「メルハバ通信」 第4章 クズルック村に別れを告げる

信仰の自由
トルコ人はぬるいのが好き
トルコのエンジニアたち
隣国ギリシャへの小旅行
キプロス島での出来事
トルコのクルド語事情(1)
トルコのクルド語事情(2)
トルコのクルド語事情(3)
トルコのクルド語事情(4)
トルコの人達の民族感情



信仰の自由

 本当かどうか分からないが、こんな話を聞いた。イスタンブールに住む男が、ラマダンの最中に仕事で東部のエルズルムへ出かけた時のこと。旅行中は断食をしなくても良いことになっているので、日中どこかで食事のできるところはないものかと思い、通り掛かりの青年達に尋ねたところ、「断食していないとはとんでもない奴だ」と小突き回され、ほうほうの態。その後、カーテンを閉切ったまま営業している食堂を見つけ、やれやれと思いながら、中へ入ると、先ほどの青年達が食卓を囲んでいたというのである。それで、「私をさんざんな目に合わしておいて、君達は一体どういう了見なんだ?」と咎めると、「俺たちは断食しない代りに、他人に断食させることで、その埋め合わせをしているんだ」と悪びれる様子もなかったという話。

 クズルック村の辺りでは、アクヤズの町に行っても、ラマダン月に日中営業している食堂など殆どないと思う。この村でも、断食を全くしない人はいるが、別に小突かれなくても、あの雰囲気の中で断食しないでいるのは結構つらいものがあるはずだ。

 ラマダンには一種お祭りめいた雰囲気があって、日没ともなると親族等が集まって盛大に夕食を楽しむ。これにより、家族の絆も強まり、人々はムスリムとして同じ共同体の一員なのだという気持ちを確かめ合うのではないだろうか。トルコは全般的に治安の良い国だが、これには人々の持つムスリムとしての自覚が一役買っているような気もする。クズルック村で、盗難のような犯罪については殆ど聞いたことない。(名誉に関わる問題で相手をズドンというのはある)

 しかし、アタトュルクの精神を支持する人たちは、このような状況のもとで人々が個々の自由な意志に基づいて宗教的な活動を行なっているとは思えないと言う。確かに、エルズルムの話はともかくとして、クズルック村でも断食を行なわない者に対しては、共同体から無言の圧力が加えられるかも知れない。だからといって、この村で共同体からの離脱、例えば他の宗教への改宗を宣言することは殆ど不可能に違いない。イスタンブールのような大都市で例が見られるように、クリスチャンになってしまったり、ムスリムの女性が異教徒のところへ嫁いでしまうわけにはいかないのだ。

 工場でスカーフをしている女性が、「私たち、いつもこうやってスカーフ被っているから髪が早く傷んでしまうのよね」とこぼしているのを聞いたこともある。姉妹の中でひとりだけが被っているような場合もあり、本人の意志によるものが殆どであるとは思うが、周囲の状況により不本意ながら、というようなこともないとは言えないだろう。職場でスカーフの着用が禁止されている為に却ってホッとしている女性がいてもおかしくはない。

 とはいえ、トルコの大学が、校内でのスカーフ着用を禁じているのは、どう考えても行き過ぎであるような気がする。イスタンブール大学には、スカーフを外すよう説得する為の「説得室(イクナオダス)」なるものまであるそうだ。入試の際、スカーフ着用者を閉め出した為、スカーフの上からかつらを被って校内に入った受験者が話題になったこともある。

 2001年9月11日のニューヨークにおけるテロ事件以来、スカーフを被っている女性が多いと欧米から誤解をまねくとして、スカーフを規制しようという声は尚一層勢いを増した様子。タルカンというポップシンガーのニューイヤーコンサートにまで、妙な注文がついてしまった。タルカンはなかなかセックスアピールのある今風な男性シンガーで、トルコの若者達から絶大な人気を得ているばかりでなく、ヨーロッパでもそのエキゾチックな雰囲気が受けているとか。このタルカンの後ろで踊るダンスチームの女性たちが目から下をベールで覆っているのがけしからんというのである。デニズリ県知事からの要請を受けて観光省の大臣は、ニューイヤーコンサートに限りベールを取るよう関係者に指示したそうだが、そのダンスチームはニューイヤーコンサートに出場が予定されておらず一件落着。

 デニズリ県の知事は、「ニューイヤーコンサートは72カ国で生放送されるのに、ダンスチームの女性たちが顔をベールで覆っていたのでは、我が国のイメージが損なわれると考え、観光省に要請した」と明らかにしている。しかし、このダンスチームの女性たち、顔こそベールで覆っているが、体のほうは胸と下腹部を隠しているだけのビキニスタイル。この知事が何を心配したのか、どうも良く解らない。何とか言って、実はこの機会に彼女たちの顔を拝んで見ようとでも考えたのだろうか。


トルコ人はぬるいのが好き

 クズルック村には温泉が湧き出ていて、宿泊できる施設もあり、イスタンブールからも湯治客がやって来る。しかし、イスラム色の強いイフラスという会社が施設を運営している為、湯治場一帯にはアルコールを提供する店も無く、日本の温泉とは大分違った雰囲気である。5〜6階建ての宿泊施設が軒を並べているところなどは、なんだか郊外にある団地のような感じだ。各室にバスルームからキッチンまで備わっているアパートのようなこの施設を、湯治客は2日から2週間の単位で借りて宿泊する。ほとんどの利用者が家族連れで、長期に亘って滞在する家族も少なくない。また、訪れる人達には敬虔なムスリムが多く、スカーフを被った女性がやたらと目につくのもここの特徴と言える。

 全室のバスルームに温泉が供給されているくらいで、湧出量は豊富。イフラス社は施設の敷地内とそこから500メートル以内の地域で湧き出る温泉全ての利用権を持っていて、近所の住民が庭先を掘っていて温泉が湧き出て来たとしても、自分達だけで利用するのはともかく、それで営業してはならないそうだ。しかし、イフラスの施設では湧き出て来る湯を使いきれず、そのまま流してしまっていることもあり、「どうせ捨てるのなら、うちにも回してくれ」と近所の住民が要求しているという話も聞いたことがある。

 私も時々、施設内にある共同浴場を利用している。ここには直径が15mぐらいありそうな円形の大浴槽があり、水着で入浴するようになっているが、もちろん男女は別。トルコでは、男同士であってもフルチンになることは決してない。

 源泉は90℃にもなるそうで、適当な温度に冷まして使っているとのこと。しかし、あれではどう考えても冷ましすぎ。どうせなら、高温と低温で浴槽を別にしてくれたら良さそうなものだが、トルコの人達は、現状でも熱いと言っているくらいなんで、そうなると、もっとぬるいのができるだけかも知れない。

 トルコではハマムと呼ばれる蒸し風呂が有名で、イスタンブールには創業何百年という歴史のあるハマムもある。私はトルコに来る前、蒸し風呂というのだから、湯気がもうもうとして相当に熱い、日本で云う湿式サウナのようなものを想像していた。

