【105】我々はフランス人の千倍もビザンチンの子孫である【ラディカル紙】【2004.12.30】

12月27日のラディカル紙よりネシェ・ドュゼル氏のコラム。フランスのシラク大統領が、「我々は全てビザンチンの子孫である」と述べたことが、トルコでは反発を招きました。この問題について、ドュゼル氏はバフチェシェヒル大学で文明論を教えている経済史の専門家ムラット・チザクチャ教授にインタビューしています。

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Q:フランスのシラク大統領は、トルコがヨーロッパから縁遠いものではないことを強調するために、「我々は全てビザンチンの子孫である」と言いました。私たちはこれに反発し、一部の閣僚はこの発言に罵声を浴びせているほどです。何故、世界史上の重要な帝国と関連付けられることが、私たちを立腹させたのでしょう?

A:それは、私たちの歴史教育に原因がある。つまり、私たちには、ローマ・ビザンチン帝国を倒したことが誇りとなっているからだ。ローマ・ビザンチンは、世界史上の最も偉大な文明であるにも拘らず、私たちの歴史認識によれば、「我々は、諸々の帝国・文明を打ち倒した英雄的な民族」ということになっている。私たちは、この歴史認識により、自らを野蛮人(バーバリアン)にしてしまった。文明を破壊するものは即ち野蛮人であり、彼らは私たちのことを野蛮人と呼んでいる。

Q:何故、私たちにはビザンチンという言葉が侮辱のように聞こえるのでしょう?

A:理解し難いことだ。オスマン帝国はビザンチンをそのように見ていなかった。

Q:どのように見ていたのでしょう? ビザンチン帝国を倒したオスマン帝国は、ビザンチンを見下していたのではなかったのですか?

A:そんなことは全くない。オスマン帝国はビザンチンに敬意を表していた。なぜなら、オスマン帝国は、自らをビザンチンの続きと見ていたからだ。たとえば、ファティフ・スルタン・メフメット(訳注:1453年にコンスタンティノープルを攻略したオスマン帝国の皇帝)は、「カイセーリ・ルム」という称号を得た。「カイセーリ・ルム」とはローマ皇帝という意味である。ファティフ帝が自らをローマ皇帝と見ていたのであれば、オスマン帝国がローマ・ビザンチンを見下すことは可能だろうか? 

興味深いことには、ビザンチンの人たちもファティフを皇帝として受け入れていた。彼らもファティフ帝を「スルタン・バシリウス」、即ち「我々の皇帝」と呼んでいたのである。ファティフ帝が以前の皇帝と異なる唯一の点は、彼がムスリムであったことであり、その為にビザンチンの人たちは、彼のことを「スルタン皇帝」と呼んだのだ。

Q:ビザンチンの否定は、トルコ共和国になってから始まったのですか?

A:80年間、3世代にわたって学校が教えてきた歴史はビザンチンを見下している。オスマンとビザンチンの関係を表面的にしか捉えていない。かつてのギリシャ・ローマ・ビザンチン文明を全て除け者にしてしまった。これは非常にショービニストで攻撃的な歴史認識である。我々は帝国を倒したことを愚かに誇っているが、その帝国は世界史上の偉大な文明の一つなのだ。

Q:何故、私たちの学校はビザンチンのことを「陰謀を好み、『一本の針の上に何人の天使がいるのか』といったような問題に煩わされている愚かな社会」と教えているのでしょう?

A:私たちはビザンチンばかりでなく、オスマン帝国をも否定的に見ている。それは、トルコ共和国が600年の歴史を持つ王朝を倒し、新しい体制を造ったからだ。共和国は正統性を得なければならなかった。新しい体制は、どのようにして正統性を得るのか? 「かつての体制は非常に悪いものだった」というのである。この地域には、ローマ・ビザンチン・オスマンという継続したものがあったから、共和国はこの継続性を絶ち切ろうとした。ところが、オスマンのファティフ帝が望んだものは継続であり、全く新しい体制を造ることではなかった。

共和国の創設期に「我々は帝国を打倒する。我々は英雄的な国民である」という思想を支持する為に、オスマンとビザンチンをあれほどまでに見下したことは理解できる。しかし、80年経っても、共和国が歴史を未だこのように認識していることは理解し難いことだ。

Q:ローマとビザンチンとの関連を否定したことにより、私たちは野蛮人になってしまったと仰いますが、ヨーロッパは、ローマとビザンチンを否定しなかったオスマンのことも野蛮人と言ってました。これは何故でしょうか?

