「メルハバ通信」 第3章 クズルック村に至るまでのトルコ遍歴

★私のトルコ暮らしはイズミルで始まった
91年春、初めてトルコへ
コライ・ペンション
アルサンジャック学生寮
91年の夏休み(トルコでナンパ)
リビア人留学生ハシム
ムスリムに憎しみはない?
市電の美人運転士
イズミルのラマダン風景

★花の都イスタンブール
トルコ人の家庭に下宿(1)「祖父母の秘密」
トルコ人の家庭に下宿(2)「イスタンブールのライブハウス」
純情な日本娘とヤクザな客引き達
純情なトルコ人青年

★トルコのキリスト教事情
元祖「ナターシャ」
ロシア教会(1)「雑居ビルの屋上にある教会」
ロシア教会(2)「2度目の訪問、偶然の出会い」
トルコ人教会「アナトリア風の賛美歌の調べ」
ディヤルバクルの教会「平伏して祈る姿」
ムスリムからクリスチャンへの改宗
イラン人の教会「ペルシャ語によるミサ」

エピソード〜94年、日本、川崎の産廃屋でダンプの運転手


★4年ぶりにトルコへ戻る
気持ちが優しいトルコの人達
オスマンベイのボレッキ屋
オスマンベイの繊維街
トルコ語のすすめ

★イズミル、そしてトラキアで友人たちと再会
イズミル(1)「キョフテ屋のケマル・パシャ」
イズミル(2)「イズミル在住韓国人家庭を訪問」
トラキア(1)「旧友ムジャイを訪ねる」
トラキア(2)「ムスタファ、ムジャイとモスク巡り」
トラキア(3)「ムスタファの結婚式での思い出」



★私のトルコ暮らしはイズミルで始まった


91年春、初めてトルコへ

 私が初めてトルコへやって来たのは、91年春のこと。最初からイズミルにあるトルコ語学校で勉強するつもりだったので、イスタンブールの空港に降り立つや観光もせずに、バスでイズミルへ直行。

 トルコ語を学ぶことになったのは、単に興味があったからで、特別な理由によるものではない。友人たちは、「トルコには美人が多いからなぁ」などと勝手なことを言っていた。しかし、私はトルコが一応イスラム教の国で、男女の関係もかなり制限されたものであるというような予備知識を持っていた為、現地の女性を口説いてみようなんていうおこがましいことは毛頭考えていなかったのである。

 それに以前、ソウルで1年半ほど韓国語を勉強したことがあって、その時は、語学上達の早道は彼女を作ることにあるとばかり、少しは頑張って見たものの、うまくいったためしも無く、空振りの連続。韓国の友人たちから、「あなた、それだけ韓国語がしゃべれるのに、なんで彼女ができませんかねぇ」と言われるたびに、「いや、日本語はもっと上手にしゃべりますが、日本でも彼女はできませんでした」と言い返していたような有様で、「30才のこの日まで、満足に女性の手も握ったことすらないが、こうやってトルコへ行く以上、また当分の間お預けだろう」なんて思っていたくらいだ。

 イズミルに着いたその翌日、早速、トルコ語学校に出向いたのだが、探し尋ねたあげく、ようやくたどりついた学校は、海岸沿いの繁華街にあって、雑居ビルのワンフロアを借りただけのお粗末なもので、三部屋を教室として使っていた。

 校長と名乗る男は、どう見ても25〜6才のたよりなさそうな青年。そのサージットという彼と教員室のような所で話していると、そこへもうひとり、講師らしき人が入って来た。華やかで颯爽とした雰囲気の美しい女性だった。

 サージットが、「ファトシュ、日本から来た新入生だよ」と私を紹介すると、彼女は満面に笑みを浮かべながら、さっと私の直ぐ正面に立って、「ホシュゲルディニズ(ようこそいらっしゃいました)」と手を差し伸べて来たのである。少々たじろぎながら、こちらも手を出したところ、しっかり手を握り締めて、挨拶が終るまで離そうとしない。私は、何をしに来たのかも忘れ、しばし感慨に浸っていた。

 よく解からないが、相手が同性であるにしろ異性であるにしろ、普通に話す時、お互いの落ち着ける距離というものがあり、文化が異なれば、この距離も違ってくるのではないかと思う。例えば、トルコの人たちは日本人よりずっとお互いの距離を詰めて話したがるような感じである。

 美貌のトルコ語講師ファトシュさんに握手を求められて、たじろいだり喜んだりしたのは、彼女が、私の感じている境界線を踏み破って近づいたからなのかも知れない。

 しかし、これは私にとって胸のときめく距離であっても、彼女にして見れば、ごく当たり前な近さだったのだろう。

 ファトシュさんは随分とモダンな感じの女性だったが、スカーフを被っている保守的な女性であっても、同様に距離を詰めて来る。これでは、女性が近づいて来るたびに、胸をときめかしていなければならない。結局、私が感慨に浸っていられたのも極わずかな間だった。


コライ・ペンション

 イズミルに着いてから1ヵ月半ぐらいの間、右も左も分からず、言葉も殆ど通じない内は、サージットが紹介してくれた「コライ・ペンション」に泊まっていた。これは日本でいうビジネス旅館のような所である。宿泊者の殆どがトルコ語学校の受講生で、その多くはドイツ人だった。アリという45〜6才ぐらいのなかなか感じの良い管理人のおじさんがて、彼は、10年ほどドイツへ出稼ぎに行っていたことがあるそうだ。

 しかし、このアリさん、ペンションに泊まっているドイツ人たちからはどうも評判が良くなかった。彼がドイツの悪口を言うようなことは無かったものの、ドイツ人を前にした時の彼の態度が余り良くなかったのは確かである。

 一度、夏の短期講習に来ていたドイツ人女性、とにかく体の大きかったことだけ印象に残っているその女性が、アリさんへの不満をサージットに捩じ込んで来たこともあった。

 発端は、夜中にドイツから掛かってきた電話を取り次いでくれなかった、ということのようであるが、「あの男は、洗濯物を頼んでも、だまってマージンを取るから泥棒と同じだ。私は明日ドイツへ帰るけど、残った人たちが迷惑するから、あの男をペンションからつまみ出してほしい」とえらい剣幕。

 私は、「洗濯物を取り次いでもらってマージン取られるのは当たり前でしょう」とかなんとか言いながら弁護を試みようとした。しかし、居合せたアメリカ人の女性までがこのドイツ人に加担すると、なんとか丸く収めようとしていたサージットもついに諦めたのか、「判りました。ペンションのオーナーに報告して直ぐアリを首にしましょう」と言う始末。

 これで納得した彼女たちが意気揚揚と引き上げて行った後で、サージットの方を見やると、「マコト、君が恐れているようなことは起こらないから心配するな。ああ言わなかったら彼女は帰らないじゃないか。でも、国際電話を取り次がなかったのはまずいから、そのことだけはアリに伝えておかないといけないな。さあ、一緒にペンションへ行こう」と言う。私はホッとしながら、サージットと連れ立って外へ出た。


アルサンジャック学生寮

 トルコ暮らしも1ヵ月が過ぎて、ようやく周囲の様子も分かって来ると、まずは生活費を抑えなければと考え、「コライ・ペンション」から近くの学生寮へ越すことにした。

 「アルサンジャック学生寮」、私はここで1年間を過ごすことになる。寮には、6人部屋が4室と2人部屋が8室、それに食堂と学習室があった。朝夕の食事が付いて、日本円で3万ぐらい。あくまでも営利目的で経営されていたから、現地の人にしてみれば決して安くはなかったはずだ。

 大学生は格安で設備の良い公営の学生寮を利用できたので、この寮には大学生よりも予備校生の方が多く、高校生も数人いた。他に26才とちょっと年の行っている専門学校生が2人いて、寮の管理をすることで寮費が免除されていたムスタファは、電気の専門学校に通っていた。彼は、経済改革を押し進めたオザル大統領の熱烈な支持者で、「トルコは競争社会にならなければならない」というのが口癖。

 私が居たのは6人部屋で、予備校生が3人に、高校1年生で15才の少年と22才の大学生トゥファン、それに私と年齢も様々だった。

 日本で高校生の時に経験した寮生活では、先輩後輩についてバカバカしい程うるさかったのに、ここでは、15才から30才までが皆で実に和気あいあいとやっていた。いじめのようなものも殆ど無かったように思う。これは多分、トルコの社会にストレスが少ないからなのだろう。もちろん良いことには違いないが、悪く言えば、それだけ緊張感のない弛んだ社会だということなのかも知れない。

 この寮で外見上すぐに気がつく特徴は、国父アタトュルクの肖像画がやたらと飾ってあること。もちろん、アタトュルクの肖像はトルコ中どこへいっても嫌というほど目につくが、それにしても多く、入口の所だけでもかなり飾ってあった。

 1年後、イスタンブールに移って、また3ヶ月ほど学生寮で世話になったのだが、そこにはアタトュルクの肖像画が申しわけに1枚飾ってあるだけで、後はアラビア文字によるコーランの文句がそこらじゅうに飾られていた。というのも、寮を経営していたのはイスラム教の団体であり、イスラムでは偶像崇拝が禁じられているから、本音を言えば肖像画は1枚も飾りたくなかったのだろう。イズミルの「アルサンジャック学生寮」では逆に肖像画をたくさん飾ることで、「ここでは宗教的な配慮は殆どしませんからそのつもりで」という意志表示をしていたとも考えられる。

