【106】オスマン朝とビザンチン、タハ・アクヨル氏の見解【ミリエト紙】【2004.12.31】

12月30日のミリエト紙よりタハ・アクヨル氏のコラム。『【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である』の記事に対して、アクヨル氏がその見解を述べています。

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歴史への見方も変わって来ている、というより豊かになって来た。例えば、既にオスマン朝を一つの文明と見なければならないことに気づき始めている。

トルコ共和国は、オスマンの遺産をラディカルな形で拒否した。「トルコ人の忘れ去られた高い文明」を、この地域に栄えたオスマン朝やセルジューク朝ではなく、古代に求めようとした(訳注:モンゴル高原に栄えた突厥などの文明)。

現在は、皮肉なことに、共和国がしっかりと根を下ろすに連れて、オスマン朝へもっと関心を示すようになった。そして、徐々にビザンチンも視野へ入り始めている。

ネシェ・ドュゼルのインタビューに答えたムラット・チザクチャ教授は、ローマ・ビザンチンとオスマンの領域がほぼ重なり合うことを指摘しながら、次のように語っている。

「オスマン朝はローマ・ビザンチンの遺産を受け継ぎそれを発展させた。・・・オスマンはビザンチンの進化した姿・・・ファティフ帝は、ユスティニアヌス帝と同様に旧ローマを復興しようとした・・・」。

ところが、アタトュルクは同じ理由からファティフ帝を批判していたのである。アタトュルクによれば、オスマン朝は広い帝国の領域で、基本的な要素、即ち「トルコ民族」を挫いてしまったことになる。

ズィヤ・ギョカルプもオスマン朝の文明を語りながら、「ビザンチン」と言って非難している。例えば、我々の古典音楽は「トルコではなくビザンチン」だった。アタトュルクの考え方も同様である。

かつては、オスマン朝がトルコではない他の文化・要素を認めていた為に批判され、今は異なる文化を包み込んでいた為に称賛されている。

トルコ民族主義の社会学者であったギョカルプは、オスマン朝を多民族であったこととビザンチンの要素により非難した。同じ系統の社会学者エロル・ギュンギョルは、オスマン朝の文明を擁護している。

どちらが正しいのか?

この質問は好ましくない。なぜなら、時代によって優先されるべきものは異なっているからだ。いつの時代でも、その当時に何が優先されていたかによって、歴史や将来を見ていた。

今日、オスマン朝の文明、その寛容さ、多文化の構造が称賛されているのは、「寛容、多文化、門戸開放、文明間の和解」といった価値観が重要となってきたことによる。

トルコ共和国創設期に優先されていたのは違うものだった。優先されるものが異なれば、歴史に与えられる意味合いも変わるのである。

オスマン朝の征服事業を「スルタンたちの個人的な欲望」によるとしたのでは、余りにも安易すぎるというものだろう。ローマとビザンチンを創造した地中海の地政学は、オスマン朝の普遍性をも創造した。そのために、各々の領域は、実際、ほぼ重なり合うのである。

この観点は、今日の世界をより広い地平から見る為、そして文明への認識を豊かにする為に役立つ。

チザクチャ教授は、多分、ローマ・ビザンチンの要素を強調する為に、そういった歴史的な資料を並べて見せながら、「オスマン朝は発展したビザンチンである」という誇張したイメージを示したのだろう。

キョプルルは全く逆に、ビザンチンを完全に除外してしまった。偉大な歴史学者フアト・キョプルルは、1931年、「ビザンチンの機構がオスマンの機構に与えた影響」という論説で、「オスマンはビザンチンである」という安直さを論破している。オスマン朝の文明に見られる中央アジア、トルコ、イスラム、中東のルーツを明らかにして見せたのである。

ハリル・イナルジュクは、オスマン朝の文明をビザンチンの遺産として見せる共に、中央アジアをルーツとするトルコ人、中東、イスラム、さらにはササン朝ペルシャの文明が、非常に大きな役割を演じたことを論じている。

結局、全ての偉大な文明は、大きな混交なのである。純粋な人種と同様に、純粋な文明も存在しない。

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