【99】「トルコ人」という概念【ラディカル紙】【2004.11.22】

11月16日のラディカル紙よりムラット・ベルゲ氏のコラム。首相府人権問題アドバイザー委員会のレポートに「トルコに住む人たち」という概念が使われたことから議論を呼んでいる問題に対し、ベルゲ氏がその見解を明らかにしています。

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「憲法による国民」であるとか「包括的なアイデンティティー」、「トルコ人」あるいは「トルコに住む人たち」といった概念に関する論争が盛り上がっている。ここで問題となったレポートに対し激しく反発した人たちや彼らの言動はそれほど驚くべきものでもなかった。こういった人たちがいることは以前から知られていたからだ。しかし、正直言って、タハ・アクヨル氏が見せた反応には驚きを禁じえない。タハ・アクヨル氏は様々な問題に対しリベラルな姿勢を見せ、このような白熱した議論の中でも、穏健で常識的な態度を維持できる人物であったはずだ。

彼は、11月8日のコラムで、1876年に発布されたオスマン帝国法と1924年の共和国憲法において、「国民」がどのように定義されていたのかを説明していた。まず、双方とも国家へ国民という紐帯によって結び付けられていることを明らかにしている。それから、オスマン帝国の法では宗教と宗派、1924年の共和国憲法では宗教と人種の違いによる「分け隔てはない」とされ、前者では「例外なくオスマン人である国民」、後者では「トルコ人と名付けられる国民」と表現されたと説明しているのである。

これは確かなことに違いない。そして、タハ・アクヨル氏は、これらの言葉が「ルーツ」ではなく、「法に対する従属性」を強調していることを指摘した。これも正しいことだろう。しかし、「オスマン人」と「トルコ人」は同じカテゴリーの言葉と言えるだろうか? 19世紀の後半、世界には多くの人達が、異なる宗教、異なる民族であるにも拘らず、同じ王朝の臣民として暮らすことに慣れ親しんでいた。これは、オスマン朝、ハプスブルク朝、ロマノフ朝などに共通して見られることだった。あるクロアチア人はオーストリア帝国の臣民であり、もう一方のクロアチア人はオスマン帝国の臣民であり得たのである。

当時、こういった問題はなかなか複雑な様相を見せていた。例えば、ハンガリーの国民的な英雄であるコシュートは、ドイツ人を母に、クロアチア人(スロバキア人かもしれない)を父に生まれている。オスマン帝国末期の「統一と進歩委員会」(訳注:トルコ共和国を成立させた人達の母体となった組織)の5人の創設者の内、僅かに一人がトルコ民族をルーツとしていたことも興味深い例と言えるだろう。しかし、20世紀になると、このような複雑さには、なかなかお目に掛かれなくなる。

それに、そもそもが「オスマン」は王朝の名であり、「トルコ」は一つの民族の名である。1924年の共和国憲法に謳われた「トルコ人と名付けられた国民」の理想に基づいて、「国民」と「民族」の区別が通用すると未だに信じられているのなら、アラブ人もグルジア人も、この意味では「トルコ人」ということになるだろう。「国民」と「民族」、つまり「合理的な区分」と「エスニック的な区分」の違いがあると仮定して見ても良い。それでも、「トルコ人と名付けられた国民」という概念には問題があるかもしれないのだ。そして、現に問題となっている。

ところで、共和国憲法発布の後には、どのような展開があったのか? 我々トルコ人(共和国の主体となっている)は、この「トルコ人」という名がニュートラルな型に収まるよう、何らかの努力をしたのだろうか?

答えは「ノー」である。何の努力もしなかった。それどころか、全く逆に、中央アジアであるとかエルゲネコン(訳注:伝説上、中央アジアでトルコ民族の開祖が出現したされる地)、アセナ(訳注:エルゲネコンへの道を示したとされる伝説上の雌狼)、ボルテ・チェネ(訳注:伝説上の雄狼)、こういった民族のルーツにまつわることを、その概念に付加しようとしたのである。

私に言わせれば、これらの為にそれほど美しい「概念」は作られなかったと考えて良い。にも拘らず、我々は飽きもせず懲りもせず、これ以上美しく、これ以上気高い「概念」はないと説明し続けて来た。実際は、言葉や文学を通して、民族主義どころではない人種差別的な思想で「トルコ人という概念」を飾ってきたのである。そして、後になってから、ボスニア人やクルド人、アラブ人やチェルケズ人に対し、“トルコ人と名付けられる”ことを望んだりしたのだ。ほんの少し前まで、中央アジアの親族たちはさておき、ブルガリアの民族的同胞の為に大騒ぎしていた。しかし、この国で「トルコ人と名付けられた国民」として暮らしているクルド人たちの北イラクの親族に対して、クルド人とは言い難い為、「北イラク人」などという新しい民族を作り上げたりしているのである。

「トルコ人」は、90年に亘る共和国史において、全ての人達を招き寄せることができるニュートラルな概念だったのだろうか? また、非ムスリムの共和国国民を招き寄せることは一度たりとも考えられたのか?

問題は、あの言葉であるとか、この名にあるのではない。全ての言葉や名を、ある人たちにとっては気高いが、他の人たちにとっては避けなければならないものにしてしまったイデオロギーと、これに基づいたシステマチックな展開があったということだ。だから、これを取り除かない限り、言葉や名称の上だけでこの問題を解決することはできないのである。

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原文
http://www.radikal.com.tr/haber.php?haberno=134427
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