 その所為か、もともと宗教色の希薄なイズミルとはいえ、寮にいる40人近い学生の中で、毎日礼拝を実践していたのはほんの数名だった。礼拝所なんてもちろんないから、部屋のまん中でやるのだが、ある学生はその前にアタトュルクの肖像画をちゃんと裏返しにしてから始めていた。部屋の中にも何十枚と飾られてしまったら、彼はさぞかし困ったことだろう。実際、この学生、翌年のラマダンを前に、「こんな所で聖なるラマダンを迎えたくない」とか言って寮から出て行った。

 当然のことながら、ここで暮らし始めて、イスラムを意識するようなことも無く、宗教について尋ねられたら、遠慮しないで「無宗教」と答えたものだ。

 ところが、夏になって、ある金曜日、朝からムスタファと買い物に出かけた時のこと、昼になって金曜礼拝を知らせるアザーンの声が街角のモスクに取り付けられているスピーカーから流れて来ると、ムスタファが急にそわそわして、

「マコト、どうしようかな。買い物は終ったし、君は寮に帰るんだよね。僕はちょっと礼拝してから行くことにするよ」と言う。私は何か意外な感じがしたので、そう伝えると、

「君はなにしろ無宗教って言っているし、あの寮じゃ、あんまり宗教の話をするのも何だから今まで言わなかったけれど、僕は結構信仰がある方なんだ。毎日の礼拝はともかく金曜礼拝には大概出ているんだよ」

 その頃は、経済改革の立役者だったオザル大統領が敬虔なムスリムで、イスラムの復興に尽力したということも知らず、いつも産業化であるとか技術革新がどうのとか言っているムスタファとイスラムは容易に結びつかなかった。

 アダナ出身のムスタファは、それから1ヵ月後、寮を出て郷里へ帰ったのだが、彼とは今でも親交がある。「競争社会」が好きなムスタファも当人はいたって穏やかで人情に厚く、古き良きトルコ人といった雰囲気。私にとっては何と言っても一番古いトルコの友人である。


91年の夏休み、トルコでナンパ

 大学や予備校が夏休みに入ると、殆どの学生が郷里へ帰ることになる。私たちの部屋で居残ったのは、私と大学生のトゥファンだけ。寮では残った学生が全て私たちの部屋に集められ、他の部屋はツーリスト用のペンションに早変わり。

 家族はドイツに居るというトゥファンだが、この年は、トルコ語学校の受講生で、ツーリスト用の部屋に泊まることになったドイツ人の若い娘にゴンジャ(つぼみの意)というトルコ語の名前を付けて熱を上げ、それで居残ることにしたようだ。

 トゥファンは元々が実にナンパな奴で、いつも助平な冗談を言って皆を笑わせていた。しかし、ドイツで暮らしたこともあった所為か、何かと言うとキリスト教に対するイスラムの優位性を説きたがる。本人は酒を飲んだりと、余り真っ当なムスリムらしくも見えないが、そんなことはお構いなし。「キリスト教は堕落の元」とか「ドイツ人は不潔」などと力説していた。それが実際、ドイツ人を前にすると、コロッと変わって、たちまち親切なトルコ人になってしまい、得意のドイツ語で案内役を買って出る。特に、さして美人とも思えない「つぼみちゃん」には、至れり尽せり。

 このトゥファンによると、トルコで女性をナンパしようとすれば、私は日本人であるというだけで相当有利に事を進めることができるらしい。

「残念ながら我が国の娘どもは金持ちの男に弱いんだ。だから日本人であれば、俺たちの倍ぐらいチャンスがある。そこでまず、日本人であることを有効に利用しなければならない。例えば、ナンパする時に、父親は日本で自動車工場を経営している、と言う。これでバカな女は直ぐに引っ掛かる。いい加減その女に飽きてきたら、悲しい知らせがある、と前置きしてから、父親の工場が倒産して無一文になった、と言う。これで女は直ぐに消え去るから、また同じ手を使って、新しい女を作る」

 というのがトゥファン説。これはもちろん冗談だが、ナンパしようとする男が図々しいのは何処も同じようである。

 当時、イズミルで知り合ったキムという韓国人の青年。彼の伯父さんは、ヒヨコの雌雄鑑別の技術を指導する為にトルコを訪れて以来、もう20年以上も当地で養鶏場を運営しており、彼はこのおじさんを頼ってイズミルに来ていたのである。まあ、この青年はちょっとした不良で、ナンパも相当なもの、スルタン・キムなどと自称していた。

 夏の盛りに、彼と昼から市内のビアホールで一杯やり始めたところ、ややあってから、彼は、ちょっと離れた席に座っている2人連れの娘たちに目を付ける。それからの行動は極めて迅速、直ぐに自分の椅子を持って彼女たちの隣に移動し、「メルハバ!」とアタック開始。

 ボーイがやって来て、「お客さん、椅子を持って移動しないで下さい」と言うのを無視して口説きに掛かる。腹を立てたボーイが、「恥ずかしい真似はやめなさい」と声を荒らげても全く動じない。逆に切れ長の細い目で睨みつけ、「あっち行け」と手で合図。彼はテコンドー有段者とか言っていたが、なるほど鍛えぬかれた体で自信満々。私はソウルで韓国人の喧嘩を何度も目撃しているが、トルコ人ではまず相手にならないと思う。温室育ちの日本人が言うべきことでもないが、韓国とは軍隊での厳しさも違うのではないだろうか。トルコでは、肥満体が軍隊に行っても肥満体のまま戻って来る。しかし、これが韓国だと、痩せなければ永遠に戻って来れない、つまりはあの世行きという噂もあるほどだ。

 とにかく、我らがスルタン・キムは不退転の決意でナンパを続行し、暫く話し込んだ後、やおら席を立つと、私に「チャー、ナガプシダ(さあ、行きましょう)」と言い、勘定を払って悠然と店を後にする。娘たちの動く気配はない。さては失敗に終ったかと思っていると、角まで来て、すっと立ち止まり、「ちょっとここで待って見ましょう。あの娘たちが出てくるかもしれません」。で、いくらも経たない内に、彼女たちが店から現われ、手を振りながら近付いて来たのである。それから4人で別の店にしけ込んだのは言うまでもない。

 彼はそのうちのひとりと暫く付き合っていたようだ。でも、私の方はここでおしまい。その時、電話番号ぐらい聞き出したような気もするが、結局のところ連絡しなかった。


リビア人留学生ハシム

 9月になって、エーゲ大学のキャンパスにあるトルコ語学校へ通うことになった。この大学のレベルがどんなものなのかは良く分からない。ただ、イズミルでもナンパな校風ということで名を馳せているようだ。

 私は日本で大学のキャンパスに足を踏み入れたことが殆どないので、比較のしようもないが、果たしてあんなにそこらじゅうで男女がいちゃいちゃしているものなんだろうか。エーゲ大学では、いったいこの人たちは何しに学校へ来ているんだろうと、疑問を感じてしまうような有様だった。

 しかし、トルコ語学校の方は、文学部の教授やら助教授が講師を務めていて、美人講師の学校よりはるかにお堅い雰囲気だった。生徒は、本格的に学部で勉強するために留学している人が殆どで、多くがイスラム圏の国々、パレスチナであるとかヨルダン、イラン等から来ている学生たち。私も、これでやっと落ち着いてトルコ語が学べるとホッとしたものである。

 生真面目な私は、ナンパな連中よりも、却って少々お堅いイスラム圏から来ている学生と結構波長が合うように感じることもあって、ハシムというリビア人の学生もそういった中の一人だった。

 このハシムと一緒に、韓国人の友人を彼の事務所へ訪ねた時のことである。受け付けにいたなかなか魅力的なトルコ人女性に来意を告げたところ、

「今、来客中なんでちょっとお待ちになって下さい」と答えた後で、私の方を見ながら、

「お久しぶりです。私のことを覚えていますか」と言う。

 『さて、どこで会ったものか』と考えていたら、ハシムが、

「もちろん覚えていますよ。久しぶりですね」と彼女の方へ歩み寄った。

 『なんだ、ハシムに向かって言ったのか』と思っていると、彼女は怪訝そうな表情で、

「あなたのことなんか知りませんよ。私はそちらの日本人に言ったのです」

 『やっぱり私に言ったのか、それでは、いったいどこで会ったんだろう』と、また考え始めたところ、ハシムは委細構わず、

「あれ、おかしいな。僕は君のことを覚えているんだけどね。どこで会ったんだっけ。思い出さない?」

 彼女はこれを無視して、

「私、以前はカルシュヤカにある韓国料理屋で働いていたんですよ。あの時は韓国の民俗衣装を着ていたから、大分違ったように見えるかも知れませんねえ。思い出しました?」と私に訊く。

 『ああ、あのチマ・チョゴリの美女がこの人だったのか』と、

「ええ、思い出しました」と言ったっきり、次の言葉が見つからない私を尻目にハシムは、
「じゃあ僕とはどこで会ったんだろう」と尚も食い下がる。

「あなたとは会っていませんよ。勘違いしないで下さい」と言う彼女に、今度は、

「でも、こうやって今会っているでしょ。さあ、次はいつ会おうか」とほとんど口説きに掛かる。私はただあっけに取られて見ていると、そこへ、韓国人の友人が現われ、「やあ、お待たせして申し訳ない」と私たちを中へ招き入れたので、このナンパ劇には、ここで幕が下ろされてしまった。

 その後、私はこの女性に会う機会がなかったのだが、ハシムが再びここを訪れて第二幕を演じたかどうかは分からない。それにしても、あの押しの強さ、さすがはカダフィ大佐の国から来た人だと感心してしまった。ちなみに、カダフィ氏もトルコに留学していたことがあるそうだ。


ムスリムに憎しみはない?

