【116】シルクロードの街ブルサに絹はもう残っていない【ミリエト紙】【2005.03.02】

2月27日付けのミリエト紙より、ギュンギョル・ウラシュ氏のコラム。かつては絹の街として有名だったブルサ市ですが、今や絹織物を中国から輸入しているそうです。

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ブルサ市のブティム・ビジネスセンターにある「中国−文化・観光・教育センター」で、所長のヌイ・テキスタイル交易社代表ネジャト・ヤフヤ氏、そしてエル鋳型産業の代表ファレッティン・ギュレネル氏と中国茶を飲みながら話した。

ネジャト・ヤフヤ氏に中国との関係を尋ねたところ、「頻繁に中国へ行ってます。中国から絹織物を輸入しているんですよ」と言う。絹の本場ブルサが中国から絹を買っていることに驚きながら訊き返すと、「トルコに絹はもう残っていません。ブルサで絹織物を生産していた所は既に店を畳んでしまったのです。今や、トルコの絹製品は全て中国から輸入されています。織りあがった絹製品を輸入しているんです」という答えだった。

彼らは私に、昔からの大きな絹業者であるジェルビシ・テキスタイルのギョカン・ジェルビシ氏を紹介してくれた。ギョカン・ジェルビシ氏の説明によれば、かつて父ハリル・ジェルビシ氏の時代、ハムザベイとムラディエでは何処の家でも絹を織っていたのに、今は養蚕に携わる人もなく全ての絹織機がその役割を終えてしまった。

「近代化という考えに基づいて、古いものを何でも棄ててしまいました。自分たちが手にしていたものを失ってしまったのです」と言うのである。「失われたのは絹だけじゃありませんよ。アンゴラという山羊がいて、その毛は最も価値のあるものでした。私たちはこれを根絶やしにしてしまったのに、米国人がこの山羊を持ちかえって、今じゃアンゴラ・ウールの9割は米国で生産されています。ブルサの辺りで生産されていた繭の糸も世界一の品質でした。今、我々に養蚕業は残っていません。しかし、繭研究所だけはあるんですね。日本や中国では、産業が私たちより進んでいるにも拘らず、蚕を育て、絹を織ることを続けています。我々の新しい世代は蚕や繭が何であるのかさえ分かっていません」。

私が書物などから調べたところによると、1900年代、ブルサは絹の生産において中国に次ぐ規模をもっていた。ブルサの周辺には90の加工場があって絹を織っていたというのである。

私の父は、第二次大戦中、バルトゥンに赴任していた。バルトゥンで大家さんの娘は、蚕の卵(蚕の卵は芥子の実のように小さく丸いものである)を袋に入れ、暫くの間胸に抱きかかえながら体温により孵化を早め、その後で屋根裏に敷き詰めた桑の葉の上へひろげたものだった。孵化した幼虫は桑の葉を食べ繭を作るのである。そのうち、繭に穴が開き、幼虫は蝶となって羽ばたいて行く。大家さんの娘は、繭の中から卵を取り出し、繭を籠に入れて業者へ売り、これは彼女の小遣、そして嫁入り道具を揃えるお金になった。

ハタイ、アダパザル、ビレジック、ソウトのような、桑の木が育つ湿度の高い地方では、こうやって蚕を育てていた。繭はブルサに集められ、糸に紡がれた後、織機へかけられたのである。

私たちは、先ず桑の木を切り落としてしまい、そして養蚕を軽んじた。最初の内は、中国から絹糸を輸入し、ブルサで織っていた。それが、既に織られた物を輸入するようになっている。とても安いから(外貨があるうちは!)、織る手間などかけられないそうだ。1mで2.5〜4.5ドル、後は顧客に届けるだけ!

先月、私はギュル外相と共に中国へ行き、キン・プー市で、「ズー・ジィア・ジャオ絹センター」を見学した。中国の人たちは、この博物館で、中国から始まりトルコへ至るシルクロードの歴史を再現し、中国の養蚕業を説明している。これからは、ブルサの人たちが中国へ行き、この博物館を見学して、蚕が何であり、絹織物がどのように織られるのか学ぶのだろう。なぜなら、ブルサでは養蚕と絹加工を根こそぎにしてしまったから、見本となるような織機さえ一つも残っていないのである。

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