【151】トルコとイラン【ミリエト紙】【2006.05.11】

5月11日付けのミリエト紙よりタハ・アクヨル氏のコラム。ビュレント・アルンチ国会議長が、宗教庁を国家の機構から切り離すべきだと発言したことに対して、一部の“政教分離主義者”たちは、アルンチ議長をはじめとする与党勢力がイランのようなイスラム化を企てているのではないかと憶測し反発を強めていますが、アクヨル氏はこれを妄想とする見解を明らかにしています。

****

ビュレント・アルンチ国会議長は、宗教庁が国家の機構から切り離されること、即ち宗教に関わる業務が各種教団の運営にまかされることを望んでいる。その目的は奈辺にあるのだろうか?

トルコにおける政教分離主義の際立った特質は、聖職者が国家公務員となっていることだ。こうして宗教活動に伴う諸事は、政教分離を国是とする国家の監督下に置かれその規制を受けている。アルンチはこれを各種教団へ開放することによって規制を撤廃しようというのである。

かつてイランでも、宗教に関わる業務がモッラー(聖職者)の手に委ねられると、モッラーたちは民衆を扇動して、イスラム法による統治をイランにもたらした。アルンチの目的はこれに違いない。

“2.28の軍事圧力”を主導したギュヴェン・エルカヤ海軍大将も、「反動がトルコへイラン的な民衆蜂起を企てた」と言っている。反動は、なんと天才的な頭脳を持っているのだろうか。凄まじく狡猾に秘密の計画を実行している。中世の遺物と揶揄されている反動がこんなに頭脳的で賢いとは、まさに驚くより他にない。

さて、故アフメット・タネル・クシュラルは、「トルコとイランは、過去においても現在においても全く似たところがない」と明らかにしながら次のように記した。「この事実が良く解っていない人たちは、タハ・アクヨルの“オスマン帝国とイランにおける宗派と国家”を読むべきである」(1999年7月16日付けのジュムヒュリエト紙)。

敢えて謙遜するつもりはない。故クシュラルの如き有識者の賛同を得て申し上げるが、私は、この両国における歴史、文化、そして社会のダイナミズムを科学的な根拠に基づいて比較研究した数少ない者たちの一人である。トルコとイランの間には類似性の立脚する余地が全くない。両国の過去、そして現在のダイナミズムは明らかに異なる類のものだ。

トルコで“イランのように反動が蜂起する”という妄想に囚われたり、トルコに“アヤトラー(最高位聖職者)”が現れるといった幻想を抱いたりするのは、科学的なデータと研究方法を無視して陰謀説を信じる感情的な発想から生じている。そして、これは“感情”である為、簡単に扇動されてしまう。

陰謀説において、人生は一つの舞台である。これを手に入れた者はそこへ自分の台本を押しつけようとする。“健全なる力”や“目敏い守護者”は舞台を厳重に守らなければならない。出入りは探偵によって充分にチェックされるべきだ。

それぞれの社会が持つ歴史、スンニー派とシーア派の政治的な相違、信仰が変化して行く過程、民主主義や権威主義の伝統、現代における教育、都市化、中産階級化、社会の多様化、国際化といったような近代化のダイナミズムについてはどう考えるのか? こんなものは全てお話だとでも言うのだろうか。社会科学的な研究や分析ではなく、幻想に基づいて“信仰の対象と化してしまった政教分離主義”は、いとも容易く陰謀説に囚われてしまう。世の中を“狡猾な企て”と“目敏い守護者”の戦いであると考えている。

そもそも“信仰の対象と化した政教分離主義”は、政教分離本来の思想である科学的な方法、そしてリベラルな自由と矛盾する。

宗教庁が国家の機構から切り離されることを希望するアレヴィー派や、これが政教分離により相応しいと考える憲法裁判所のメンバーは? 彼らも教団の信徒らと共にイスラム革命を目論んでいると言うのか?

思想犯として裁かれたイスラム主義者シェヴカット・エイギは、何故、宗教庁が廃された場合、国家の庇護を受けないイスラムは弱体化すると言ったのだろう? さては、彼も政教分離国家体制の狡猾なスパイだったのか?

いい加減に妄想は止めて、分析的な方法と研究に基づいて考えるべきだろう。“人生における最良の師”は、何だったのか?(訳注:“人生における最良の師は科学である”−アタテュルク)

****

原文
http://www.milliyet.com.tr/2006/05/11/yazar/akyol.html


▲トップページ
▲前の記事
▲次の記事
▲トルコの新聞記事INDEX