 韓国人の友人の事務所では、思わぬ一面を見せてしまったリビア人のハシムだが、普段は朗らかで礼儀正しい青年である。「イスラムは愛の宗教、寛容の精神が大切なんです。敬虔なムスリムならば人を憎んだりはしません」と良く言っていた。

 ところが、あの一件から数日前のこと。ハシムと雑談しながら、結婚前の男女関係について訊いて見たところ、

「もし、僕の妹が結婚前に男と肉体関係を持ったとしますね。その場合、まず妹を殺します。それから相手の男が世界のどこへ逃げようと必ず探し出して殺します」

 私は思わず目が点になってしまい、

「ムスリムは人を憎んだりしないのではなかったのですか?」

 するとハシムは慌てることもなく、

「もちろんですよ。妹やその男には何の憎しみもありません。男を見つけ出した時、彼が、久しぶりに会ったのだから話したいことがあると言えば、一緒にお茶を飲んでもいいんです。でも、その後で必ず殺します。これはきまりなので、こうするより他ありません」

 もっとも、ハシムにとって、妹が貞操を破るなどということ自体、現実には起り得ないことだから、これは、単なるお話として聞いた方が良いのかも知れない。それにしても、あの受付の女性に自分と同じ様な兄がいるとは考えなかったのだろうか?

 トルコの人達に訊けば、「そういう話はアラブの風習から出たものであり、イスラムとは何の関係もない」と言われる。しかし、クズルック村の辺りなら、まさか娘や妹を殺したりはしないだろうが、相手の男に危害を加えることは充分ありそうだ。

 これが、イスタンブールやイズミルのような都会になると、高校生の不純異性交遊なんていうものが話題になるくらいで、全くの別世界。トルコでは猥褻出版物などに対する規制に関して日本より甘い部分もあり、テレビのスイッチを入れれば、日本なら間違いなくカットされるような場面も出て来る有様。この中で、伝統に忠実な若者達が貞操を守ろうとするのは並大抵のことではないかも知れない。

 大衆紙(フュリエト紙)の悩み相談コーナーで、こんな質問が出ていたこともある。

「私は20歳の男子で同い年の婚約者がいます。彼女は神の許しがあるまで処女を守りたいと言い、私も同じ考えです。それで、私たちは今、アナルセックスで我慢しています。これは彼女の健康に悪いでしょうか?」

 これには唖然としたが、このコラムを担当している医師の回答もなかなかふるっていた。

「あなた方の行為は変態そのものです。これを変態と言わずして何を変態というのでしょう」

 そこまでしたら同じことだから、普通にセックスを楽しみなさいとは勧めていない。そう言ったところで彼らが納得しないと思ったのか、この医師自身、あくまでも処女は守るべきと考えているのか、いずれにせよ医学的にではなく、倫理的にこの行為を否定しているのは確かだった。


市電の美人運転士

 「アルサンジャック学生寮」も、あのトゥファンに限らずナンパな連中が多く、同じ部屋にいたファイクという予備校生などは、高校生の時分から既に複数の同級生と関係を結んだそうである。トゥファンの場合、イスラムについて口にするだけあって、このファイクよりはよっぽど真面目な方だった。

 この寮で、ナンパに関して彼の右に出る者はいないと言われていたのがイエトゥキンという大学生。とにかく好い男だったので、私なぞは、「こいつをダシに使って、日本人のオネーチャンを引っ掛けられないものか」と一瞬考えてしまったこともあるほどだ。で、彼に冗談めかしてこの話をしたら、「僕はよくイスタンブールに出かけることがあって、日本人のツーリストを見ることがあるんですよ。でも悪いけど女性の美しさに関してはトルコの方が上だと思いますねえ」と言われてしまった。まあ、確かにそうかも知れない。

 翌92年、イスタンブールへ移ることになって、寮の皆に別れを告げていた時のこと。イエトゥキンがこんなことを言う。

「先週イスタンブールに行って、ふたり連れの女をナンパしたら、その内のひとりが日本に興味があるようなことを言うんだ。それで、君について話すと随分喜んでいたなあ、まあ一度会ってみなよ、結構好い女だったから」

「名前とか連絡先はあるの?」

「それが、名前も思い出せないんだけれど、なにしろ彼女はイスタンブールの交通局に勤めていて、路面電車の運転士をやってるそうなんだ。女の運転士なんてそうざらにいるわけがないから、直ぐに見つかると思うよ」

 イスタンブールでの落ち着き先は、イスラムの団体が経営する学生寮。しかし、寮生が全て敬虔なムスリムということではない。寮費が安いからここにいるという不信心者もいたのである。数日後、早速彼らとビールを飲みに出かけると、下らない話で盛り上がり、この時、女運転士のことも話題になったりした。

 翌日、その不信心な、アナトリア東部のマラシュから来ているメフメドアリという学生とイスタンブールはシルケジ駅の辺りをぶらぶらしていたところ、かたわらを路面電車が通過して行くのを見て、メフメドアリはいきなり「おい、見たか」と頓狂な声をあげる。それから、「今の運転士、女だったぞ」と言うが早いか、電車の方へ一目散、私も直ぐに後を追った。

 当時はシルケジ駅の前が路面電車の終点、そこで止まった電車に難なく追いつくと、運転席で唖然としているなかなか美形の女性運転士に、息を切らしながらメフメドアリはいきさつを説明する。

「マコト、君の友達は何ていったけ。えっ、イエトゥキン? イエトゥキンだそうです。知りませんか?」

 女性運転士もやっと事情が飲み込めたらしく、クックッと笑いながら、

「残念ながら、市の交通局には私の知っている限りでも5人の女性運転士がいるんですよ。ちょっと誰のことだか分かりませんねぇ」

 これで諦めた私たちは、その女性運転士に非礼を詫びスゴスゴと引き下がった。後日、荷物を取りにイズミルへ行ったおり、イエトゥキンにこの話をすると、

「なにやってんだよ、残念だなあ、だってその運転士も一応話に乗ってきたんでしょ。そういう時は彼女を誘ってしまえば良いんですよ。イスタンブールの女はそんなに優しくないから、君らのことを全く気に入らなかったら返事もしなかったと思うね。そのマラシュの田舎者もしょうがない奴だなあ、せっかくチャンスだったのに」とあきれた顔で言われてしまった。


イズミルのラマダン風景

 クズルック村の工場ではラマダンともなると、地元の人たちに限って言えば、まず100%近くが断食を実践する。昼間の食堂は日本人と他の地方から来ている数名のトルコ人だけで閑散とした雰囲気。これがトゥズラの工場になると、去年12月のラマダンで断食を実践した者は半数にも満たなかったそうだ。

 私が初めてラマダンを経験したのは、「アルサンジャック学生寮」にいた92年のこと。イスラム暦で行なわれるラマダンの開始日は毎年11日ほどずれて行くので、この年は3〜4月がラマダンにあたっていた。

 「アルサンジャック学生寮」でも初日は半数ぐらいの寮生が断食を実践した。この頃だと夕食の時間になってもまだ日が沈まない為、断食をしていない者は、食堂で配膳を受けたら隣の学習室へ行って先に食べ始める。食堂では、配膳を受ける不届き者を横目に実践者が今か今かと日没時間を待っていた。

 もちろん私は、日没を待たずに配膳を受けると学習室へ、するとそこで既に食事を始めていた何人かが、「マコト、君は断食しなくてもいいのか?」と囃したてる。これを受けて、やはりもう食べ始めていた予備校生のファイクが、「皆、日本にそういう悪習慣はないそうです」とやったんで一同やんやの喝采。「おいファイク、それを食堂で待っている連中に聞かせてこいよ」と誰かが言って一同また喝采。

 こうやってラマダンが始まってみると、こいつは不信心そうだから絶対断食なんかしないだろうなという奴が意外にやっていて、反対に、いつもイスラムの優位性を説いていたトゥファンみたいなのがちゃっかり食べていたりする。

