【131】イスラムと女性【ミリエト紙】【2005.03.30】

3月29日付けのミリエト紙よりタハ・アクヨル氏のコラム。アメリカで女性イスラム神学者が導師として金曜礼拝を執り行ったことが話題となっている中、アクヨル氏は男女の平等を求める新しいイスラムの潮流について語っています。

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イスラム世界で男女の平等思想は既に敬虔なムスリムの間にも広がりを見せている。彼らは、その根拠を外部からではなく、イスラムの中から得ているのである。

最近の例をあげるならば、アメリカのイスラム神学者アミナ・ワドゥド女史が導師として金曜礼拝を執り行った。宗教的な喜びを表情に浮かべるこの敬虔な女性は、「コーランはこれを禁じていない」と言う。

そして、「独りメッカに立つ(Standing Alone In Mecca)」の著者である女性ジャーナリスト、アスラ・ヌマニがこれに続いた。ヌマニはその著書で、幼い息子シブリを連れてメッカへ巡礼に行った時のことを伝えている。(訳注:ヌマニ女史は未婚の母とのこと)

彼女はイスラムの4人の聖女から影響を受けたそうだ。聖女ハッヴァ(訳注:聖書におけるイヴ)は「罪と不倫」が何であるかを説き明かし、聖女ハジェルは「砂漠に独り残された女性・母の勇気」を教えている。聖女ハティージェ(訳注:マホメットの最初の妻)は、慈善事業家の先駆けであり、ムスリム女性が自らの運命を決める権利を持っていることを示して見せた。聖女アイーシェ(訳注:マホメットの妻)はイスラムにおける初の女性神学者である。

ヌマニは、この聖女たちの魂をいつも側に感じていると言い、メッカ巡礼中も孤独感にはとらわれなかったそうである。これがヌマニへイスラムの喜びを与え、彼女は敬虔なムスリムとなり、こういったイスラム思想のために働くこととなった。

果たして、ヌマニやワドゥドのような女性たちは、教義から外れた無宗教者なのか? それとも宗教にとらわれている前近代的な人間なのか? そのいずれでもないだろう。

もちろん、彼女たちは非常に特異な存在で、これは極端な例と言える。しかし、この他にも様々な展開が見られる。トルコでは、女性が自ら男性たちと並んで葬儀の礼拝に参列しているし、金曜礼拝への参列を希望する人たちもいる。敬虔なムスリム女性たちは、既に、無慈悲な禁忌を乗り越え、家庭ではなく社会の中で男性たちと平等に働きたいと願い始めた。

トルコの敬虔な女性イスラム神学者ヒダエット・シェフカーティ・トゥクサルは、イスラムに基づく男女平等思想の先駆者となっている。

イスラム神学の識者たちによる「イスラーミエット誌」の女性特集号では、イスラム神学者のファトマ・キョクサル女史が「イスラムの思想家たちが反女性的な態度を取る理由」という論説を書いている。

ハディース(訳注:マホメットの言行録)の研究者であるメフメット・ソフオウル教授は、現在の条件であれば、女性の相続人に対し、遺産を男性の半分どころか、男性より多く与えることが、コーランによる正義の原則に適っていると主張している。この種の規定は、時代や社会的な条件によって形作られるというのである。

新しいイスラムの信仰手引書は、女性に対して、より公平に見ている。

イラクのアエトゥラー・シスターニ師ですら、女性が経済と政治の面において「夫から独立している」というファトワ(訳注:イスラム法官による判決)を出しているのだ。

こういった全てのことは、心的傾向の表出であり、メフメット・アーキフの言葉を借りるならば、「世紀の理解」ということになる。イスラムは新たに解釈されつつある。正しいものもあれば間違ったものもあるだろう。そこから新しい理解が生まれるのである。

預言者が去った後も、様々に異なる社会的な条件により多様な理解が生まれ、これが歳月の中でシステム化されることによって各宗派が創られた。

現在の経済的、社会的な条件は、過去の如何なる時代とも非常に異なるものとなっている。教育、そして個人の自立は、自我の意識、わけても女性の意識を高めた。敬虔な信徒たちは、これを彼らが信じている宗教の中に求める。聖典の中から、かつて先人が導き出すことのなかった解釈を導き出すのである。もちろん、宗教の核心を守りながら・・・。

この変化のダイナミズムを見ずして、敬虔な信仰に「中世」の烙印を押すのは、公式イデオロギーのパラノイアでしかない。同様に、この世の変化を見ないまま、古いイスラム法知識による男性中心の解釈を宗教だと思うのは、狂信的というべきである。

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