【125】トルコにおけるもう一つの宗教庁【ザマン紙】【2005.03.23】

3月18日付けのザマン紙よりエティエン・マフチュプヤン氏のコラム。宗教およびアタトュルク思想に関する論考です。

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近代化における最も難しいエリアはいつも宗教だった。なぜなら、如何に改革を図ろうとも、信仰の世界を世俗的な手段によって作りかえることには限界があるからだ。トルコでは、モダニズムが宗教より優れた正しいものであるという固い信念は揺るぎもせず、世俗化を硬直した政教分離主義に変えてしまう態度が好まれた。この未解決の問題は、今日も革新の要求であるとか、ある特定の宗教が民主主義に適しているかどうか、といった偽りの議論によって維持されている。

そもそも、思想の面から見れば、民主主義に適した宗教などは何処にもない。宗教は家長的な世界観と概念によって正統性を得るのである。家長的な思想から民主主義を派生させるのは難しい。だから真の問題は、宗教が変わり行く世界に和しながらも、その基本的な価値を守ることができる解釈の豊かさを生み出せるかどうかにかかっている。言いかえれば、民主主義への適応とは、宗教の信条を変えることではなく、宗教の内面的な多様性を活かすことによって可能となる。

宗教に関する上記の事柄は、トルコの場合、政教分離主義にも通用する。なぜなら、このエリアにも、国家を主導するモノリシックな定義とこれに基づく強制が行なわれているからだ。モダニズムの相対的な面を無視して、革新思想から個の確立を除いてしまい、その結果、個の確立を「宗教から遠ざかること」であると考えたものの、真の自由を与えるわけではない為、宗教から遠ざかった個人を国家が庇護するというトルコ式モダニズムを作り出してしまった。

そして、個の確立を成し得なかった「近代的な個人」が、国家の望み通りの態度を取るように、政教分離という信仰システムを創造する必要があった。即ち、アタトュルク廟が一種の巡礼の場となり、ヌトゥク(訳注:アタトュルクの演説を集めた本)が神聖なテキストとして扱われる、といった例はこれまでにも多くのジャーナリストによって指摘されてきた。

これは、トルコでは政教分離主義も「民主主義への適応」という問題を抱えていて、政教分離主義者たちが真の個人とならない限り、問題は解決されないことを示している。

一方、個の確立に対する国家の態度も重要である。つまり、この過程を加速させたり遅くしたりするのは国家の手にかかっているからだ。もちろん、先ずは、アタトュルクに関わる秘密裏の検閲を撤廃させなければならない。この重要な人物を取り巻く全ての事柄と共に、異なる解釈が可能となるよう自由化させることである。

しかし、最近、新聞の紙面に反映されている重大な展開を見ると、自由化どころか、制圧が冗談としか思えないようなレベルに高まっている。首相府アタトュルク文化院、言語・歴史高等委員会アタトュルク調査センターは、今後アタトュルクに関する全ての刊行物を調べ、誤った批評を明らかにするそうだ。委員会のトップに立つ教授は、その目的を「アタトュルクが民衆から正しく理解される為」と説明している。このようにして、若者たちが誤った思想ではなく、アタトュルクの教えに従うことを確実にさせるという。

つまり、我々の前には、アタトュルクについて何が正しいことであるかを知り、この件に関しては自分が客観的な権威であることを宣言し、アタトュルクのラインから外れたものを誤ったイデオロギーであると宣告する組織が存在しているのである。

そして、宗教庁と全く同じように、この正しい思想を委員会の教授殿が作り出したとは言えないから、このエリアにおいても、その拠り所は国家ということになってしまう。

なんと幸せなことに、我々の国家は、ここで暮らす人々とは全く無関係に、この世の中とあの世における正しい思想がなんであるかを知っているのだ。そして、それを我々と分かち合うことなど意中にない。この場合、我々も個人ではなく、正しいムスリム、正しいアタトュルク主義者にならなければならないのだろう。

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