 トゥファンに「なんだ断食しないのかよ」と捩じ込んでやったら、

「コーランでも戦争など重要なことがある場合は断食しなくても良いと書かれているんだ。それで、今はボディビルで鍛えているだろ。だから今年はやらないんだ」

「じゃ去年はしたの?」

「去年は大学で編入試験を受けたんでそれどころじゃなかったんだよ」

「じゃその前の年は?」

「あの年も色々学校で忙しくてねぇ。やっぱり学生は勉強が大事だろ」

「じゃその前は?」。ここでトゥファンは笑い出してしまい、

「うるさーい。実を言うと僕は一度も断食なんてしたことがないんだ」と正体を現した。

 それどころか、彼はイスラムの礼拝の作法も知らず、未だかつて礼拝したことすらないのだそうである。彼がそれでもイスラムにこだわるのは、ドイツにいて絶えずキリスト教徒と向かい合っていたからなのだろう。

 この日の晩、寮の経営者が、一言注意したいことがあるから皆食堂へ集まるように言う。何事かと思っていると、「断食実践者には夜明け前、早い朝食を用意してやっているのに、彼らは静かに食べないで断食を行なわない者の安眠を妨げた」というのがその主旨。

「人に迷惑かけるんだったら断食なんかするな。断食やってくれとは誰も頼んでいないんだ。明日もうるさくしたら夜明け前の食事はもう用意しないからそのつもりで」と厳しい言い方。

 寮生は皆黙って聞いていたし、実践者が後から文句を言うこともなかった。

「こんなところで聖なるラマダンを迎えたくない」と言って寮を去った、あの敬虔な学生の選択は誤っていなかったようである。

 翌日の昼、学校から帰って来ると、昨日は断食していたはずの予備校生がベッドの上で旨そうにパンを食べている。「断食は?」と訊くと、

「僕はいつも最初と最後それに灯明祭の日だけすることにしているんですよ」と平然とした様子。

 次の日からも段々と実践者は減っていき、最終的には10人ほどだけが残った。イエトゥキンのような奴は、食堂で配膳を受けながら、日没を待つ面々の前で、

「今日の大学食堂の昼飯は美味かったなあ。なんだか知らないけど最近食堂がやけにすいているから、大盛りにしてくれるんだよね」とでかい声であてこすりを言う。

 すると、配膳の順番を待っている他の連中もクスクス笑うので、じっと日没を待っている方はやけに肩身が狭そうな感じで、何だか罰でお預けをくっているみたいに見えたものである。


★花の都イスタンブール


トルコ人の家庭に下宿(1)「祖父母の秘密」

 94年、イスタンブールで、ごく普通にイスラムを信仰しているトルコ人の家庭に下宿していた時のことである。

 その家庭は、当時20歳の青年、高校生の妹、4歳の末っ子、そして彼らのお母さんという構成で、近くにお祖父さん夫婦も住んでいた。4歳の子は異父弟であり、このお母さんは、二度結婚して二度別れたことになる。(現行法はもちろんのこと、従来イスラムでも離婚は認められている)

 一度目の時は、亭主がドイツで働いてみたいというから付いて行ったのに、働くのは自分ばかり、バカバカしくなったので、別れてトルコへ帰って来たとのこと。二番目の夫は彼女よりかなり年下の男で、一緒になった頃はいつも熱々、当時中学生だった娘は見ていて恥ずかしいくらいだったと言う。

 お母さんは、「お前のお父さんと一緒になった時も同じだった、とても愛していたんだ。でもあんまり怠けるようになったんで別れざるを得なかった」と娘に説明しながら、「その分お前達を愛しているんだよ」と付け加えるのを忘れない。

 娘の話によれば、「ところが新しい彼も同じように怠けて遊んでばかりいたのね。それである日、お母さんがとても怒って、玄関のドアを開け、まずその人の荷物をおっ放り出し、それから彼に向かって、出て行け!と、これでその結婚生活は終りになったの」という次第。どうも彼女は男運が良くなかったようである。

 しかしこの家庭、いつも明るく笑いがあふれていた。お母さん曰く

「世間には私のことをとやかく言う馬鹿がいるかも知れない。でも私はアラーの前に何のやましいところもない、そしてアラー以外には誰も私を非難できないはずさ」

 ところで、私という異分子がいた為に、この家族の間で知られていなかった思わぬ事実が明らかになってしまったことがある。

 お祖父さん夫婦も来て、皆でテレビを見ている時だった。そこへ洋画の濃厚なキスシーンが映し出されたのである。すると、お祖父さんが顔をしかめて、

「マコト、日本でもあんな恥ずかしいことするか」と訊く。

「今のシーンみたいに人前でなければ、皆していると思います」

「隠れてならばしても良いというものではないぞ、破廉恥の極みだ」

 ここで、高校生の娘がびっくりして、

「おじいちゃんたちキスしたことないの?」

「あたりまえだ、そんな恥知らずなことできるか」

 これには、お母さんもびっくり、

「まあ驚いた、あなたたちキスしたこともないなんて初めて知ったわ」

 今度は、おじいさんがびっくり、

「えっ、おまえたちは、あんな恥ずかしいことができるのか」

 お母さんと娘、顔を見合わせて、

「トルコでも今は皆しているわよねえ」

「そうよ、別に変なことでもないと思うわ」

 おじいさん、しばらく絶句していたが、気を取りなおすと、

「そうか、そんならおまえたちだけ勝手に進歩でもなんでもすればいいんだ。俺は知らん」と言って、テレビの前から離れてしまった。


トルコ人の家庭に下宿(2)「イスタンブールのライブハウス」

 この家族、経済的にはイスタンブールの標準からいっても中の下ぐらいではなかったかと思うが、それでも、夏期用の住居を、イスタンブールからマルマラ海を渡った向こう側のヤロバという所に持っていた。しかしこれ、お金持ちの別荘というイメージからはほど遠く、当時のイスタンブールで「自家用車はなくても夏期用の住居ならある」という家族は珍しくなかったのである。

 夏になると、20歳の次男坊クバンチを除く皆がこのヤロバへ行ってしまい、1ヵ月近く、クバンチとふたりで留守を預かることになった。

 その頃クバンチは、「ケマンジュ」というイスタンブールの若者の間では有名なライブハウスで働いていて、夕方出勤すると明け方まで帰ってこない。この為、彼と顔を合わせることも余りなく、殆ど一人暮しのような状態だった。

 ある晩、8時頃になってパンを買いに行こうとした時のこと。パン屋はほんの数軒先ということもあって、よれよれのズボンにティーシャツというなりのままサンダルを引っ掛けて外へ出たのであるが、買い物を済ませて戻って来ると、玄関の鍵を中に置き忘れていたことに気がついた。ここのドアは自動ロックになっていて、こうなると外からは開かない。

 暫くそこで『どうしようか』と考えたあげく、クバンチのところへ行って鍵を受け取るしかないと結論。幸い小銭入れに往復のバス代ぐらいは入っていた。

 よれよれのズボンにサンダル履きでは、バスの中でも気恥ずかしい感じがしたくらいで、中心街のタクシムでバスを降りると周囲の視線を避けるようにして、一応、場所だけは知っていた「ケマンジュ」へ。入口に立っていた店の人に、「クバンチいますか?」と訊くと、ドアを開けて、店内を指差す。私は自分のなりを示しながら、「すみません。遊びに来たんじゃないので、ちょっとクバンチを呼び出してもらえますか?」とお願いしたのだが、店の人は、「いえいえ、構いませんから、どうぞ中へ入って捜して見て下さい」と気にも留めていない様子。店内は、凄まじい音響によるロックバンドの演奏に熱狂して踊る若い男女で溢れかえっていて大変な騒ぎ。場違いな格好をした妙な奴が入って来たことなんて誰も気にしていないようだ。中には壁にもたれ掛りながら濃厚なキスに及んでいるカップルもいる。

 先ほど、私はこの店をライブハウスと紹介したが、日本でもディスコとかこういった所には足を踏み入れたことが殆どなく、その時はこういう店を何と呼んで良いのかも知らなかったくらいで、店内の様子を見てとにかく驚いた。

 踊る男女の中を茫然としながら奥へ進むと、クバンチの方がいち早く私のことを発見していたらしく、カウンターの向こうで、びっくりした顔をしながら手を振っているのが見える。カウンターのところまでたどり着くと、クバンチは挨拶もそこそこに「どうしたんだ何かあったのか?」と怪訝な表情。理由を説明したら大笑いして、「ここまで来たんだから何か飲んで行きなよ」なんて言ってくれたのだが、私は鍵だけ受け取ると早々にそこから退散した。


純情な日本娘とヤクザな客引き達

 98年4月の週刊誌「アルトゥハベル」から、ナズル・ゲルミヤンオウルという人の記事をちょっと意訳してみた。

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 イスタンブール観光のメッカ、スルタンアフメットで子供の頃からツーリストを相手に絵葉書等を売りながら育った青年たちの殆どが、今や絨毯屋とか旅行代理店のオーナーに出世。どうやってそんなにまでなったのか、と言えば、彼らは皆、客引きをしながら成功したのである。

 客引き達は、とりわけ日本人ツーリストをターゲットにしている。日本人は金持ちなうえ、簡単に納得してしまう人達であり、適当に覚えた片言の日本語を駆使して、どんな日本の娘でも引っ掛けることができる、と彼らは言う。「何を言っても信じてしまうんだよ」。