 それで初めてハマムに行った時、店の人が、腰巻用の布を渡しながら、「まあ、20〜30分ぐらいが適当でしょう」なんて言うので、「良し、それぐらいは何とか頑張るぞ」と気合を入れて中に入ると、湯気がもうもうというほどでもなく、ちょっと蒸し暑い程度。「なんだこれは、これなら2〜3時間ぐらいでも大丈夫そうだ」と思いながら、他の客達の真似をして、中央にある「ギョベックタシ(ヘソ石)」という温められた大理石の台に寝そべっていると、垢すり係のおっさんがやって来て、垢すりの勧誘。しかし、「綺麗なお姉さんならともかく、こんなおっさんに擦られたんじゃたまらない」と思って、申し出を断わり、尚しばらくのあいだ横になっていた。ところが、いつまで経っても、薄っすらと汗が出て来るだけで、一向にカーッと熱くはなって来ない。しょうがないので、隅の方へ行って、腕立て伏せをしたり、ヒンズースクワットをしてみたりすると、ようやく汗がダラダラと流れ落ちて来る。それから、やおら体を洗い始めたのだが、洗い終わる頃には、熱気にむせ返っていて、荒い息をしながら逃げ出すように外へ出る始末。低温でじっくりと温まった所為か、拭いても拭いても汗が吹き出て来る。冷たいコーラを持ってきてくれた店の人は、「だから、20〜30分が良いところだと言ったでしょう」と、なにやら勝ち誇ったように笑っていた。

 今でも、たまにハマムへ行くことはあるが、日本でもサウナでガーッと汗をかいて、冷水プールにドボーンというのが好きだった私には、どうもハマムはピンとこない。イスタンブールにはフィンランド式のサウナもあるので、もっぱらこっちの方を利用している。ところが、このサウナがまたぬるくて、ガーッといくには程遠い代物。こんなことにも国民性が出るのかどうか知らないが、過激な人達の多い韓国に行くと、このサウナがまた滅法熱いのである。低温と高温とふたつあるところもあり、高温のほうに入ってみると、サーモスタットがいかれてんじゃないのかと思えるほど熱いことがあって、局所を濡れタオルで覆っておかなければ、とてもじゃないけど我慢できないような場合もある。それでも、韓国の人達は、「アイゴー!」とか「オイフッ」、または「エッシ」などと気合を入れながら頑張るわけだ。サウナの中で、もういい年のおっさんが、いきなり腕立て伏せを始めたりもする。これがトルコだと、サウナに来るような中年のオヤジ連中は、大概腹がブヨッと弛んでいて腕立て伏せどころではない。

 イズミルに居た頃、ラマダンの最中に昼間からサウナに行った時のこと。私の隣で4〜5人のトルコ人が楽しそうに雑談しているので、耳を傾けていると、

「うーっ熱い、でもここを我慢して、出た後で冷たいビールを飲むと、これがたまらないんのだなぁ」

「おい、聖なるラマダン月になんてことを言うんだ。おまえ地獄に落ちるぞ」

「へーっどうだい、地獄もこんなに熱いか行って見てやろうじゃないか」

 これで一同爆笑。しかし、日本のサウナだってもっと熱いのである。地獄はずっと熱いに違いない。


トルコのエンジニアたち

 クズルックの工場ではトルコの国内向け、トゥズラの工場では欧州へ輸出する製品を作っているのだが、いずれも使われている部品や機械設備は、その殆どが日本もしくは欧州から調達されている。しかし、コストダウンの為に「可能な限り現地から調達」というのは当然の成り行きで、先日も或る装置について、日本からの出向者であるマネージャーが「現地で作らせることはできないものか?」と考え、トルコ人スタッフと私を引き連れ2、3の業者を回って見ることになった。

 最初に訪れたのは、イスタンブールの市内、けっこう地代も高そうな場所で、駐車場付き2階建ての自社ビルを持つ業者。受注により機械設備を設計、製造しているそうである。着くと直ぐに社長室へ通されたのだが、少し照明が落とされた部屋には豪華な調度品が並び、高級そうなオーディオセットからはクラシック音楽が流れ、『おいおい一体何の商売をしているんだ?』というような雰囲気。ゆったりとしたソファーに座らされて、周りを良く見ると、隅の棚には洋酒の瓶がズラリ。怪しく照らされた水槽には得体の知れない熱帯魚が泳いでいるという有様。

 50歳ぐらいの自らがエンジニアであると言う社長氏も、黒いシャツに黒ネクタイという出で立ちで堅気の商売をしている人には見えない。それでも、まずは真面目な調子で業務内容や会社の履歴について語り始めたのだが、社名の由来を訊くと、フッフッと笑いながら、

「まあ、建前は『実用・電気・機械』の頭文字なんですが、本当の意味は別にあるんですな。それ、知りたいですか? フム、良いでしょう。お教えします」なんてもったいをつけてから、

「もう亡くなってしまった友人ふたりとこの会社を設立したんですが、ある晩、私の家に集まって、社名を何にするかということで、夜中まで、あーでもない、こーでもない、と議論を続けていました。そしたら、夜中の3時になって、やっと女房のメラルがコーヒーを用意して、のこのこ現われるじゃないですか。その時、『畜生! 間抜けなメラルの奴め!』と思って、ハタと気がつき、この『畜生、間抜けな、メラル』の頭文字を社名にしようと決めたんですよ」

 それからも、どこまで本当なんだか分からない話が度々出て来て、私は『このオッサン、大丈夫か?』と心配になったが、マネージャーは「開発なんか手がけている技術屋には、日本でも変わったのが多くて、こういう人も珍しくないよ」と言って、平気な顔をしていた。

 実際、加工現場に入って機械を前に説明を始めると、表情がいくぶんキリッと引き締まり、段々エンジニアらしく見えてくる。マネージャーとはエンジニア同士ということもあって、直ぐに打ち解けたようだった。ところが、技術的な話も肝心なところになると、「これから先のことは後でゆっくり話しましょう」と言ってはぐらかし中々抜け目がない。

 昔は数倍の従業員が働いていたそうで、「アナログの時代には電信の分野にもたくさん仕事があったんですね。それがデジタル化されてしまうと、もう我々の技術ではどうしようもならなくて、今や全てに輸入品が使われています」と難しい状況にあることを説明していた。

 社長室に戻って、技術的なことをもう少し詳しく訊こうとすると、「どうでしょう、近くに洒落たレストランがあるんで、まずは食事でもして、それから一杯やりながら話すことにしませんか?」なんてことを言い出す。いきなり接待されても困るので丁重に断わると、「それじゃあ、今日のところはここまでですね。酒が入らないことには、あれ以上のことは話せません」という調子で、結局肝心なことは解からずじまい。マネージャーも、「うーん、日本でも、技術上の詳細は酒が入らないとダメという人はさすがにいなかったなあ」とあきれていた。

 次に出掛けた所は、イスタンブール郊外にある産業団地で、倉庫のようなビルの2フロアを借りてテレビの部品等を製造している業者。社長と名乗る人物は未だ30代の半ばといったところだろうか。白地のワイシャツに地味なネクタイ、下はジーパンで如何にも実直そうな感じである。社長室なんてものもなく、我々を狭苦しい事務所へ恐縮しながら案内。具体的な話に移ってからも、「ここで使う機械装置を製作したことはありますが、それを他所へ納めたりした経験はありません」などと不安そうな顔をするくらいで、あくまでも控え目だった。

 翌日、トルコ人のスタッフに、「あの社長はなかなか印象が好かったね」と言うと、「なんで?」と訊き返す。

「だって社長然と偉そうにしていなかったよ」

「そりゃそうさ。あれはオーナー社長なんかじゃないだろう。トルコであんなオーナーがいるわけないじゃないか」

 確かに、他の業者を見ても、オーナー社長であれば、大した仕事はしていなくても、社長室だけはうんと見栄をはる傾向がある。

 それに中小企業ならいざ知らず、大企業ともなると技術者出身のオーナー社長など殆どいないかも知れない。ある大企業に勤めるエンジニアは、「僕なんかが起業してオーナーとなる可能性は全くありませんよ。だって大学を卒業してしまいましたからね。見て下さい、トルコの財閥たちを。コッチもサバンジュも創業者はまともな教育なんて受けてませんよ」とため息をつく。彼は、そういった底辺からのし上がって来た人達のバイタリティーと豊かな創造性を認めていたものの、「どちらも商人の故郷カイセリの出身です」と続けて、『金を集めるのが巧いだけじゃないか』とでも言いたげな様子だった。

