【110】“犠牲祭”の大切さ【ラディカル紙】【2005.01.21】

1月20日付けのラディカル紙よりヌライ・メルト氏のコラムを一部訳してみました。トルコでは毎年犠牲祭の頃になると、犠牲祭で家畜を屠殺する行事を非難する声がメディアで高まりますが、メルト氏はそれに対する自分の見解を述べています。

****

何故、私たちは肉を食べているにも拘らず、その肉がどのようにして食卓に至ったのかを思い起こさないようにする為、「動物は苦痛を感じなかった」と言い聞かせて自らを欺こうとするのだろうか? そこには重大な偽善性があり、これは人間の生存と自然との関係を考えることから逃れようとする態度ではないのか? 犠牲祭はおそらくこの為に、つまり自然との関係を私たちに思い起こさせる為に重要なのである。苦痛を与えないで殺すという主張ほど偽善的なものはあるだろうか? フセイン・ハテミ氏が言うように、人に苦痛を与えず殺せることが保証されれば死刑にも反対しないということなのか?

ベジタリアンの人たちは、「Meat is murder」と主張する。ラディカルなベジタリアンだった故リンダ・マッカートニーは「I can't eat anything with a face」と言っていた。この方がよほど整合性があるのではないか? 菜食主義は一つの解決策となるかもしれないが、私には分からない。私としては、人間の存在の悲劇から逃れれるのではなく、それと向き合い、但し人間性を失わずにそれを克服しなければならないのではないかと思う。この世界で生きることにはそれなりの代価があるはずだ。私たちの近くに存在する生物の命は、この代価を思い出させる為に重要である。近代的な思考の薄弱さは、代価を支払わずに生きていけるという虚構へ逃れようとしてしまう。これは人間の感受性を高めたりはしない、逆に人間を鈍感にさせ、無責任なものにする。自分の存在の悲劇から逃れようとする人間は、お互いに犯した罪や自分の安楽の為に他者を害した責任から逃れることにも合理的な弁明を巧みに見つけられるようになってしまう。

****

▲トップページ
▲前の記事
▲次の記事
▲トルコの新聞記事INDEX