 「ちょっとお茶を飲みませんか」と言われて連れ込まれた絨毯屋から手ぶらで出て来る日本人はまずいない。これにより客引き達は、売上の3割ほどを手にすることができる。17〜25歳の客引き達は、こうやって知り合った日本娘の心まで奪ってしまう。甘い言葉により結婚まで発展するこの関係は、客引き達へ人生の新たなページを開くことになる。日本へ移住する者もいるし、日本人妻を連れて歩くことで、もっと楽に日本人ツーリストを落とそうとする者もいる。

 今からちょうど4年前、トルコへ来て客引きと恋に落ち、以来ここで暮らすことになったケイコは、「私達にとっては、話し掛けてくれる言葉がとても大切なんです」と言う。

「私達の国には色々な伝統があります。中でも重要なものは、女が男に奉仕する、ということです。男の前で私達は余計なことを口にする権利もありません。こうやって育てられました。殆どの場合、女達にはなんの敬意も払われないのです。いくら経済的に豊かであっても、島国であることはどうしようもない不幸といえます。世界の文化から閉ざされてしまいました。外国へ行った時、男達から丁重にもてなされると、全ての日本の娘達は魅了され、逃れられない状態になります。私も逃れることが出来ませんでした。そして、トルコで男友達と暮らそうと決心したのです。今、一緒に客引きをしてお金を稼いでいます。それも結構な稼ぎです。私がいることは彼にとって、とても有利なことなんです」

 スルタンアフメットで絨毯店を経営するイスマイル・トュルクは、客引き達を非難しながら、次のように語っている。

「これを何とかする必要があります。ツーリズムポリスはこういったことを見逃してはいけません。特に日本の娘さん達は、スルタンアフメットに降り立つや否や、300〜500人いると言われる客引き達の手に掛かってしまうんです。この客引き達は、日本語で話掛けながら、まず契約している店に連れていきます。ここでコミッションを手にしますが、これは彼女達からふんだくったようなものです。彼らは、ツーリズムを天から降ってきたまたとないチャンスと心得て、これをとことん利用して稼がなければ、と思っているんでしょう。日本語を使う客引き達は、日本人に対してありとあらゆる悪事をはたらきます。ここに来る18〜20歳ぐらいの日本の娘さん達は、陸に上がった魚のようなものです。何も知らずに客引きの餌食になってしまいます。こういったことは全てトルコ人の名を汚しているのです。日本の本には、写真付きでトルコに関する悪口が書かれています。また、20歳未満で兵役を済ませていない客引き達は、ビザなしで日本へ行けるんですが、日本領事館もこれを関知していません」

 イスマイルは、客引きと日本人との結婚も真面目なものとは考えていない。

「通信教育の授業料だけ払って兵役を逃れているような連中が日本の娘さんと結婚して日本へ渡ります。そこで充分な金を作った後に別れてトルコへ戻って来ると、巻き上げて来た金で旅行代理店やら絨毯屋を始めるんです。日本の娘さん達を巧みに騙して、惚れさせたら最後、何でもやらせてしまいます。もっと良い客をつかまえる為に、日本人にまで客引きをやらせるほどです。要するに自国の人達からボッたくるということになります。日本の娘さん達は、それまでの人生で聞いたこともない、そしてこれからも聞くことはないだろう甘い言葉にまいってしまうのです。男の言うままに何でもします。この純情な日本人から稼いでいるのは客引きだけではありません。スルタンアフメットで商売している人達は同様に利益を得ています。『みんな君のものだよ』と言って絨毯を売りつけ、ホテルで幾晩か共に過ごした後、ハイさようなら、そしてまた新たな獲物をさがしに出かけるのです」

 日本の娘達に対するこういった行ないを何とか防ごうと、既に日本の観光業者は手引き書を用意した。トルコで騙されない為、何に気をつけなければならないのか、詳細に説明されている。しかし、それにも関わらず、日毎数を増す客引き達を誰も止めることができない。そして、トルコの観光業界は、このことから非常な悪影響を受けているのである。
 ある公認日本語ガイドの話では、

「私も客引きからこの業界に入りました。しかし、不道徳な行ないは決してしていません。客引きをしながら、金を作るために日本の娘さん達を利用するなんてとんでもない話です。とはいえ、こんなにたくさん客引きがいたんでは、彼らにそれをやめさせようとしてもなかなか難しいかもしれません。ああいうことをしている連中は大概小学校しか出ていない無教養な人間です。他に何をしたって、あんなにたくさん稼げるはずがありません。中には客引きを職業と心得て真面目にやっている人もいますが、そういう人達を別けて考えるのは難しいんじゃないでしょうか。ところで、この不道徳な行ないを日本の娘さん達が喜んで受け入れているということもあります。というのは、彼女達も舞いあがってしまっているんです。自分の国では見たこともないような関心をトルコの男から寄せられて我を忘れてしまい、女であることを感じてしまうのでしょう。特に日本の娘が狙われるのは、お金を持っていると思われているからです。善意を利用して自分達の望みをかなえるための道具にしてしまいます。結婚を承諾させ日本での永住権を手に入れるわけです」

 また、あるツーリズムポリスの話では、

「客引き達は、フレンドリーな態度でツーリストに近づき、助けてあげるようなふりをして、絨毯やら貴金属を売りつけようとします。この時、ガイドの真似事をして、観光名所を案内して歩くこともあります。残念ながら、私達に出来るのは、このような場合に、無免許のガイドとして法的処置を取る事ができるくらいです。後は、彼らを要注意人物としてマークしたり、訴えに基づいて介入する他ありません。それに、外国籍の客引きもいたりして、ツーリストばかりでなく、客引きを使っている業者から苦情が寄せられることもあります」

 ツーリズムポリスが扱う事件の中には、盗難、強盗、法外な値段による販売、スリ等があり、こういった被害に遭うのも日本人である場合が多い。関係者によれば、日本人はとても礼儀正しい人達なので、お茶を勧められたりすると断われないで飲んでしまったあげく、睡眠薬で眠らされ、貴重品を盗まれてしまったりするのである。また、買い物の最中にクレジットカードを二重に切られてしまうというような被害も日本人に多く見られるとのこと。

 こういった事件が日本人に集中するのも偶然ではないようだ。多くの欧州人ツーリストは自国でも似たような光景を目にして慣れているので、詐欺師を相手にしたりすることもない。ところが、日本人は、当局から「潜在的な犯罪者」とされている客引き達も自分達と同じような人間だと思い込んでしまうのである。

 何百人という客引きが、ブルーモスク前広場、アヤソフィヤ博物館付近、路面電車通りで、客の取り合いを繰り広げるスルタンアフメット。彼らは自分達が乗っている枝を切っているのも同然である。今日、既にグランドバザールやアラスタバザールで、絨毯は殆ど売れなくなっている。というのも、多くの観光案内書が、客引きや絨毯屋に関して注意を喚起しているからで、当局関係者は近いうちにこの海も枯れてしまうだろうと警告している。


純情なトルコ人青年

 イスタンブールはトルコ共和国最大の都市だが、首都ではない。首都はアンカラである。アンカラは、共和国の新首都として建設が始まる前、中部アナトリアの小さな地方都市に過ぎなかったそうだ。それが、今では人口400万を有する大都市に発展した。

 中部アナトリアは降雨量が少なく、アンカラ周辺の山々も雑草とまばらな潅木に覆われているだけで、モンゴルの高原を思い起こさせるような風景。高速道路を利用してアンカラに向かうと、集落が殆ど見当らない荒涼とした大地を進んでいた車が、あっという間にビルの林立する賑やかな市街地へ分け入ってしまうことに驚かされる。

 アンカラは新しい街なので、イスタンブールに比べて、より整然とした雰囲気。本格的な地下鉄もイスタンブールに先駆けて開通している。しかし、周囲に大規模な産業地帯があるわけでもなく、典型的な消費都市という感じは否めない。

 99年にアンカラへ出掛けた時のこと。その日はメーデーで、集会に参加したらしい学生と雑談したところ、彼はこんなことを言う。

「イスタンブールには、あなた方外国人を騙して金を取ろうとする悪い奴らが沢山いて困ったものです。でも、アンカラなら大丈夫。ここには役人しかいません」

 確かに、スルタンアフメットの客引き達、特に日本語で話し掛けて来る連中を鬱陶しいと感じることはある。しかし、彼らはああやって僅かながらもトルコの外貨獲得に貢献しているのではないだろうか。それに、トルコの観光業はまだまだ始まったばかり、そのうち、もう少しスマートなやり方を身につけてくれるかも知れない。それよりも、郵便局や税関で接する機会のあるあの役人達、彼らの勤労に対する考え方はどうなっているのか、本当に腹が立つことしばしばである。

 これは94年ごろのことだが、スルタンアフメットに長期滞在している旅行者、若い日本人女性の二人連れと知り合って話を聞いて見ると、「トルコ人の男は皆、あつかましくて恥知らず」というようなことを言う。しかし、スルタンアフメットのような観光地はかなり特殊な地域なわけで、客引き達にしても、東京の歌舞伎町や吉原の客引きと比べれば、よっぽど可愛げがあるはずである。観光地の客引きしか見たことがない旅行者に、「トルコの男は厚顔無恥」と言われたのではなんともやり切れない。