 とはいえ、トルコもかなりの学歴社会になっていて、多くの企業が給与の面で大卒者とそうではない者の間に甚だしい格差をつけている。しかし、オスマン帝国の時代から「羊飼いの子が大臣になれる国」であり、貴族階級も形成されなかったという(その為に民主主義が育たなかったのだとも言われている)トルコでは、今でも徒手空拳のサクセスストーリーには事欠かない。例えば、企業家として力をつけた後、政界入りして93年には国務長官として権勢をふるったジャビット・チャーラル氏。彼は中卒で繊維問屋の店員から出発したそうである。

 最近、イスタンブールで観光や飲食業により成功を収めている人達を見ても、南東部から出て来たクルド人などが目立って多いように感じる。きっと、ハングリー精神が旺盛で『金を集める』のが巧かったのだろう。

 大学を出てしまったトルコのエンジニア達は、彼らに比べるとちょっと塩気が足りていないのかも知れない。


隣国ギリシャへの小旅行

 今でこそ労働ビザの発給を受け居住許可証も持っているが、91年〜94年にかけて3年ほどトルコに滞在していた頃は、ビザ無しで居られる3ヶ月が経過するたびに、ギリシャへ出国して戻って来ることを繰り返していた。

 それでも、当時(91年〜94年)、トルコの入管で、「こんなに長期間にわたって一体何をやっているんだ?」などと尋問されたことは殆どない。大概、出入国のスタンプだらけになっているパスポートのページを面倒くさそうに捲って空いているところ見付けると黙って「バン」と入国のスタンプを押してくれた。日本人の場合、出稼ぎってこともないだろうと大目に見ていたのかも知れない。しかし、イスタンブールではバルカン半島やアフリカ等々から出稼ぎに来ている不法就労者もかなり目立つ。

 最近はブラック・アフリカからやって来る人達が特に増えていて、路上でアクセサリーやら時計を売りながら生計を立てている模様。なんでも、彼らはトルコへ入国するやパスポートを破り捨て、不法滞在で摘発されても頑として出身国を言わないのだそうである。そうなると、出身国を特定して彼らを強制送還するのは至難の業になってしまうのだとか。

 ちゃんと留学生として来ていたタンザニアの青年に訊いたら、アフリカの人達にとってトルコは極めて居心地が良いそうで、「ヨーロッパは、人種差別があって大変なんですね。日本なんかだと我々黒人は切り殺されちゃうって聞きましたよ」なんて悪戯っぽく笑っていた。

 さて、ギリシャへの出国だが、イズミルにいた頃は、市内から2時間ほどのところにあるチェシュメという港まで行き、もうそこから見えているキオス島へ午前中に港を出るカーフェリーで渡れば、これでギリシャへの出国は完了。フェリーは夕方、チェシュメへ戻るので、またそれに乗ってトルコへ再入国。こうやって、朝出て夕方戻って来る外国人が私の他にも結構いて、どうやら同じ目的で渡航しているようだった。

 イスタンブールから出国する場合は、アテネ行きのバスに乗り、国境を越えてから最初の町、アレクサンドロポリスで下車。そこで一泊して、翌朝、やはりアテネからやって来るバスに乗り込んでイスタンブールへ。こちらの場合も、アレクサンドロポリスで下車した外国人とは、翌朝のバスで大概また一緒になった。少しお金に余裕があれば飛行機を使ってもたかが知れているから、いずれもケチな外国人といったところである。

 バス便では、トルコ国民としてイスタンブールに住んでいるギリシャ人や、その逆でギリシャ国民としてギリシャ領内に住むトルコ人に会ったりしたこともある。

 一度、イスタンブールへ戻るバスで、わざわざバスを使う必要もなさそうな品の良い初老の男女数名のグループと隣合わせたところ、その内の何人かはイスタンブール在住のギリシャ人であることが解かった。彼らは他のギリシャ人の乗客とはギリシャ語で話すのだが、仲間内ではトルコ語の会話となる。どうやらトルコ人の友人たちをアテネに案内してその帰りだったようである。

 イスタンブールには、トルコ国民であるギリシャ人やアルメニア人の子弟が通う公立の民族学校(高校まで)もあり、それぞれギリシャ語、アルメニア語により教育を行なっているため、彼らの多くは自分たちの言葉を失うこともなく、その民族性を維持している。トルコでは非ムスリムの異教徒である彼らだけが少数民族として認められてきたのだ。

 バスの中での彼らの会話にちょっと耳を傾けて見ると、ギリシャ人の女性は、「アテネのあの店も悪くないけど、やっぱりイスタンブールの何処そこの店の方が良いわねぇ」というように、頻りとイスタンブールを自慢していた。トルコ人の友人に気を使っているというわけでもなく、ごく当たり前に自分たちの故郷であるイスタンブールを誇っていたように思う。

 ショッピングについて考えてみれば、人口百万に満たないアテネと、一千万人を超え、ギリシャ全土の人口にも手が届こういうイスタンブールでは、物流量などの面で比較にならないかも知れない。しかし、彼女はイスタンブール市民として、それだけではないイスタンブールの魅力に愛着を感じていたのではないだろうか。ビザンチン時代からの住人である彼らギリシャ人は、それこそ生粋のイスタンブール人と云えるはずだからだ。

 やはり、歴史的なイスタンブールの住人であるアルメニア人の知人は、「今のイスタンブールは田舎から出て来た人達ばかりで、ちゃんとしたトルコ語を使える人がなかなかいません。正しいトルコ語を学びたいと思ったら、私のトルコ語を聞いて下さい。うちの家族はもう四百年もイスタンブールに住んでいます」と誇らしげに語っていた。

 また、イスタンブールで7世代に亘って暮らして来たというアルメニア人の老婦人は、親戚を訪ねて、昨年アメリカへ行って来たそうだが、ビバリーヒルズに住むというその親戚の生活を「余り羨ましいとは思えない」と言う。「だって、危ないから歩いて外へ出てはいけない、なんて言うのよ。何処へ行くにも車なのね。イスタンブールも最近は随分物騒になってきたけど、この辺だったら夜一人で買い物に出かけることぐらい何でもありませんよ。私はアメリカへ行って、つくづく私達の暮らせる所はここしかないと思いましたね」。

 アルメニア人に関しては、オスマン帝国の時代に所謂「アルメニア人大虐殺」という悲しい歴史があった。共和国になってからは、共和国政府が1942年に富裕層に課した重税、さらには1954年の9月に発生した非ムスリムの異教徒を標的とする民衆の暴動などにより、アルメニア人ばかりでなくギリシャ人等も続々とイスタンブールを去って行ったようである。

 1954年9月の暴動については、当時イスタンブールで経営していた食料品店を暴徒に襲われたマケドニア人正教徒の回想をビンユル紙(2000年6月18日)で読んだことがある。

「友達は皆トルコ人でした。その日は映画を見に行っていたのですが、トルコ人の友達がやって来て、私を外に呼び出します。父に何かあったのかと思い、そう尋ねると、『君の店が襲われている』と言うのです。『何故?』と問い返すと、友人は私の顔を驚いたように見つめていました。その時、やっと自分がトルコ人ではないことを悟ったのです。その日までは自分をトルコ人のように感じていましたよ。というより、トルコ人って何なのか、異教徒って何なのかってことが解かっていませんでした。そんな風には育てられなかったんです」

