【128】アメリカのイスラム【ザマン紙】【2005.03.27】

3月24日付けのザマン紙よりアフメット・クルジャン氏のコラム。ニューヨークの教会で、アミナ・ワドゥド女史が、男女混合のムスリム会衆へ金曜礼拝を先導したことがトルコでは話題になっていますが、クルジャン氏はここで「イスラムの新たな解釈の可能性」について述べています。

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3月18日の金曜日にニューヨークの教会で、アミナ・ワドゥド女史が、男女混合のムスリム会衆へ金曜礼拝を先導したことに私は驚かなかった。私は、03年8月14日付けのザマン紙に掲載された「目覚めよムスリム」という拙稿で、イスラムへ改宗したアメリカの人たちが創設した「ムスリム・ウェイクアップ」なる財団の活動に触れ、聖マホメットに従う会衆としての一線を越えない範囲でイスラムを新たに解釈する活動を加速させなければならないと指摘した。さもないと、解釈の技術と方法の面から見て、育った地域の文化から影響を受けたこの人たちは、将来、非常に異なる実践を試みるようになるかもしれず、ワシントンで男女が横に並んで礼拝する姿を例にあげながら、これは始まりに過ぎないと申し上げたのである。

そして、スポンサーであるムスリム・ウェイクアップ財団と「ムスリム・ウーマンズ・フリーダム・ツアー」によってコーディネートされた例の金曜礼拝によって私の指摘は実際のものとなった。自説の正しさを強調するようなことはしたくないが、これで終りにはならないはずだ。将来、アメリカの生活スタイルに根ざした異なるイジュティハード(訳注:聖典の自由解釈)、そして実践が現れることは避けられぬ宿命である。

世界のメディアの注意を引きつけ、その目的を果たす為に、礼拝があの形で行なわれることを前もって知らせておきながら、その場所を明らかにしなかったことや、爆破の密告、礼拝所として教会が選ばれたこと、遠方からも「歴史の証人になる」と言う信者が訪れたことは、これが良く考えてコーディネートされたものであるという確信をいだかせる。

私はここで、新聞やTVの討論番組のテーマとなったような「問題の宗教的な側面」、つまり「女性が、金曜や祭日、あるいは日常の礼拝で男性たちに対して導師の役割を果たすことができるか?」という問題について考えてみようとするのではない。最初に申し上げたように、この特殊なテーマよりも、さらに重要な位置を占める「論理あるいは実践のイスラム的な価値を新たに解釈する」問題について語りたいと思う。この稿の表題を「アメリカのイスラム」とした理由もこれである。

イスラム学に興味のある方なら御存知のように、イスラム教は、「Islam」と「Islamiyet」(訳注:いずれも辞書ではイスラム教)、あるいは「ed−Din」と「Diyanet」(訳注:いずれも宗教・信仰の意)として、二つの異なる分野で研究される。「Islam」と「ed−Din」がコーランとマホメットの言行による不変の基準を表現するものであれば、「Islamiyet」と「Diyanet」は、可変のダイナミックなフォームを説き明かす。信仰は、信じるべき価値、そして礼拝のフォームと共に、宗教における不変の部分に位置する。これにイジュティハード(訳注:聖典の自由解釈)の余地はない。しかし、振舞いや罰則のような部分では、特定の方法により、コーランおよびマホメットの言行を新たに解釈できる。確かな論証に従って行なわれるこの解釈は、望むと望まざるとに拘らず、イスラムに基づく行動のフォームを変えてしまう。「Islamiyet」「Diyanet」というのは、即ちこれのことである。

ここで大切なのは、イジュティハードを行なうことができる学者たちの存在、そして、実際に新しいアプローチが必要とされているかどうかである。必要もないのに、この過程へ踏み込むことはファンタジーに過ぎない。このように資格もない人たちが主張する「既成の考え」によるイスラムのアイデンティティーは議論の対象となるものだ。

アメリカには、元々ムスリムの移民と後から改宗した人たちがいて、少なくとも700万のムスリム人口があるという。しかも、統計によれば、アメリカで最も急速に増加している宗教はイスラムである。

ムスリム移民の第一世代は、自分たちの文化や習慣をこの地に持ちこんだ。第一世代は、そのモスクや婚礼の様式、身なり等の特徴により、アフガニスタン、パキスタン、エジプト、トルコといった各地のイスラム文化に相応しい生活スタイルを持っていると言えるが、第二、第三の世代に同様のことを言うのは無理である。如何に同化されなかったとしても、生まれ育った国の文化から、宗教的なアイデンティティーが影響を受けたことは疑いもない。

元来ムスリムの移民でさえこうなっているのに、改宗した黒人や他のアメリカ人の状況が異なっていることは期待できないだろう。彼らはイスラムへ改宗した時、かつての宗教による知識を手放したとはいえ、習慣や習慣によって形作られた人格は維持したままなのである。この人たちは、おそらく可能な限り誠実な気持ちと考えにより、イスラムを彼らの習慣と共に信仰しようとしている。例えば、次のような考え方は、それを示していないだろうか? 「女性がモスクへ裏門から入り、礼拝では男性の後ろに並ぶことや、女性の指導者がいないことは、女性を軽んじた感じを与える。ならば、男女の平等を基本にした整備が必要である」。

しかし、ここで二つのことが看過されている。先ず、こういった解釈が、聖典やイスラム法学について語るだけの充分な知識もなく、方法論に乏しい、資格のない人たちによって行なわれていることだ。そして、「アメリカの生活様式に合わせる」というのが、解釈を試みて来た唯一の理由である。この状況は、宗教における不変と可変を混同する結果を招くことになる。例えば、こうして現れたのが今話題になっている「女性の先導による金曜礼拝」だが、これは彼らにとって、必要どころではない不可欠なものとなっている。

次に、主体とならなければならないイスラムが、こういった解釈により客体となってしまっている、あるいは「されてしまった」という事実。そもそも、イスラムは一つの宗教としてキリスト教とは異なり、生活の隅々に至るまでそのモデルを示し、信徒がこれを実践するよう望んでいる。言いかえれば、本来、客体となるべきものは、イスラムではなく人間なのである。望まれるのは、習慣にコーランとマホメットの言行を合わせることではない。コーランとマホメットの言行にある論理と実践の価値に従ってムスリムの生活を整えることだ。自然に任せていたのでは隙間は埋まらないから、資格のある人間が素早く隙間を埋めなければならない、つまり、発展し変化する条件の中で、イジュティハードが許される領域において、その任務を果たさなければならないのである。さもなければ、PBSの取材に応えて、自らを「ポストモダン」と位置付け、金曜礼拝を先導する何人ものアミナ・ワドゥド女史が現れることだろう。

最後に申し上げるが、彼らによる「イスラムの復活(Islamic resurgence)」「イスラム・アイデンティティーの新しい形(reconfigurations of idendity)」という考えは肯定する。しかし、それは原典に従ったものでなければならない。

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