A:17世紀の末に至るまで、西欧はオスマンに対して畏敬の念を懐いていた。西欧から見れば、オスマンはローマの延長だった。ユスティニアヌス帝の時代には、普遍的な地中海帝国が築かれる寸前だったこともある。

野蛮人(バーバリアン)という言葉が使われるようになったのは、1699年以降、特に19世紀へ入ってからのことである。それは、彼らがギリシャ文明の後継者と見なしていたギリシャ人を「トルコの頚木」から救い出す為だった。トルコ共和国がギリシャ・ローマ・ビザンチンの遺産を拒否したことは、この思想の展開に貢献した。我々は罠に落ちたのだ。誇るべきルーツを否定してしまったのである。

Q:ビザンチンは、世界史上の最も偉大な帝国であり西洋文明のルーツと言えるローマ帝国の最後の姿でした。ローマ帝国の延長であるビザンチンは・・・

A:というより、ビザンチンとローマは同じ帝国だった。ビザンチンを「キリスト教化したローマ帝国」と言っても良い。我々はビザンチンを見下しながら、自分の足元に弾を打ち込んでいるようなものだ。ヨーロッパは、「ローマ・ビザンチンは我が文明の源である」と言っている。私たちの場合、ビザンチンと言われることは侮辱であると思いながら、ヨーロッパに入ろうとしている。しかも、ローマ帝国の首都に居るのである。つまり、文明の首都に居ながら、その文明に敬意を表していない。加盟しようとしているヨーロッパは、この文明に敬意を表し、あるフランス人は、「我々は全てビザンチンの子孫である」と言う。実際のところ、私たちは、フランス人の千倍も「ビザンチンの子孫」であり、もっとローマ人なのだが、これを否定しているのである。そもそも、私たちの学校で教えられている「ビザンチンを倒した」という認識も間違っている。倒さなかった・・・

Q:では何をしたんですか?

A:逆に、オスマン帝国はこの遺産を発展させようとした。ビザンチンの殆ど全ての機構を受け入れ、それを発展させ、宗教を進化したものにした。さらには、ローマ・ビザンチンの支配領域をも再現しようとした。この為にジブラルタル海峡まで行ったのである。

ユスティニアヌス帝は滅亡した西ローマを復興、地中海に「一つの神、一つの国家、一人の皇帝」を実現させようとして、6世紀に西欧へ遠征し、西欧のかなりの部分をビザンチン帝国の領域に加えている。ファティフ帝は、正にこのビザンチンの政治思想を身につけていた。彼も、ユスティニアヌス帝と同様に旧ローマを復興しようとしてイタリア遠征を企てている。私たちは「ビザンチンを倒した」と言っているが、ファティフ帝はビザンチンを倒さなかった。逆に、ローマ帝国を復興しようとしたのである。

Q:では、他のオスマン朝の皇帝たちはどうでしょう? 彼らも自分たちをビザンチンの続きと見なしていたのですか?

A:ビザンチンを継続し守り、進化させたと考えていた。ローマ・ビザンチンとオスマン帝国の地図を比べて御覧なさい、4分の3は重なっているはずだ。それに、オスマン国家がつくられる時、ビザンチンの要人も、政府の中枢に迎え入れられている。例えば、キョセ・ミハル、エヴレノス・ベイ、プルサ知事のサロス・・・。

著名な歴史家ヒース・ロウリーは、オスマン国家がトルコ人とビチュニア(訳注:アナトリアの北西部)のビザンチン人によって創られたことを歴史的な証左と共に明らかにしている。ロウリーによれば、征服された地域の正教徒ビザンチン人に対する寛容と、相互の協力がなければ、ムスリム・トルコ人の人口が短期間にあのように大きな領域へ広がることは、少なくとも人口統計学的に見て不可能であるという。

トルコの歴史家ハリル・イナルジュクによっても、15世紀のオスマン軍では高官の半数がクリスチャンによって占められていたことが明らかにされている。しかも、その多くはビザンチンの帝室であるバレオロガス家の出身であったという。もしも、コンスタンティノープルが征服されていなければ、皇帝コンスタンティン11世の後を彼の甥にあたる人物が継ぐことになっていたが、その人物は、征服から17年後に、オスマン帝国海軍の司令官メスィヒ将軍として歴史の舞台に登場する。このような例は枚挙に暇がないほどで、これはもう寛容という言葉では説明がつかない。

Q:ではどうすれば説明がつくのでしょう?

