスタファ・サヤル氏の案内で観て廻ったうえ、神殿の中庭では、サヤル氏から“アナトリアに見られるヨーロッパのルーツ”という話を伺い、非常に感銘を受け色々と考えさせられた。今日はこの話の一部を皆さんにお伝えしたいと思う。

「アナトリア(訳注:トルコ語ではアナドル)という我が国の大部分を占める半島の名は、古代ギリシャ語の“アナトレ”に由来し、この言葉は“太陽が昇る”ことを意味している。アナトリアの住民は、歴史における様々な邂逅と混淆を経て、政治的そして文化的なアイデンティティーを変えてきた。ヒッタイト、フリギア、古代ギリシャ、ローマ、ビザンチン、セルジューク、オスマン、そして最後にトルコ人となったのである。使用される言語も変遷した。ヒッタイト語、古代ギリシャ語、オスマン語、そしてトルコ語を話し綴った。宗教も、初めは多神教であり、後にキリスト教へ、それからイスラム教へ変えている。しかし、信仰心と他の宗教に対する敬意、寛容の精神は変わらなかった。キリスト教もイスラム教も中東から伝えられ、アナトリアで発展を遂げている。このように、アナトリアで多くのことが変遷して行った中で、唯一全く変わらなかったのは、その主体である当の住民たちと彼らの持つ傾向である。様々な国家、政府、支配者、預言者が歴史の中を通り過ぎて行ったが、住民たちはそれらに服従するか、もしくは調子を合わせながらも、その根本にあるものは変えなかった。統治を受け暮らしているその国家と宗教への忠誠、信仰、親切な気持ちは頑固に守りぬいたのである。・・・」

「古代ギリシャの二大叙事詩“イリアス”と“オデュッセイア”を著した詩人ホメロスはイズミルの人であった。有名な数学者・自然哲学者のタレスはミレト(訳注:アナトリア・エーゲ海地方の町−ミレトス)の生まれである。歴史の父と称せられるヘロドトスはボドルム(訳注:アナトリア・エーゲ海地方−ハリカルナッソス)、ローマ時代の偉大な作品“地理誌”を著したストラボンはアマスヤ(訳注:アナトリア中部黒海地方−アマセイア)、アナトリアからフランスまで旅した有名な風刺作家ルキアノスはサムサト(訳注:アナトリア南東部アディヤマン県−サモサタ)、“教会史”の著者エウセビオスはカイセリ(訳注:中部アナトリア地方−カエサレア)、キリスト教の偉大な使徒パウロはタルスス(訳注:アナトリア東部地中海地方メルスィン県−タルソス)、初めて薬草を用い薬学・医学の先達となったディオスコリデスはアダナ(訳注:アナトリア東部地中海地方)、多くの病気に治療法を発見しローマ皇帝の主治医を務めた医学者ガレノスはベルガマ(訳注:アナトリア・エーゲ海地方−ペルガモン)、そして、18巻に及ぶ“ローマ史”を著したアミアヌス・マルセリヌスはアンタキヤ(訳注:アナトリア東部地中海地方−アンティオキア)の人であった。また、デムレ(訳注:アナトリア西部地中海地方のカレ−ミュラ)のノエル・ババとして私たちに知られているのは、全キリスト教世界の尊敬を集める聖ニコラウス(訳注:サンタクロース)であり、彼はパタラ(訳注:アナトリア西部地中海地方)に生まれている。他にも数多のアナトリア出身の吟遊詩人、思想家、学者が存在した。まさに、彼らを抜きにして西欧の文明・文化を語ることは不可能だろう。・・・」

「かような人々と同じ大地、同じ文化的要素を分かち合った、つまり彼らの子孫であり、精神的な遺産の継承者でもあるトルコ人を、何故ヨーロッパは仲間として認めないのか? 私たちがイスラム教徒だからなのか? 決してそうではない。なぜなら、古代文明の遺産を受け継ぐ者は、キリスト教徒でもイスラム教徒でもないからだ。もしも、私たちが、今日のヨーロッパで未だに異邦人として見られ、疎外されているのであれば、その理由の一つを次のように考えるべきだろう。それは、我が国が、歴史の遺産における精神的・文化的な価値、つまり我々の中にあるヨーロッパと一体化することに関して、はっきりしない愚図愚図した一貫性に欠ける態度を示していることだ。アナトリアの文化遺産に対して西欧が見せるデリカシーや責任感は、残念ながら私たちに見られない。いくら、見栄えの良い豊富な文化遺産を博物館に展示したところで、それはアナトリアの文化遺産を商業的な発想で見ているように思われてしまうのである。・・・」

30年以上に及ぶ学究生活の半ばをウィーンとボンの大学で送ったサヤル教授が、アナトリアの歴史と文化遺産に示した見識には賛同を覚えずにいられない。

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