【138】左派の後に何が残ったか?【ミリエト紙】【2006.03.23】

3月22日付けのミリエト紙よりフルシット・ギュネッシ氏の記事。ギュネッシ氏は、保守と化してしまったトルコの左派を批判しています。

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日曜のミリエト紙の一面に、セゼル大統領とCHP(共和人民党)総裁のバイカル、そして「熱狂的なトルコ人」の著者トゥルグット・オザックマンが一緒になっている写真が掲載されていた。この中にバイカルの姿も見られることはそれなりの意味がある。これは、CHPが創設された時から引き継がれてきた関係だ。私はこれを見て『トルコの政治は1950〜1970年代に逆戻りしてしまったのではないか?』とひとりで考え込んでしまった。

一方には、共和国の体制を代表する軍部と官僚、もう一方には、それに対する社会的な反発によって勢力を得てきた与党政府。法と秩序を維持しようする人々に対して、これを変えようとする人々、という構図である。

英国では、保守党が法と秩序(law and order)を掲げ、「強力な政府が傷ついた法と秩序を回復させなければならない」と主張し、これに左派の労働党は従前から「法が富裕層を守り、その秩序は歪なものだ」と反論している。面白いことに、これがトルコでは、法治国家を唱える人々が自らを左派であると認識しながら、社会に政教分離体制の崩壊を望む人たちが存在することを疑っている。

1994年、英国の社会学者で新しい左派の先駆者的存在であるアンソニー・ギデンズの論説に注目したことがある。What is left over left?(左派の後に何が残ったか)、1980年代に政治の様相が変化しつつあったのは明らかだった。

グローバル化の現実に対して、向後、政治が保守と急進的な社会主義に両極化することは避けなければならなかった。ギデンズは、左派が中道(第三の道)を行くことにより、その存在を維持できると様々な著作で説き明かそうとした。既に、それまでのやり方では存続できなくなっていた福祉国家を新たに設計し直す必要があったのである。

このように西欧でも左派のあり方が問われていた頃、トルコでは、1970年代に支持層となる階級へ根を下ろすことが出来ず、なかなか定着した政治的構造を持ちえずにいた左派は、1990年代になるとその基盤が揺らぎ出してしまう。市場経済の影響もあって、左派の一部は、民主化と自由の問題に焦点をあわせるよりリベラルな方向へ軸を移し、また一部の者たちは国家主義・民族主義的な傾向を深めて、両極化の様相を見せ始めたのである。これでは、ギデンズの言葉を借りるならば、「左派の後には何も残らなかった」ということになってしまったと言って良いだろう。

現在、自らを左派と認識している者たちの一部は、共和国の原則を守ることが自分たちに与えられた使命であると考えている。左派はこの意味において、保守化し後退する状態に陥ってしまった。しかし、左派というのは革新のことであるはずだ。社会が必要とする変革を議題に据えるのは左派を措いて他にない。

左派が綱領に掲げる公正な社会が議題に上らなくなってしまえば、左派は身ぐるみはがされてしまったようなものだ。歪んだ社会秩序、富の分配における不公正、失業、貧困といったコンセプトは、残念ながらこの第二のカテゴリーに属する左派にとって主要なテーマにはならないのである。

下がらない失業率、没落する農業、取り残されてしまった繊維等の業界、一歩も進まない社会保障制度の改革、これらはほんの一例に過ぎない。

どうしてこういったことが議題にも上らなくなってしまったのだろう? 何故なら、左派の後にはリベラルな保守と国家主義・民族主義が残っただけだからである。つまり何も残らなかったのだ。

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