 彼女達と会った数日後、余り観光客が訪れることもない新市街で市バスに乗っていたところ、前に立っている学生風の若い男が何か言いたそうな様子でしきりに私の方を見ている。私は膝の上で日本の文庫本を読んでいた。しばらくして、男はためらいがちにやっと口を開き、たどたどしい日本語で「あなたは日本人ですか? トルコ人ですか?」と言う。彼はなかなかの男前だったが、上品な感じで、客引きのような人間でないことは一目瞭然。しかし、その時私は虫の居所が悪かったのか、ちょっと意地悪な気分になって、「もしも私がトルコ人だったら、そもそも君が何を言ったのか解らないじゃないか」とトルコ語でつまらないことを言うと、「今、日本語を習っているので、なんとか使って見たくなったんです。どうも済みません」と今度はトルコ語で言いながら真っ赤になってしまった。

 その翌日、「昨日の学生さんみたいな人を彼女達にも見せてあげたいものだ」と思い、あの二人連れを誘って、トルコで超一流の大学である「ボスポラス大学」(ボアズイチ大学)のキャンパスへ行くことにした。キャンパスは、ボスポラス海峡が見渡せる高台の上にあり、緑も多く、古めかしい校舎なども見応え充分で、散歩コースにはもってこいの場所。友人の男子学生に彼方此方案内してもらった後、キャンパス内の生協に入ると、買い物に来た学生達でごった返している。でもここでは、東洋人の若い女性がいたところで、誰ひとり振りかえって見ようともしない。しばらく、彼女らと共に学生達の様子を観察していると、なんと、あのバスで出会った学生がいたのである。これには驚いた。早速、声を掛けて、彼女達を紹介したところ、彼はよっぽどシャイにできているのか、真っ赤になりながら、英語で型通りの挨拶を済ませるや、そそくさと立ち去ってしまった。

 しかし、この御かげで、トルコ人には、あつかましいどころか、ちょっとシャイなところがある、ということが、彼女達にも良く分かってもらえたと思う。


★トルコのキリスト教事情


元祖「ナターシャ」

 トルコではロシアから春を売りに来る女性たちを「ナターシャ」と呼ぶことがある。ここでは、トルコの新聞ラディカル紙から、ゼキ・ジョシュクンという人の記事(2000年6月24日付け)を拙訳で御紹介する。

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 ナターシャは20世紀の初頭に生まれた。5〜6才に成った頃、周辺ではそれまで無かった妙に張り詰めた空気、騒動が始まっていた。ペトログラートで、モスクワで、キエフで、学生や労働者の決起が話題に上った。なんでも、冬宮殿が包囲されたらしい。

 ナターシャには、決起も包囲もなんのことやら分からなかったが、悪いことであるのは明らかだった。その夏、マヨルカへ行き、そこからカプリへ移った。冬はパリで過ごした。こうして、1年経ったのか2年経ったのか思い出せないが、この長い旅行から帰って見ると、既に決起した労働者も扇動された農民の姿もなく、全てに秩序が戻っていた。

 その後の10年はナターシャにとって幸せで平穏な日々だった。ところが、娘盛りになって舞踏会にも出席するようになった頃、戦争が始まってしまった。今度は、どこにも行く所がなかった。オーストリア、イタリア、フランス・・・どこでも戦争だった。大人たちは、待つことが必要だと言っていた。

 戦争の終結を待っていると、労働者や学生がまた舞台に登場した。今回は兵隊に取られていた農民もこれに加わった。ボルシェビキとか赤とか言われていた。しばらく忘れていた子供の頃の記憶、あの妙に張り詰めた空気が周辺を取り巻いた。

 息苦しい10月のある日、ペトログラートの陥落を聞かされた。ナターシャはもう17歳で、これが何を意味するのか分かっていた。皇帝が廃位し、その家族全員が捕われ殺されたということだ。その後、将軍や貴族、大地主が白軍を結成、赤を相手に戦争が始まったと伝えられた。

 白軍がそこで赤を蹴散らしたという知らせが届いた。赤が打ち負かされてロシアが真っ白になる日を待った。しかし、当初の喜びや勝利の空気も日が経つに連れて萎れて来た。赤は全域で主導権を握っていた。

 父親が白軍の将軍だったナターシャは、恐くなって婆やを連れ、キドゥロボスクからバトゥーミへ逃れた。1920年のことだった。ここから船に乗った。行き先はイスタンブール。皆がそこを目指していた。

 ナターシャは友人や知人とイスタンブールで会うことができた。子供の時にも経験した長い旅行がまた始まった。家へ帰る時、イスタンブールの思い出にしようと、宝石やら衣服を買い込んだ。

 しかし、希望の灯は見えてこなかった。お金も尽きた。友人の多くはフランスやアメリカへ渡った。残った者は、友人に会ったり、懐かしいロシアの空気を味わったり、新しい情報を仕入れるため、毎日のように、同胞がベイオールで開いたバーやクラブ、カフェへ出かけた。

 赤を逃れてイスタンブールにやって来た貧しいロシア人たちは、カラキョイのロシア教会周辺に構成されたフカラペルベル・コミュニティーに身を寄せ、富裕層はぺラの辺りに住居を構えた。ここでの生活が長くなりそうだと感じたロシア人は、イスティックラル通りのぺラ周辺で25軒ほどのレストランやクラブ、バーを開店していた。

 当初、お客としてそこに通っていた公爵や伯爵の子弟は、金も尽き希望も失せると、やはりまたそこへ行って、ボーイやらホステスをしなければならなくなった。キエフのユダヤ人ウエインバウムがぺラ・パラスの向かいに開けたロゼ・ノイルは、こういった店の中でもとりわけ有名だった。

 ナターシャも多くの同胞と同じ運命を辿り、ロゼ・ノイル−カラギュルで働きはじめた。しかし、いくらも経たないうちに常連の日本人、大使館勤務のタガミが彼女を囲うことになった。彼女にとっても毎日言葉も分からない色々な男と何時間も付き合うくらいなら一人の男と暮らすほうがよっぽどましだった。こうしてオスマンベイにある彼の家に落ち着いた。

 昨日までお客を待っていたカラギュルで、ナターシャは得意客の一人になった。タガミと一緒にカラギュルで遊んだかと思えば、翌夕はマクシムを訪れたりした。マクシムは、ロシア女のステラが連れ合いの米国黒人トムと開業した店、その頃一番繁盛していて、流行の歌やダンスを楽しむことができた。

 昼間はホステスをしている友人たちと遊び歩いたり、海水浴場へ行ったりした。夜は家で彼女たちと宴会を開くこともあった。しばらくするとタガミは、他のロシア女が家に入ることを禁止した。ナターシャが友人にばら撒いていた小遣いも制限された。

 ちょうどその頃ナターシャは、やはりカラギュルで金持ちのオーストリア人と知り合った。彼はナターシャに体面を整えてやると約束し、手に手を取ってウィーンへ向かった。しかし、夢と約束は彼地で実現しなかった。ナターシャは、バカにしていた日本人タガミとの恋を再発見して、彼と手紙のやり取りを始めた。戻ろうとしたがビザが問題になった。タガミはトランジットのビザを用意した。

 ナターシャはイスタンブールに戻ると直ぐカラギュルへ出かけた。そこで、ホステスのローラがトルコ人の客から性器をメッタ刺しにされて殺されたことを知った。みんな恐がっていた。ナターシャはローラの残した息子コティックを養子に引き取ろうと決意したが、ビザの期限が来てしまった。

 それで、タガミを説得してハルキ島へ逃れた。周囲の目を気にして注意していたが、そのうちに息苦しくなって来た。タガミはナターシャをまたオスマン・ベイの家へ連れ込んだ。大使館では、スキャンダルにならぬようタガミの召還が決定されていた。

 タガミは荷物をまとめて日本へ帰ることになった。ナターシャにも本国へ戻れるよう充分な金を与えた。出発の前夜、タガミが荷物を点検しているのを見たナターシャは、盗難を疑われたことに逆上し、彼を刺し殺してしまった。その後は、行方をくらまして、コティックと共にロシアに向かった。「母国は私達を滅茶苦茶にした。それでも母国が私達の慰めになるはずよ」と言いながら。

 70年後、ナターシャの娘や孫、友人や同じ名を持った人たちが、またもイスタンブールに来ているのである。


ロシア教会(1)「雑居ビルの屋上にある教会」

 ここ最近、週末にイスタンブールで度々訪れているのが、カラキョイにあるロシア正教の教会。今年(2001年)の正月、『アトラス』というトルコの月刊誌で紹介されていたのを読んで以来、気になっていたものを、5月になってやっと訪れることができたのである。教会はカラキョイの税関などが並ぶ通りの直ぐ裏にあるが、雑居ビルの屋上に小さなドームを乗っけただけの粗末なものだから、その気になって探さないとなかなか見付からないだろう。

 『アトラス』の記事によると、19世紀の末、エルサレムや正教の聖地、ギリシャ北部のアトスを訪れるロシア正教徒に便宜をはかるために作られたもので、かつては屋上の教会だけでなく、各階の部屋も正教徒たちが利用していたようだ。