A:継続性によって説明できる。オスマンはビザンチンの進化した姿と言って良い。ビザンチン帝国は続いたのである。ただ、1453年5月29日のコンスタンティノープル陥落により、王朝と宗教が変わったということだ。バレオロガス朝が去り、オスマン朝になった。ビザンチン帝国で王朝が変わるのは珍しくない。それまで何回も変わっている。しかし、この時は国家の宗教も変わったのである。政権はクリスチャンからムスリムの手に渡った。

宗教の変更は一種の進化だ。かつてのローマは多神教だったのが、320年、コンスタンティヌス帝によりキリスト教の三位一体の説を受け入れ、1453年にイスラムとなった。つまり、最もラディカルで絶対的な一神教に進化したのである。ゆえに、ファティフ帝は自らを「ローマ・ビザンチンへ真の宗教をもたらしたバシリウス/皇帝」と称している。

Q:共和国はビザンチンとの関連を否定しましたが、今日の私たちにビザンチンの名残を見ることはできませんか?

A:当然のことだ。音楽ではビザンチンの旋法をそのまま受け継いでいる。アヤ・イリニで、イスタンブールのアザーン読誦者たちによる合唱団とアテネのビザンチン音楽合唱団が一緒になってイスラム神秘主義音楽のコンサートを開いたのだが、同じ旋律で、一方はギリシャ語、もう一方はトルコ語で歌っていた。

音楽ばかりでなく建築、さらには、国の政治にも名残を見ることができる。政府が経済に干渉すること、積極的な起業精神を潰してしまうその姿勢、資本の蓄積が見られないことなど、様々なところにビザンチンの名残がある。商工業者が持っている国家に対する恐れは、ビザンチン以来のものだ。オスマン帝国は、収税システムも含めて、ビザンチンにあった殆どの機構を受け継いでいる。例えば、ローマ・ビザンチンの土地制度は、オスマン朝でもそのまま続けられた。これは、ローマ法が存続していたということだ。そして、全く同様にトルコ共和国でも国土の90%は国家に属している。

西欧では、教会と皇帝の間に激しい権力闘争があったものの、コンスタンティノープルでは国家が宗教、つまり総主教府を支配していた。オスマン帝国は、この宗教に対する支配を一層強め、共和国になってもこれが続いている。オスマン帝国のシェイフイスラーム(訳注:オスマン朝における宗教大臣)と今日の宗教庁長官のポジションは、ほぼ同様のものと言える。

Q:それにも拘らず私たちはビザンチンとローマ帝国との関連を否定しました。また、西洋文明の源とされる古代ギリシャの地で暮らしているのに、ギリシャ文明との関連も否定しています。何故こんなことをしたのでしょう?

A:やはり正統性の為だった。これは悲しいことである。古代ギリシャも素晴らしい文明だ。それを拒否することは自分たちを小さくすることでしかない。共和国は80年に亘る体制だが、全ての偉大な古代文明との関連を否定している。ありえることではない。

Q:ギリシャがオスマン帝国から独立するため起こした戦争、及び、トルコ共和国の救国戦争において、ギリシャと争ったことが、ビザンチンの拒否に影響を与えていますか?

A:ギリシャの独立戦争に始まり、我々の救国戦争まで続いた争いは、実のところ、数百年にわたって共に暮らしてきた親族が別れる為の争いだった。そして、これはアイデンティティーの争いでもあった。ギリシャ人はビザンチンを求めたが、私たちはビザンチンもオスマンも拒否してしまい、後にオスマンだけを認めている。双方とも、ローマ・ビザンチン・オスマンの文明をお互いに補完しあったことを見ていない。

Q:もしも、共和国が始めから、学校教育において歴史を「戦争の歴史」ではなく、文明の歴史として教えていたならば、トルコは今と違ったものになっていたでしょうか?