 もちろん、外国人も増え、ますます開放的になってきている現在のイスタンブールで、このような事件が再び起こることはないだろう。そのマケドニア人の食料品店も健在だそうである。また、そういった苦難を乗り越えて、イスタンブールで暮らし続けた彼らが持つイスタンブールへの思いは、却って格別なものになっているのかも知れない。

 国としてのトルコとギリシャの間にも、キプロス島の紛争など様々な問題がある。しかし、最近は関係改善の兆しも見えてきているし、なにより、エーゲ海を挟むこの二つの国に住む人々は本当に良く似ている。その外見はもちろんのこと、物腰であるとか、食文化であるとか、違っているのは宗教と言語だけじゃないかと思えるほどだ。

 アレクサンドロポリスを歩いて見ると、街の雰囲気も何となく似ているような気がする。道端に並べられた椅子に腰掛けてお茶を飲んでいる男達の様子などは周囲の光景もあいまって滑稽なほどそっくりだ。ただ、言葉が通じないので、人々に何だか冷たいものを感じてしまうが、これは仕方のないことだろう。

 しかし、こんなこともあった。アレクサンドロポリスの街角で、労働者風の若い男を掴まえて、メモに書かれた住所を示しながら道を尋ねたところ、「オーケー」というようなジェスチャーをしてから、目の前に止めてあったボロ車の助手席に私を押し込んで出発。目的地に近づくと、車から降りて、周りの人に訊きながら、その住所まで連れて行ってくれたのである。大分、距離もあったし、何かお礼をしなくてはと振り返ると、彼は「ノーノー」と手を振って、逃げるように走り去ってしまった。似たようなことをトルコでは何度も体験しているが、こういう親切はなにもトルコの専売特許ってわけでもないようだ。

 経済的な面で見ると、トルコとギリシャにはかなりの格差があり、一人当りのGNPは、ギリシャの7,390ドルに比べトルコは2,120ドル(共に93年度)に過ぎない。しかし、トルコの場合、国内で西部と東部の間に経済格差が激しく、エーゲ海地方やトラキアなどを見る限り農村も豊かで、ギリシャとは殆ど差がないように思える。また、イスタンブール新市街の高層ビル群やイズミット辺りの大規模な工業地帯を見れば、トルコの方がまさっているように感じないこともない。

 いずれにせよ、トルコ西部の地方都市やイスタンブールの繁華街を歩いて見ると、「この国は中東よりもギリシャに近い」という印象を得るはずだ。トルコは中央アジアから東に突き出た国というより、バルカン半島の先にある国といった方があっているかも知れない。

 ラディカル紙に毎週日曜、ヨルゴ・クルバキという特派員の「アテネ便り」が掲載されている。このクルバキ氏はトルコ国民のギリシャ人で、記事にも自然とトルコとギリシャの友好を願う気持ちが反映されているが、一応トルコの立場でこれを書いているようだ。この「アテネ便り」にこの前こんな話が出ていた。

「いったいトルコの女とギリシャの女にどんな違いがあるのだろう。思うにそれ程違いは無いはずだが、全く同じというわけでもない。二つの国から、容姿や気質の似通った二人の女を選んで、それぞれイスタンブールとアテネのカフェテリアに座らせて見よう。夏はまだ終っていないから、二人ともノースリーブで肩紐だけの服を着ている。どちらも手振りを交えながら話に夢中だ。で、同時に二人の肩紐が落ちてしまったらどうなるか? ギリシャの女は気にすることもなく話し続けるに違いない。トルコの方はと云えば、多分、さりげなく手を肩に持っていくだろう」


キプロス島での出来事

 去年(2000年)は、就労ビザ取得のため、4回も北キプロス共和国(トルコだけが承認している)へ足を運ぶはめになった。北キプロスは住民もトルコ人なら、通貨もトルコ・リラ。トルコから市外局番で電話が掛けられるとあって、ほとんどトルコの国内旅行みたいな感じである。

 それはともかく、イスタンブールからキプロス島の空港に降りたって、まず腹立たしいのが市内までバス便がないということ。タクシーに一人で高い料金払って乗るのは癪にさわるので、なんとか二人同乗者を見つけて三人の相乗りで利用していた。ところが3度目のキプロス参りでは、空港でどうしても相棒が見つからない。

 それで、途中からヒッチハイクでもしてやろうと、市内の方へ向かって歩き出したところ、いくらも行かないうちに、同じ便で来て同様に市内へ行こうとしている二人連れと合流した。一人は学生でアンカラの出身、もう一人は40才ぐらい、南東部のビトゥリスからビジネスの関係で度々キプロスへ来ると言う。一応きちんとした身なりをして怪しげな感じではない。スラブ系のような風貌だったが、ビトゥリスならまずはクルド人だろうと推量した。

 しばらく三人で歩いていると、ライトバンが止まり市内まで送ってくれると言う。車内にはハンドルを握っている中年男だけ。後ろの座席に置いてあった荷物を片付けてもらって早速乗り込んだ。

 この中年男は地元の人間、市内の工事現場で監督をしているそうである。えらくおしゃべりな男で、政治やら経済の話題を次々持ち出しては一人で話し続けていた。そのうちクルド人の問題に話しが及び、トルコ政府のやっていることは生ぬるい、クルド人の主張を認めてはいけないというようなことをまくしたてる。私はビトゥリス出身の男の反応が気になったが、たまに相槌をうったりしながらおとなしく話を聞いていた。

 車がそろそろ目的地に近づいたところで、男は道端を行く数人の人夫達の脇へ車を寄せ、徐行しながら何事か命令しているようだった。それから私達に向かって「うちで使っている人夫なんですよ。皆トルコ南東部の出身です」と説明。すると、ビトゥリスの男はちょっと身を乗り出して「えっ、南東部のどこですか」と訊く。男がさも嫌そうな感じで「どこだか知りませんよ。皆クルド人でさあ」と答えると、ビトゥリスの男はきっぱりとした言い方で「私もクルド人なんだよ」と切り返した。一瞬の沈黙の後、誰が口火を切ったともなく皆で大爆笑。キプロスの男もビトゥリスもゲラゲラ笑っている。キプロスは笑いながら「いやー、私もあなたがクルド人かも知れないなとは思っていたんですよ。言葉になまりがあるでしょう」。ビトゥリスも「へえーっ、私のトルコ語がなまっているとは知らなかったな」と言いながら笑っていた。

 車が目的地に着き、お互い握手を交わして別れる時にも、大いに笑った感じがまだ残っているようだった。実際あの場面では、笑うより他に場の繕いようがなかっただろう。それにしても、よくあんな風に直ぐ笑えるものだと感心したくなる。トルコではこんなことが結構あるので皆さんコツを心得ているのかも知れない。


トルコのクルド語事情(1)

 イスタンブールに住んでいた頃、街角にある食堂や商店で、顔馴染みの店員が他の客に向かって突然トルコ語ではない言葉を使って話し始めるのを何度も見たことがある。その度に遠慮なく何語なのか訊いてみたのだが、その多くがクルド語であり、いつも、『あまり知られていない珍しい言語ではないだろうか?』と期待しながら訊くので、『なんだまたクルド語か』とがっかりするほどだった。

 トルコの政府は、クルド語に対して弾圧を繰り返して来たと言われている。しかし、私がトルコへやって来た91年には、少なくとも、イスタンブールやイズミルのような都会では、クルド語が既に堂々と話されていた。