 5月のある日曜日、昼過ぎを見計らって屋上の教会へ上がって見た。この時間を選んだのは、以前に何度か訪れたことのあるアルメニア正教の教会でも日曜のミサは10時ぐらいから延々と2時間ほど続くのを見ていたからだ。果たして、屋上階の扉を開けて中をのぞくと、ちょうどミサが終って、サロンで皆お茶の仕度をしているところだった。

 入口のあたりでどうしたものかと様子を覗っていると、頭にスカーフをした若い女性が近付いて来る。私の方から「すみません。トルコ語分かりますか?」と声を掛けると、「もちろんここに住んでいますから」という返事。

 彼女は3年前、モスクワからやって来たそうである。「学生ですか」と訊いたら、「働いています」とのこと。この時何故だか、どんな仕事をしているのかは訊きそびれてしまった。そこへ、もう一人、やはりスカーフをした若い女性(正教の場合、教会の中で女性はスカーフを被ることになっているようである)が現われたのだが、この人のトルコ語は実に上手く、まるでトルコ人のように話す。

「もうトルコは長いんですか?」

「いえ、1年前に来たばかりで、これから学校へ行こうと思っているんです」

「それにしては素晴らしいトルコ語ですね」

「私達はモルドバ(ルーマニアとロシアに挟まれた小国)から来たんですが、向こうでもトルコ語を使っていたんです。ここのトルコ語とはちょっと違いますけど」

 ガガウズトルコ人と呼ばれている人たちだったのだ。そういう人たちがいることは知っていたが、こうして実際会ってみると何だか不思議な感じがする。中へ通されると、そこにもガガウズの男性が二人いた。彼らによると、父祖が何時、モルドバの地にやって来たのかは明らかになっていないらしい。モルドバの中でも方言の違いがあるので、ルーツはそれぞれ違うかも知れないと言う。

「私はトルコへ来て、カイセリ出身の人が使う言葉に、我々の方言と似たものがあるので驚きました。あの辺りには昔、カラマンルといってトルコ語を話すギリシャ正教徒の住民がいたはずです。私たちの祖先はカラマンルだったのかも知れません」

 カラマンルについては、ムスリムのトルコ人が正教に改宗したとは考え難い為、元々はギリシャ人で、トルコ語を使うようになってもイスラムへの改宗を拒んだ人たちではなかったかと言われている。すると、この人たちの父祖はギリシャ人ということになるのだろうか?

 サロンには彼らの他、ロシア人はもちろんのこと、ウクライナ人やグルジア人もいた。皆、あまり人見知りせず、最初から親しげに話かけて来たりしてトルコ人に良く似ている。やれお茶だ、お菓子をどうぞと大騒ぎするところもそっくりだった。

 興味深かったのは、ガガウズ人の通訳を通して聞いた聖職者の話である。ソビエト時代の宗教活動について訊くと、スターリンをかなり評価しているようだった。レーニンの時代、宗教活動は殆ど禁止されたのに対し、スターリンは自身が宗教の学校に通ったこともあって、教会にある程度の理解を示し、特に『大祖国戦争』が始まると宗教界からの支援も望んで、宗教活動の制限には大幅な譲歩を認めてくれたというのである。それがフルシチョフの登場でまた弾圧を受けることになったと、フルシチョフに関しては厳しい調子で非難していた。

 後日、トルコ人の友人、この青年はあまり信仰のある方でもないが、彼にこの話をしたところ、

「当たり前さ、バース党のサダムだって戦争が始まったら、アラーに祈りだしたじゃないか。トルコは国民を総動員しなければならないような戦争を経験していないだけなんだ。そういう事態になったらスターリンやサダムと同じことをしなければならなくなると思うね」と言う。それから少し語気を強めて、こう続けた。

「ここの軍隊は楽なところに座っているだけなのに、えらく思いあがっているんだ」


ロシア教会(2)「2度目の訪問、偶然の出会い」

 2週間後、またロシア教会を訪ねて見たのだが、この時は、屋上へ上がってみると、未だ礼拝堂でミサが続いていた。ミサはもちろんロシア語で行なわれるわけで、途中で賛美歌がこれまたロシア語で歌われる。

 小さな礼拝堂の中は一杯で、信者でもない者が無理に入るのはちょっと憚られた。それに、ロシア正教のミサは立ったまま行なわれることになっていて、カソリックやプロテスタントの教会で見られるように長椅子が置かれているわけではない。

 それで、外のベンチに腰掛けてミサが終るまで待つことにすると、そこには一人先客がいて、インテリ風な50代ぐらいのトルコ人男性。長い間ロシア語の勉強をしていたそうだが、教会へ来るのは今回が初めてのようで、「ミサを随分長い時間かけてやるんですねえ。ムスリムの礼拝のほうがよっぽど手っ取り早いですよ」と笑いながら私に話し掛ける。この辺から既に信仰心のなさそうな感じが見て取れた。

 人を何かの類型にあてはめて考えるのは実に愚かなことだが、私はこういう人を見ると、きっとそうに違いないと思ってしまう類型があって、まずこのタイプの人はアタトュルク精神の賛美者で、ジュムヒュリエット(共和制)紙を読み、50年代にソビエトへ亡命してそこで客死したナーズム・ヒクメットという詩人の作品を愛好したりするのである。もちろんイスラムは大嫌いで、スカーフしている女性を見ると卒倒しそうになる。

 ミサが終ってサロンでのお茶会の席に着くと、この人はガガウズ人の若い男と話し始めた。話がスターリンの礼賛に及ぶと、

「えっ、そうですかねぇ。スターリンよりフルシチョフの方がよっぽど正しかったのではないのですか?」

「ロシア正教徒の立場からみればそうでもありません。スターリンは教会のために大分貢献したんです。それにひきかえフルシチョフは再び弾圧を加えて来ましたからね」

 すると彼は、きまり悪そうにちょっと黙ってしまい、それから話題を変えてしまった。こんな様子をみると、やっぱりある程度は類型にあてはまっていたのかも知れない。

 それから3週間後に訪れた時のこと。この時も一人、トルコ人が来ていた。やはりロシア語を習っているそうで、知り合いのウクライナ人が教会の所在を知りたがっていたので、一緒に探しながら来たのだと言う。年は35歳ぐらい、この人もちょっとインテリっぽい感じだ。それで危うくまた例の類型に当てはめてしまうところだった。

 「どちらの方ですか?」と訊かれたので、日本人と答えてから、「あなたの故郷は?」と問い返すと、「ディヤルバクル」と答える。ディヤルバクルならまずはクルド人と思って間違いない。それで、知っている唯一のクルド語で「チュワニバシ(今日は)」とやると、

「へえー、良く知ってますねえ。どうです、トルコは色んなのがいるから面白いでしょ。イスタンブールではもう長いんですか?」

 そこで、今はアダパザルにいるが、イスタンブールにも3年近く居たことを説明すると、

「イスタンブールは本当にコスモポリタンなんですよ。ディヤルバクルから出て来て12年になりますが、まだこの街には私の知らない面がいっぱいあります。この近くに私たちの工房があって、毎日この辺まで来ているのに、今日までここに教会があるなんて全く知りませんでした。そして今、こうやって日本人と話しています。不思議ですねえ、これは。だって外であなたと会ってもただすれ違うだけですよ。今日はここに来て本当に良かった」と嬉しそうに話す。私も同感の旨伝えてから、

「工房って、どんな仕事をされているんですか?」と訊くと、

「シャンデリアを作っています。大々的に輸出しているってほどでもありませんが、ロシアとはかなりの取引になるんです。それでロシア語の勉強を始めました」

「他に何語が話せるのですか?」

「まずはクルド語でしょ。まあこれは母語なんですけど。それから学校でちゃんと教わったのはトルコ語だけです。私はなにしろ小学校しか出てないので、英語なんか全然わからないんです」

 これにはいささか驚きを覚えて、

「でも、ロシア語は文字も御存知のようだし、そちらの方とお話しになっているのを見ているとかなりのレベルのようですが?」

「やる気の問題だと思いますね。ディヤルバクル辺りの状況を知っていらっしゃると思いますが、以前はもっとひどかったんです。だからいくら勉強したいと思っていても上の学校へは行くことができませんでした。それからもずっと何か勉強してみたいと思いつづけて来たんです。この頃やっと少しゆとりが出て来たので、ロシア語をこうやって勉強しています。これからは英語もやって見たいですねぇ」

 このゼキさんという人と出会うことができて、私もこの日ここへ来て本当に良かったと思う。彼も同様のことを語っていたが、トルコには、彼みたいに学びたいと思いながらも事情が許さず断念せざるを得なかった人たちがまだまだたくさんいるのではないだろうか。


トルコ人教会「アナトリア風の賛美歌の調べ」

 私は勿論クリスチャンでもなんでもないが、ロシア教会やアルメニア教会に出入りするばかりでなく、韓国人宣教師の友人につきあって、カドゥキョイにあるプロテスタントの教会へ出かけることもある。

 一口にプロテスタントの教会といっても、英国国教会とかバプテスト、メソジストのように色々あるようだが、この区別、私にはちょっと判らない。ただ、イスタンブールには礼拝で使用する言語により、韓国人教会とでも言うべきものもあれば、イラン人教会というようなものもある。

