【143】クルド問題に対する二つの談話【ザマン紙】【2006.04.10】

4月10日付けのザマン紙よりエティエン・マフチュプヤン氏のコラム。最近起こったPKK(クルド労働党)によるテロ事件に関連して、エルドアン首相とギュル外相が出した声明を批評しています。

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今回のテロ事件について、AKP(公正発展党)における主要な人物の全てがその談話を発表している。一部の談話は、型通りに論駁しようとする従来の国家主義的な態度と英雄的な同胞愛を合わせたものに過ぎないが、エルドアン首相とギュル外相のアプローチはより慎重に読み込まなければならないだろう。なぜなら、今後の展開を占う糸口が彼らの談話に潜んでいるからだ。

エルドアンの談話から、度々論じられるもののプロジェクトとして実施されてはいない社会経済学的な開発の構想に関する話と、何処に立脚しているのか良く解らない“相互扶助”を強調する部分を取り除いて見れば、明らかなのは、途方に暮れ、その為に威嚇的になった言葉である。首相は、百年来の強圧的で策略的なクルド政策の精神的な支柱を演じなければならず、これによって生じたしがらみから抜け出せずにいる。

国家のクルド政策は、他のエスニック・グループに対して取ったものと全く同じであり、いつも時代に後れていた。共和国はオスマン朝に優るビジョンを作り出せなかったどころか、それよりも権威的で無慈悲な民族政策に依存したのである。

今日、国家の機構に蔓延っている規律の乱れは、百年を超える正統性の侵犯が平然と受け入れられ組織化されたことに深く関わるものだ。首相は、「トルコをお粗末な民主主義から救うために努力している」と言いながら、実際はこのお粗末な民主主義が個人個人の誤りによるものではなく、根底に国家が社会を不当に扱ったことが横たわっているのを熟知している。

一方でエルドアンは、この問題を解決するために必要な“クルドの支援”の面から見ても途方に暮れている。なぜなら、影響力の喪失を恐れ、対話の相手が自分たちであることを主張し続けているPKK(クルド労働党)は、人情的なつながりを悪用してクルド人たちを人質に取っているように見えるからだ。クルド人社会の非常に多様性を帯びてきた要求や選択肢を政治に反映させることがこのようにして阻害されている。

首相は、党内のミーティングで「クルド問題は存在する」と発言したのに、なんら肯定的なアプローチは現れなかったばかりか、却って悪用されてしまったと述べた。しかし、首相が肯定的なアプローチを現出させるためには、クルド人たちの多様性を持った構造が合法的なチャンネルを通して政治の舞台に上らなければならない。さもなければ、PKKから遠ざかる為に生じる精神的な重圧がクルド人たちの肩に圧し掛かってしまうだろう。その重圧を受け止められるものは彼らの側に見られない。

双方から板ばさみになって途方に暮れたエルドアンは、威嚇的な反発を見せ、対話の条件として“PKKはテロ組織であると宣言する”ことを提示した。しかしながら、これは、先ず前段階の対話が進み、それによって社会との直接的な関係が築かれることによって初めて可能となる。

ギュル外相の冷静な談話は、まさにこの点を明らかにしたものだった。「合法的な政党であれば、思想が異なったものであっても話し合う」。政府はこの話し相手がPKKの代弁者であっても恐れてはいけない。当然、最初はそういうことになるだろう。しかし、対話が地に着いた確かな関係を築き、具体的な歩みが踏み出された場合、クルド人政治機構の上層は、望むと望まざるとに関わらず多様性を持った構造に変化する。もしもクルド側がこの変化を予見できないのであれば、その時彼らはクルド人社会を代表する機会を失ってしまうだろう。

この問題が武力によって解決されるという考えは、重大な洞察力の欠如を示すものでしかない。武力は相手を一つの“国民”に作り上げてしまうからである。かつて、サダムの右腕であったタハ・ヤシン・ラマザンが“偉大で戦闘的なイラク軍”について語った時、ギュルは「イラク軍は民衆に向かって武力を行使した」と切り捨てたものだ。

私たちは、国家がギュルの仄めかした常識を身につけてくれる時を未だに待っているのである。

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