 それでも、92年、故オザル大統領がクルド語による放送やその教育について言及すると、各方面から猛烈な反対の声があがり、大統領は孤立してしまった。とはいえ、私が居た学生寮の若い友人たちの大半は、「クルド人がクルド語を話すのは当然じゃないか」というような認識であり、一度、数人の学生がこのことで議論になった時も、クルド語の放送に反対していたのは一人だけだった。

 反対する学生は、「君たちはクルド人のことなんか何も知らないからそんなことが言えるけど、クルド人の要求なんか認めてはいけない」などと言うのである。「じゃあ、君はクルド人のことを知っているのか」と訊かれると、彼は、思わず私が小首を傾げたくなるようなことを言い返した。「僕のところは親戚の半分がクルド人なんだ」。彼は、クルドやアラブの住民が多いハタイ県の出身だったのである。

 93年にオザル大統領が突然の心臓麻痺で亡くなると、その後はクルド語についての論議にも余り進展が見られなくなってしまう。その頃から、クルド語による民謡などが、カセットやCDで売られるようになったものの、クルド人の大物歌手が堂々とクルド語で歌えるような雰囲気にはなかなかならなかった。

 例えば、トルコの国民的歌手ともいえるイブラヒム・タットゥルセス、通称イボ。(クルド人であり、アラベスクという演歌のようなジャンルの大御所。手広く事業を展開しているところは千昌男氏を思わせる)彼は80年代、スウェーデンで公演した際、クルド語の歌を披露し、帰国後直ちに逮捕されたそうだ。92年だかにも、オザル大統領の娘の結婚式に招待されてクルド語で歌い、この時は大勢の招待客が退場するという騒ぎになっている。また、98年にも、アフメット・カヤという人気歌手が、芸能関係の賞を受け、その受賞式で抱負を訊かれた際、「クルド語で歌うことです」と答えると、式場には罵声が飛び交い大混乱に。アフメット・カヤはそれから間もなくしてパリへ移りそこで客死した。

 トルコには、クルド人だけでなく、アブハズ人やら何やらどのくらいあるのか見当もつかないくらい色々な民族が存在している為、それぞれの民族語に関する要求を認めていたんでは収拾がつかなくなると一部の人達は恐れていたようだ。(彼らの中にもトルコ語を母語としていない人達がいたかも知れない)

 しかし、イスタンブールの街角でクルド語による会話がためらわれるというようなことにはならなかった。

 2001年の夏、イスタンブールにある中華風ファーストフード店で、レジの青年にオーダーを伝えると、「すみません。ちょっと時間が掛かります。お待ち下さい」と言ってから、間を持たせようとでもするように、「日本の方ですか? トルコ語お上手ですね」などと色々話し掛けて来る。

 東洋人が来店することは多いと見えて、一応、「アリガトウ、カムサハムニダ、シェシェ」と3ヶ国語で対応できるようになっていた。

 故郷を尋ねると、ディヤルバクルと答えたので、これは私もクルド語でお返ししてあげなきゃいけないと思い、彼の方へ顔を寄せて、「チュワニバシィ」と囁いたところ、彼はまず、嬉しさのあまり顔をくしゃくしゃにさせながら「ワーオ」と歓声を上げ、それから大きな声で、「バシィ、ナンタラホンタラ」とひとしきりクルド語で喋ってから、私の横で順番を待つ他の客達に向かって、「皆さん、これは素晴らしいことです。この日本の方は、トルコ語が話せて、クルド語も知っています」などと大袈裟なことを言い出す。

 お客の中には、つられて少し笑顔を見せる人もいたが、皆黙ったままでシラーっとした雰囲気。特に私の隣にいた背の高い中年の紳士は、「なんだこいつ、怪しげな奴だな」とでも言うような冷たい表情で私を見下ろしている。青年はこの雰囲気に気がついていないのか、それとも気がついているからこそ、ここぞとばかりに主張しようということなのか、「いやー、日本の方がクルド語を知っている。本当に素晴らしい」と何度も仰々しく繰り返すのである。私は、「また下らないことを言って墓穴を掘ってしまった」と穴があったら入りたいような気分だった。


トルコのクルド語事情(2)

 94年、アナトリアの南東部を旅行したのだが、当時は未だクルド人ゲリラPKKの活動も盛んで、南東部の大半が非常事態宣言下に置かれていた。その後、99年にPKKのオジャランが逮捕され、状況は良くなったというものの、イラクとの国境を有するハッカリ県の場合、02年の7月になってやっと非常事態宣言が解除されている。

 私はハッカリまで足をのばしていないが、あの辺りでは一触即発の緊張した状態が続き、住民の殆どがクルド人であるにも拘わらず、街中でクルド語を大っぴらに話すことは憚られたそうである。

 私が実際に旅行したディヤルバクル(非常事態宣言の解除はこちらの方が遅く、02年11月。)などでは、街中でクルド語らしき会話を耳にすることもあった。しかし、住民の大半がクルド人であることを考えると、かなりクルド語の使用を控えていたような気がする。

 ディヤルバクル市内の野外カフェテリアで行なわれていた結婚式の様子を見ていると、マイクを片手に司会を務める男が、時々トルコ語とは思えない意味不明の言葉を叫ぶ。近くにいたカフェテリアの従業員に、「あれは何を言っているのですか?」と訊くと、「クルド語で『お婿さんは誰だ』と叫んでいるんですよ」と言う。

「ここに集まっている人達は、皆その意味が分かっているんですか?」

「もちろん、皆クルド人ですから分かっていますよ」

「それじゃあ、全部クルド語で話しても通じるわけですね?」

「まあ、そうかも知れないけど、それはちょっとやばいですよ」

 イスタンブールなどでは、いくらクルド人同士の結婚式であっても来客の全てがクルド人ということはまず考えられないだろう。ディヤルバクルでも、皆が皆クルド人でクルド語を全て分かっているという話には少し誇張があったかも知れない。それでも、住民がクルド語を大っぴらに話せないような雰囲気を感じていたのは確かなようである。

 ディヤルバクルからミディヤットに向かう途中にあるハサンケイフという景勝地を訪れた時は、バスの運転手に、「危険なことはないけれど、一応、憲兵隊の許可は取っておいた方が良い」と言われ、憲兵隊本部の前で降ろされた。門番の兵隊に理由を説明すると、中の部屋へ私を通し、司令官が来るまで少し待ってくれと言う。

 待っている間に3〜4人の若い兵隊が寄って来て色々訊かれたのだが、アダナの出身という兵隊は、「この辺旅行しているんだから、クルド語も少しは憶えたでしょ?」と怪しげなことを質問する。

「いや、全然ですね。チュワニバシィぐらいかな、知っているのは」

「良く知ってるじゃない。実を言うと僕もクルド人なんだけどね。少しクルド語を教えてあげようか?」

 『妙なことになりそうだな』と思って、適当にはぐらかしていると、そこへ中年の司令官が入って来て、兵隊は全員起立して敬礼。司令官は、私のことを見ながら、「この人は何処から来たのか」と兵隊に訊く。すると、あのアダナ出身が敬礼をまたくりかえして、
「ハッ、この男は日本人でありますが、トルコ語を話すことが出来ます。それにクルド語も知っているようです」

「ほおー、クルド語も分かるのか」

「ハイ、そうであります。司令官殿」

 これはとんでもないことになったと、私は慌てて、「いえそんなことはありません。知っているのは簡単な挨拶の言葉だけです」と自己申告。司令官は私の方へ向き直って、まず、トルコ語はどうやって勉強したのか、というようなことを訊き、それから、「そのクルド語の挨拶っていうのは、何て言うのかな?」と探りを入れてくる。