A:もちろんそうだ。世界の偉大な歴史的建築物の一つであるアヤソフィアがアナトリアの建築家によって造られたこと、それがスレイマニエ・モスクとスルタンアフメット・モスク(訳注:ブルーモスク)によりさらに洗練されて続いたこと、オスマン朝が伝統と機構、国家思想において、ローマ・ビザンチンの延長であったことを知っていたならば、EU加盟へ反対する者も「異なる文化」などという口実は使えなかったはずだ。

Q:私たちは、それと知りながら、もしくは知らぬ間に、西欧に対する敵愾心を子供たちへ植え付けてしまっているのでしょうか?

A:そう、文明との関連を否定することにより、西欧を敵にしてしまった。しかし、一方で西欧化、そしてEU加盟に努力している。酷いコンプレックスの中にいると言って良いだろう。

Q:現在、ヨーロッパの文明とより近い関係を築きたいと私たちは願っています。歴史の教科書を新たに書き直す可能性はありませんか?

A:この件に関しては、重要な展開がある。ボアズイチ大学の歴史哲学科の友人たちは歴史教科書に見られる偏見をつきとめている。歴史教科書が新たに書かれる場合、古代ギリシャ・ローマ・ビザンチンを「我々の歴史」として明らかにすべきだ。

Q:私たちはビザンチンの子孫なんですか?

A:遺伝子的にはそういうことになる。1453年から今まで、祖先は母方も父方ビザンチンである。もしも、アナトリアへ20年前にアメリカから移民して来たのでなければ、つまりずっとこの土地に住んでいたのであれば、もちろんビザンチンの子孫に違いない。中央アジアから来たというのであれば、その時は混ざり合ってしまったということだ。貴方も私も混ざり合っている。私たちは混ざり合った社会の住人である。

Q:学校でこれを教えることはできるのですか?

A:何故、教えようとしないのか? これが事実ならば、何故隠そうとするのか? これはなかなか素晴らしいことだ。アメリカでは72の民族が混ざり合った。アメリカ人は混ざり合っていることを恥じているだろうか? 私は、なんで私の中にあるトルコ人、オスマン人、ビザンチン人を恥じる必要があるのか? 逆にそれを誇っている。我々は全てビザンチン、オスマンの後裔である。私の教室にいる150人の学生に、「家系を19世紀より先に遡ることができるか?」と訊いてみたが、一人も19世紀より先には遡れなかった。

Q:それはどういう意味でしょう?

A:皆混ざり合ってしまったのである。間違いなく、歴史のある時期に宗教を変えているだろう。貴方の祖先も私の祖先も、ある時期に宗教とエスニック・ルーツを変えている。凄まじいほど、宗教、文化、アイデンティティーの変更が行われたはずだ。貴方も私も祖先を遡れば、ある時点でビザンチン人になってしまう。ギリシャに住む人たちも、トルコに住む人たちもエスニック・ルーツはオスマンへ、そしてビザンチンへ遡ることができる。我々の祖先は、ある時点でイスラム教を認めて改宗したが、ギリシャ人は変えなかったのである。

Q:つまり、この国へ皆中央アジアから来たわけではないと、そういうことですか?

A:もちろん。中央アジアから来た人たちもいるが、彼らもこの遺伝子のプールに紛れ込んでしまった。トルコ的なものは、オスマンのアイデンティティーにおける一つの要素だが、全てではない。私たちはアメリカのようなものだ。この大地には、壮大な混交がある。中央アジアから来たトルコ人はその一つの要素に過ぎないのに、我々は他の要素を否定し、一つの要素だけを認めていた。

Q:トルコ人がビザンチンの子孫であるということを侮辱と受け取らずに済む日は訪れるでしょうか?

A:そうならなければならない。なぜなら、これは壮大な文明だからである。私はオスマンの子孫であることを誇るのと同様にビザンチンの子孫であることも誇っている。

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原文
http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=138523

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