 私は、『ここで司令官やっていれば、当然そのぐらいは知ってるだろうに』と思いながらも、例の「チュワニバシィ」を何回か繰り返した。

「ほおー、それがクルド語ですか、チュワニバシィですね? いやー勉強になりましたねぇ。私はここで日本の方からクルド語を教えてもらえるとは思いませんでしたよ」とあくまでも知らなかったことにしようとする。あとはごく和やかに暫く雑談、

「危険はありませんから、どうぞハサンケイフを楽しんで行って下さい」と言われたので、礼を述べて立ちあがると、司令官氏、尚もしつこく、

「えーと何でしたっけクルド語の挨拶、あっ、チュワニバシィでしたね。それでは、チュワニバシィごきげんよう」なんていう見え透いた演技を続けていた。

 さて、ハサンケイフだが、河の流れる美しい景観に古い遺跡がとけ込んでいて、何とも言えない趣きがある。今はもう非常事態宣言下ってことはないが、近くでダム工事が進められていて、今度は水面下になってしまう危険があるそうだ。

 遺跡の近くには小さな集落があって、そこの12歳ぐらいの男の子が頼みもしないのに案内役を買って出る。要するに少し小遣いをくれってことなんだろうと思い、途中で適当な額を渡して、「もういいよ」と言ったのに、一応最後まで付き合ってくれた。この子の話によると、この村の住民は皆、母語としてクルド語ではなくアラビア語を話すということで、『あの司令官もアラビア語の方を知っていたのか』なんて思ったりもした。

 マルディンやウルファの辺りでも、アラビア語を話す人達は多く、中にはトルコ語・クルド語・アラビア語を全て器用に使い分ける人もいる。民族的にクルドなのかアラブなのかが分からなくなっているような場合もあるらしく、ウルファの街を親切に案内してくれた青年(もちろん小遣い稼ぎなどではない)に、「あなたはクルド人なんですか?」と尋ねたところ、「私は、トルコ語・クルド語・アラビア語を全て同じレベルで話すことのできるムスリムです」という答えが返って来た。


トルコのクルド語事情(3)

 ディヤルバクルからマラティヤまでやって来ると、ここでもクルド人の住民は多いものの、非常事態が宣言されているわけでもなく、大分雰囲気が違っていた。観光省が運営しているツーリストオフィスで、職員同士がクルド語を話し、私に向かって「今のはクルド語なんですよ。貴方は分かりますか?」なんていたずらっぽく笑ったりするほどである。彼らは、これにより、クルド語が決して弾圧されていないところを見せようとしたのだろうか。

 マラティアは、アタトュルクと共に共和国革命の立役者であった第二代大統領のイスメット・イノニュ、そして第八代大統領であるトゥグルト・オザルというように共和国の歴史に名を残す偉大な人物が輩出したこともあり、クルド人の住民も自分達が共和国の中核を成していることに確信を抱いているのかも知れない。

 91年にイズミルで、マラティヤ出身の友人(現在はフィンランドに住んでいる)から招待され、市内にある彼らの家を訪れたことがある。客間には、アタトュルクと共にイノニュそしてオザル両大統領の写真も掲げられ、イズミル市の役人をしているお父さんは、「マラティヤには偉大な人物が生まれるんですよ」と誇らしげに語っていた。

 食事の仕度が調い皆で席につくと、お父さんは、「ボクヘ、ボクヘ」と何だか意味の分からないことを言う。友人がすかさず、「クルド語で食べろということさ」と通訳すれば、お父さんも、「クルド語はペルシャ語に良く似ていて、ペルシャ語でもやはりボクヘと言うようですね」と説明してくれた。

 その2年後に、イスタンブールでイラン人の知り合いと食卓を囲んだ際、このボクヘを思い出し、「ボクヘ、ボクヘ」とやってみると、彼は、訝しげに「それを何処で習ったんですか?」と訊く。私が、「クルド人から教わった」と簡単に伝えると、眉を顰め、

「イランでそんな言い方するのは、犬に餌をやる時だけです」

「はあ、それでは何と言えば良いのでしょう?」

「ロトフェンボクホリーと言って下さい」

 ロトフェンは恐らくアラビア語起源の単語で、トルコ語ではリュトフェンと発音し「どうぞ」の意味。他のイラン人の友人に訊いてみたところ、ボクホリー(bokhorid)は、丁寧な命令形で、親しい間柄なら、ボクホー(bokhor)と言っても構わないそうだ。それなら、クルド語とそんなに違わないような気もする。

 「犬に餌をやる時」と説明した知り合いは、イラン・イラク戦争の最中に背信行為を働いたというイラン国内のクルド人を激しく非難していたこともあるから、「クルド人から教わった」ということが癪に障ったのかも知れない。

 クルド語がペルシャ語系統の言葉であるのは明らかでも、それによってクルド人とイラン人がお互いに親しみを感じることは余りないのだろう。これは、イラン人がイスラム教シーア派であるのに対し、クルド人の多くがスンニー派であることに起因していると思われる。(イズミルの友人はアレヴィー派だった)

 同様に、イランにはトルコ系のアゼリー人も多く住んでいるが、シーア派である彼らは、言葉が近いからといって、トルコ共和国のトルコ人に対して、やはり特別な親しみを感じることは余りないそうだ。

 イズミルの友人一家も、スンニー派のクルド人に対し、同じトルコ人であるということ以上には、何の親しみも感じていなかったように思う。その代わり、クルドではなくてもアレヴィー派であれば、そこには非常に親密な感情があるのだろう。イズミルで彼らが暮らしていた街区にはアレヴィー派の世帯が集まっていた。

 トルコやイランでは、アイデンティティーを計る尺度も私たちとは大分違っているような気がする。


トルコのクルド語事情(4)

 02年の8月、トルコの国会では、クルド語を始めとする各民族語による放送と各民族語の教育を可能にする法案が可決された。(各民族語による教育を可能にするものではない)92年に故オザル大統領が提唱して以来、10年も掛かってしまった上、EUへの加盟を念頭に置いて、EUの要求に従うような形で法案が用意されたのは残念な感じもするが、何はともあれ、問題解決のために第一歩が踏み出されたと言って良いだろう。

 法案がまだ通る前から、既にイスタンブールの各ミュージック・カセット・CD店で、クルド語歌謡のコーナーが増えるなど、雰囲気は盛りあがっていたのだが、法案の可決後、トルコを代表する女性ポップ・シンガーと言えるセゼン・アクス(自作の曲も歌うから、トルコのユーミンといったところだろうか)が音頭をとって、イスタンブールとイズミルでクルド語やアルメニア語を交える大規模なコンサートを実現させ(セゼン・アクスはクルド人ではないため、かえって問題にならなかったのかもしれない。)、クルド語を取り巻く環境は急に熱気を帯びて来た。

 もちろん、クルド人だけではなく、アブハズ人等々も同様に民族語熱を高めている。ただ、ラズ人のコミュニティーから、「ラズ語の教育は考えていない」というコメントが出されるなど、まだまだ慎重に事態の推移を見守っていたり、とまどいを感じている人達も少なくないようである。

 法案が可決された頃、クズルックの工場ではこんなことがあった。英語を習っている男女の従業員二人がオフィスで英会話をはじめると、隣にいた英語は殆ど解からないチェルケズ人の女の子が、ムッとした様子で、「トルコ語で話しなさいよ。あなた達がそんなことするなら私たちはチェルケズ語で喋っちゃうからね」と向かいに座っている従妹の方を見る。

 私は、『あっ、彼女たちチェルケズ語が解かるのか』と興味津々、早速訊いてみたのだが、彼女は「エへへ」と恥かしそうに笑い、「少し単語を知っているだけで話すことはできないんです」と言う。

 英会話の彼女はアブハズ人で、私が覚えたばかりのアブハズ語の単語を口にしたら、ダーッとアブハズ語でまくしたてたくらいだし、もう一人の男はウルファ出身のクルド人、クルド語もごく当たり前に話せる。これでは、ちょっとチェルケズの彼女は立つ瀬がないだろう。英語熱はともかく、民族語熱には抵抗があって、「トルコ語で話しなさいよ」という言葉には、それなりの意味が込められていたのかも知れない。

 様々な民族からなるモザイクの上に成り立っていると言っても過言ではないトルコで、各々の民族的な主張を認めていたのでは社会の安定が保てなくなると危惧する人達は未だかなりいて、国会の採決でも、連立与党の一翼を担うMHP(民族主義行動党)という政党は反対票を投じている。

 MHPは、イスラム的なことも主張し、尚且つトルコ民族主義を党是に掲げているが、イスラムは本来、一切の民族主義を認めていない。この政党の場合、どちらにもくっつく便利なイスラム的民族主義と言ったところだろうか。アメリカの支援により作られたと云われていて、現在は穏健な路線を歩んでいるものの、一時は組合潰し等の為に随分と違法な行為を働いたということだ。

 このMHPのトルコ民族主義は中央アジアのルーツを強調しているなどの点で、アタトュルクの精神を支持する人達のトルコ民族主義(国民主義と言った方が良いかも知れない)とは大分違っているように思える。(トルコ語では民族も国民もミレットと言う)

 生粋のアタトュルク主義者と言える現首相(02年8月現在)のエジェビット氏(民主左派党)も「トルコ民族は特定のルーツに基づく自然発生的な民族ではない」としていて、ここまでは、トルコをアメリカ合衆国に準えたオザル氏の意見となんら変わるところがない。しかし、オザル氏が、トルコに様々な民族の文化が存在する多様性をある程度認めていこうとしていたのに対し、エジェビット氏は、つい最近までクルド民族の存在さえ認めようとしなかった。

 かつてトルコ共和国に対してイスラム主義による反乱を主導したシェイフ・サイドなるクルド人の孫であるというアブドゥルメリク・フラット氏は、2000年9月24日付けのザマン紙で、「トルコの国内に存在する人間は皆トルコ人だ、なんていう理屈が通りますか? トルコ国内の木という木は全てポプラであるとか、トルコ国内に鳥がいればそれは皆コウノトリである、という法律を作れば事実が変わるのですか?」と語り、現存する多様性を認めようとしない体制を批判している。また、エジェビット氏や歴代の大統領について、「エジェビットの祖父の墓には『クルド人の子、ムスタファ・ベイ』と書かれているんですよ。御覧なさいトルコの大統領たちを、トルコ人なんかじゃありません。現大統領のセゼル氏はチェルケズ人です。前大統領のデミレルはアルバニア人、オザルにもクルドが少し入っていました。ジェブダット・スナイはギリシャ系(ムスリムへの改宗者)、ジェラル・バヤルはタタール人(これはトルコ系)、イスメット・イノニュに至ってはクルドの豪族出身でした。」と明らかにし、現実を見れば、クルド人がその他のトルコ人(チェルケズ人やアルバニア人を含む)と共存していくことに問題はなく、トルコからの分離を望んでいるクルド人は5%にも満たないとしていた。

 また、民族的な出自や人種による差別が少ないトルコの社会で、クルド人が差別に対して抗議するようなことは余りない。政財界で活躍するクルド人はいくらでもいる。しかし、クルド人の大統領が何人誕生したところで、問題の解決には繋がらないだろう。彼らは「クルド人の民族性を認めて区別してくれ」と要求しているのである。

 また、トルコには、外国人を掴まえて窮状を訴えるクルド人がかなりいるが、これはちょっと背景を確かめて見る必要があるかも知れない。

 93年〜94年にかけて、イスタンブールで度々会う機会のあったベルギー人の青年は、クルド人の訴えに同情し、何人ものクルド人と付き合って、彼らの話を熱心に訊いていた。ところが、クルドの人たちは、段々親しくなって来ると、決まったように「難民としてベルギーへ入国するために力を貸してくれないか」と持ち掛けてくるので閉口したと言う。(トルコの人達は往々にして、欧米へのキップを手に入れることが、金持ちになる近道だと思っているようだ。しかし、昨今、欧米の門はトルコの人達に対して固く閉ざされていて、簡単には入国できない)

 ちょうど同じ頃、私は、カルス出身でイスタンブール大学の学生であったクルド人の青年と親しくしていたのだが、クルドの問題について根掘り葉掘り訊こうとすると、「トルコにはクルドの問題しかないのかな? もううんざりだよ、そういう話は」と言われてしまった。

 しかし、後になって、この学生が、あのベルギーの青年と懇意にしていたことを知ってびっくり。彼も、父親がベルギーで弁護士をしているという青年の前では、弾圧されるクルド人の窮状を訴えていたのだろうか? そんなことは考えたくもないが、現在、彼はベルギー人の女性と結婚してベルギーで暮らしている。

 こんな風にして、気まずい思いをしない為にも、一方的にクルド人たちの話を聞くだけではなく、もう少し慎重に調べて見なければならない。

 今日のトルコ語で民族や国民を意味するミレットという言葉は、オスマン朝の時代、「ムスリムのミレット」「ギリシャ正教徒のミレット」というように人々を宗派によって分けるために使われていたそうである。現在のトルコ・ミレットの母体となったのは、中央アジアのトルコ民族ではなく、正にオスマン朝の「ムスリムのミレット」であったに違いない。このミレットの中にはクルド語を話す人たちもいれば、アルバニア語等々を話す人たちもいた。彼らは、彼らのミレットを守るためにトルコ民族主義という新しい概念を生み出したのではないだろうか?

 オスマン朝の末期にトルコ民族主義を提唱し、その運動の先頭に立ったズィヤ・ギョカルプという人物はディヤルバクルの出身であり、クルド人であった可能性もある。

 クルド人の知人にこのことを尋ねてみたところ、「間違いなくクルド人です」と決め付けていた。もちろん、トルコの教科書にはそんなことが書かれているわけもなく、あくまでもトルコ人として描かれている。

 しかし、トルコでも最近は、トルコに様々な民族的ルーツがあることを認めるばかりでなく、ある程度の多様性を残していくことが文化的な豊かさをもたらすと考える人達が増えている。これはアタトゥルク主義者であっても例外ではない。

 以前、イスタンブールでお世話になった韓国人のキムさんは、米国やパナマで暮らした経験から、「トルコほど、人種や民族に対する差別が少ない社会はない」と断言する。私は、なにしろトルコと韓国以外の国は、ギリシャにちょっと出掛けたことがあるだけだから、断言とまではいかないが、キムさんの意見に同感。各民族語の価値を認め、多様性を受け入れたトルコはいよいよその潜在力を発揮できるはずだと思っている。


トルコの人達の民族感情

 2003年の1月、私は3年半に亘って働いた会社を辞めクズルック村に別れを告げることとなった。この期間、社内での立場もあり、トルコ人の同僚から自宅へ招待されても殆どそれに応じることはなかったが、退社を3日後にひかえ、ライン長として働く青年のところへ呼ばれてみることにした。この青年はグルジア人で、グルジアとの国境に近いアルトゥビン出身のお父さんはグルジア語も解ると聞いていたので、前々から少し興味があったのである。

 青年の家は隣村に在り、両親と3人暮らし。他の兄弟はブルサ市で働いているそうだ。夕食の席には隣家に住んでいるという工場の同僚も加わった。彼はアナトリア東部のエルズルム出身。優秀工員として何度も表彰されているので馴染みの顔だ。

 食卓には、ちょっとめずらしい揚げパンのようなものが供されていて、「こういうパンは、我々に特有なものなんですよ。トルコでは地方ごとに変わった食べ物があります」とお父さんが説明。エルズルム出身の同僚を指しながら、「たとえば、彼の故郷に行くと、また違うはずです」と付け加える。

 食事が終わり、お茶の時間になると、お父さんはトルコの国情について語り始めた。

「トルコには色々な民族がいます。我々はグルジア人だし、この辺だけでも、ラズ人、アブハズ人、クルド人等々、本当に色々です。でも、全てムスリムで、皆トルコ人。民族の間で差別なんてありませんよ」

 これには、私も同感の意を表して、「そうですね。自分のことを『トルコ人』というから、普通のトルコ人かと思っていると、知り合ってから3ヶ月ぐらいたって、その人がクルド語で話しているのを聞いて驚いたこともあります」と言うと、エルズルムの同僚がニヤニヤしながら、「マコト、君はクルド語も少しは解るのか? 何か言ってみなよ」と言うので、また例によって「チュワニバシィ」とやると、彼は「バシィ、ナンタラホンタラ」と一頻り喋りまくってから、「おい、3ヶ月どころじゃなくて、君は3年もの間、俺がクルド人だってことを知らなかったろう」と言って、「ハッハッハッ」と笑う。私もこれには少々驚かされた。エルズルムは確かにクルド人の多いところだが、彼がクルド語を話せるとは思ってもみなかったからだ。

 それから、お父さんはこんなことも言っていた。

「クズルックから、もっと奥へ入った村に行くと、あの辺にはエシェックチ(ロバを使って荷物等を運んだりする人)と言われている連中もいます。なんでそう言われているのかは知りませんがね。この辺じゃ昔から彼らのことをエシェックチと呼んでいるんです。彼らは元々この地域に住んでいて、我々のようなトルコ人とはちょっと違います。なんでも『本当のトルコ人』とか言っているトルコ人です」

 トルコ語でロバというのは、明らかに侮辱用語である。岩波新書の「民族と国家」によれば、オスマン帝国の時代、帝国のエリートは自分達をオスマン人と意識していて、「トルコ人」と言った場合、それはアナトリアの農民や遊牧民のことを指し、多少侮蔑的な響きがあったらしい。

 2002年の11月、トルコ共和国の国会議長に選出されたアルンチ氏の家系はアナトリアの遊牧民だったそうで、これを新聞の報道で知ったトルコ人の友人は「それじゃあ、正真正銘のトルコ人ってわけだ」なんて言いながら笑っていた。そこには、やはり遊牧民に対する軽い蔑みの念が入っていたような気がする。

 さて、グルジア人の家庭で夕食を御馳走になってから10日ほど後のこと。クズルック村を離れてイスタンブールに居た私は、イスタンブールのトゥズラ工場で働いている元同僚を訪ねることにした。彼はクズルック村の出身、同郷の女性と結婚して、今はトゥズラの近くに所帯を持ったが、私がトゥズラ工場に勤務していた頃は、私と一緒に会社の寮で寝泊りしていて、週末にクズルック村へ帰るのも同じだった。クズルック村の出身とはいえ、イスタンブールでの生活が長かった所為か中々さばけたところがあるし、同じ釜の飯を食った仲ということもあって、彼とは結構親しくしていたのである。

 とんでもない酒豪(だったと言うべきか。彼も結婚して以来滅多に飲まなくなった)で、およそ敬虔なムスリムとは言えない彼は、あのイスラム的民族主義政党MHPの熱烈な支持者であり、よく自分達の祖先が中央アジアからやって来たことを誇っていた。

 ところが、今回、夕食を御馳走になってから雑談していると、「俺たちはラズ人なんでへそ曲がりなんだ」というようなことを言う。「あれっ、中央アジアのトルコ人じゃなかったのかい?」と突っ込みを入れてやると、「ラズ人も元々は中央アジアのトルコ人だったのだ」とかわしてから、「ちょっと待て。ラズ人の風俗を紹介した雑誌の特集記事があったから、お前に見せてやろう」と言って部屋を出て行くと、暫くして「ナショナル・ジオグラフィック」のトルコ語版を片手に現れ、「ほらっ、この写真の民族衣装を見てみなよ。うちのお祖母さんもこれと全く同じ格好をしていたよ」と言う。雑誌を手にとって良く見ると、写真の下に「民族衣装をまとったチェプニ人の女性」とある。それで、「イスタンブール・トゥズラ」の章でも紹介したトゥズラ工場で働くチェプニ人女性の話を持ち出して、「チェプニ人もラズ人なのかな? ギリシャ語を話していたって聞いたけど」と訊くと、

「誰が言ってた? セルダか? あー確かに彼女もチェプニ人だよ。しかし、ギリシャ語話していたなんて、勝手にそう思っているだけなんじゃないのか? チェプニ人もラズ人の一派のはずなんだがな」

「ふーん、それでこの雑誌には『ラズ人も中央アジアからやって来た』なんてことが書かれているわけ?」

「いや、残念ながらグルジアかギリシャから来たようなことが書かれている」

 こう言ってから、「ハッハッハッ」と笑った。さらに、「ところで、君の奥さんは何なの? やっぱりラズ人?」と訊いてみると、

「お前、エシェックチって知らないか?」

「知っている。その話はつい先日聞いたばかりだよ。本当のトルコ人ってやつだろ」

「そうそう、それ。俺の女房はそのエシェックチなんだよ。ラズ人とか、アブハズ人とか言ってる俺たちのようなトルコ人とは違って正真正銘のトルコ人だぜ。ハッハッハッ」

「でも、昔はギリシャ人だったのが、イスラムに改宗してトルコ人になっただけかも知れないよ」

「いや、あれのルーツは中央アジアだよ。だって、女房の目を見てみなよ。君たちみたいにちょっと吊り上っているだろう」

 彼はこういってまた笑っていたが、確かに彼女の風貌はちょっと東洋的と言えるかも知れない。しかし、これでトルコ人の持つ民族意識というものが、ますます解らなくなってしまった。とにかく、お互いの民族的ルーツを余り気にしていないのは事実だと思う。

 20年の長きに亘ったクルド反政府ゲリラの活動により、トルコ、特にアナトリアの南東部はすっかり疲弊し、クルド人とそうではないトルコ人との間に摩擦も生じるようになった。それでも、決定的な亀裂が生じてしまったとは思えない。イスタンブールなどでは、相互の婚姻も相変わらずだ。これは、ちょっと奇跡的なことではないかと思ったりもする。一般市民が反政府ゲリラのクルド人とその他のクルド人を別けて考えることが出来ているのだろう。それに、お互いに別の民族であるというより、同じムスリムであるという意識の方が強いのかも知れない。

 各民族の文化、言語をどこまで維持、もしくは発展させて行くのか、これはとても難しい問題だ。ただ、トルコ共和国がトルコ語を唯一の公用語と定めて、国民が等しくトルコ語で教育を受け、何処でもトルコ語が通じる社会を目指したのは、近代的な国家を作るうえで必要なことではなかったかと思う。日本でも近代化の過程で多くの言語(方言)が失われた。トルコ共和国で、これからも様々な民族が同じトルコ国民として平和に暮らして行くことができれば、それにこしたことはないと私は考えている。


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▲「メルハバ通信」目次
▲第1章 トルコという国
▲第2章 クズルック村よりメルハバ通信
▲第3章 クズルック村に至るまでのトルコ遍歴
▲第4章 クズルック村をに別れを告げる(先頭にもどる)