 イラン人教会というのは何だか妙な感じもするが、国外に出た後でプロテスタントに改宗してしまうイラン人が結構いるのである。彼らはイランに居た頃はムスリムであったわけで、イランにも住んでいるアルメニア人のような元来のクリスチャンではない。

 イスタンブールで知り合った日本語を話すイラン人は、元々ムスリムだったのが、日本で働いていた時分に教会へ通うようになったそうで、「改宗してしまったから、もう国へは戻れない」と言っていた。

 さて、カドゥキョイの教会だが、これはトルコ人教会。来ているトルコ人はほとんど元ムスリムである。このように改宗したトルコ人が、全国で現在1500名ほどいるとのこと。若い人たちが多いので、まだまだ増えると言われているが、果たしてどうなるだろうか。

 宣教師の友人によると、日本は宣教師の墓場。何故かと言えば、どんなに頑張っても一向に信者が増えないからで、「じゃあトルコは何だ」と訊いたら、宣教師の非難場所であると言う。中東のイスラム諸国各地で活動する宣教師たちは、いざとなったらトルコへ逃げ込むことになっているそうだ。

 カソリックの教会などでは、礼拝中に歌われる賛美歌の妙なる響きになかなか魅了される。クラシック音楽の方面でも、モーツァルトやバッハのミサ曲には傑作が多いようだ。それで、トルコの歌謡でも、ひょっとすると宗教的傾向のあるものには意外と魅力があるかも知れないと思い、最近は、敬虔なムスリムの人たちが好んで聴くアフメット・オズハンなんていう歌手の曲なんかも、ちょっと聴いて見たりした。まあ、独特な調子があって、そんなに悪くもないのだが、わざわざ聴きたくなるようなものでもない。

 ところで、カドゥキョイの教会では、「輝く星座」のようなお馴染みの賛美歌と共に、何かトルコ民謡風の曲が歌われていて、これ、あらためて聴いて見ると、どうもそのアフメット・オズハンの調子によく似ている。

 礼拝が終った後で、まだ若いトルコ人の牧師さんに、このことを尋ねてみると、

「あれは、アナトリアで神を称える歌に共通してみられる調子なんです」

「すると、この教会で歌われているものも、やはりムスリムが使っている調子を元にして作曲されたんですね?」

「えっ? あの調子は元々アナトリアに住んでいた東方正教会のクリスチャンが使っていたものなんですよ。だってあなた、モスクでムスリムが歌っているところなんて見たことがないでしょう? イスラムに賛美歌というものは元々ありませんでした。ずっと後になって、メブラーナがアナトリアのクリスチャンに伝わる調子を使って例の旋舞を確立したんです」

 牧師さんは親切にも、「教会で歌われている伝統的なアナトリア風の賛美歌を録音したCDがあるので、宜しかったらどうぞ」と薦めてくれたが、『アフメット・オズハンのCDも結局ほとんど聴いていないよなぁ』と思い遠慮しておいた。


ディヤルバクルの教会「平伏して祈る姿」

 94年に、アナトリアの南東部、スリヤーニと言われるシリア正教徒のクリスチャンたちが住んでいるマルディン周辺やディヤルバクルを旅行した。

 マルディンも歴史を感じさせる石造りの街並みが美しいところだが、さらに東へ50キロほど離れたミディヤットは、石造りの家々に細かい意匠が凝らしてあって真に美しい、さながら町全体が博物館のようである。

 ミディヤットはこの辺りでも特にクリスチャンが多い町、近郊には大きな修道院(聖ガブリエル修道院)もあり、ここにはシリア正教の管区大司教が所在している。総主教座は、現在、シリアのダマスカスにあるが、オスマン帝国の時代はマルディンにあったそうだ。(聖ハナニヤ修道院“ダイル・アッ=ザアファラーン”)

 彼らの間で今も通用するスリヤーニ語は、イエス・キリストが話していたアラム語に近いといわれ、独自の文字があり、彼らが読む聖書はその文字によって書かれている。

 ミディヤットで見たスリヤーニの人達だが、クリスチャンとはいえ、外見上その風俗は周囲の保守的なムスリムとそれほど違っていたようにも思えない。年配の女性はムスリムと同じようにスカーフを被っていた。教会には長椅子が置かれていて、一見、見なれた教会と同じ雰囲気ではあるものの、女性の信者が一番後ろの柵によって仕切られた場所で礼拝するところなどは、ちょっとモスクに近いものを感じさせる。聞いたところによると、東欧ボスニアのモスクでは、男女が左右に別れるだけで横にならんで礼拝をすると言うから、これは、宗教の違いと言うより、地域における風俗の違いなのかも知れない。

 次に訪れたディヤルバクルでは、以前かなり住んで居たクリスチャンも、近年になってめっきり減ってしまったそうで、ミサを執り行っている教会は今や2箇所ぐらいという話だった。

 迷路のような路地裏を歩き回ったあげくやっと探し当てた教会。壁には、幼いイエスを抱くマリアの絵が画かれ、教会であることに間違いはない。静かに扉を開けて中を覗いて見ると、長椅子もなく、絨毯だけが敷かれている祭壇の前で、数人の信者がムスリムのように床へ平伏していた。『あれっ待てよ、ここは本当に教会だったのかな?』と思ったのも束の間、信者の人達はやおら立ち上がって、今度は胸に十字を切る。そして礼拝が終るまで、この動作が何度となく繰り返されたのである。

 礼拝が終ると、ひとりの青年が近付いてきて、「あなた、イズミルのエーゲ大学でトルコ語習っていませんでしたか?」と言う。そうだと答えると、

「やはりそうでしたか。私のことは憶えていらっしゃらないと思いますが、英文科にいたフィクレットを知ってますよね」

「あのムスリムからクリスチャンに改宗したフィクレットですか?」

「ええ、そうです。エーゲ大学ではフィクレットと一緒に何度かあなたともお会いしました。私は大学を卒業して軍役についているんですが、今は休暇をもらって帰省中なんです」

「すみません。あなたのことはすっかり忘れてしまっていたんですが、あなたはスリヤーニだったのですか?」

「いや、私はアルメニア人です。ディヤルバクルにも以前はアルメニア教会がありました。今もあるにはあるんですが、アルメニア人は数世帯しか残っていないので、ミサが行なえるようにはなっていません」

 現在はアメリカに留学中のフィクレットだが、その当時はイスタンブールでしょっちゅう会っていたから、私もこのアルメニア人の彼に、フィクレットの近況を伝えたりして、偶然の出会いを喜び合った。

 それから、聖職者と思しき中年の男性とも話す機会があったので、気になっていた礼拝の仕方について、「あれは周囲のムスリムから影響を受けたんでしょうか」と訊いてみると、

「そんなことあるわけありません。だって我々の教えの方が古いでしょう。礼拝の仕方は彼らが我々の真似をしたのです」と言う。

 しかしこの時は、そんな答えに納得することもなく、やっぱりムスリムの影響だろう、なんて思っていた。それが、ついこの前、「戦争と平和」を読んでいると(もちろん日本語で)、「祈る時、額が床へつかんばかりになる」というような表現が度々出てきたので、あのディヤルバクルでの礼拝風景が思い出され、『待てよ、ロシア正教の教会には椅子も置かれていなかったし、一体彼らはどうやって祈っているのか』と気になった。それで、先週の日曜日、ロシア教会へちょっと早めに出掛け、礼拝の様子を窓から覗かせてもらった。すると確かに、ときおり女性の信者が床にひざまずいて、平伏すとまではいかないまでも、ほとんど額を床までつけるようにして祈っている光景を目にすることができた。

 ディヤルバクルの教会では、もっと完全に平伏していたような印象なのだが、こんな記憶は結構いい加減なことも多いだろう。もう一度行って見た方がいいかも知れない。別に、礼拝の仕方はどちらが元祖かなんてことではなく、ちょっと確かめてみたい気がする。


ムスリムからクリスチャンへの改宗

 フィクレットとは、91年、イズミル在住の韓国人牧師宅で知り合った。夕方、牧師さんのところを訪ねてみると、ちょっと東洋人っぽい風貌の青年が夕食の席についている。一瞬、韓国人かな、と思ったが、牧師さんの紹介により、エーゲ大学の英文科で学ぶトルコ人の学生であると分かった。

 その頃は、トルコ人であれば、当然ムスリムと思っていたので、ベーコンを自分の皿へ取り分けた青年に、「それは豚肉なんだけど、大丈夫?」と訊いたところ、

「あなたは、ムスリムが牧師の家へ夕食に呼ばれている、とでも考えていたんですか? 私はクリスチャンですよ」

 それから、色々話を聞いて見ると、当時は彼もまだクリスチャンになったばかりだった。イスラムを批判した新聞記者が狂信的な原理主義者に殺された事件に憤りを感じた末、改宗してしまったと言う。しかし、元ムスリムとはいえ、彼の父親は、ロシアのシベリア地方で未だにシャーマニズム信仰を持つトルコ系民族の出身であり、トルコ共和国へ移住した後、便宜上、身分証明書にムスリムと記してあっただけなのだそうである。

 それなら、もともと神への信仰などもなかったのだろう。当時、フィクレットに、その辺のことを確かめてみると、

「ここだけの話。一応、クリスチャンになった今でも、別に神の存在なんて信じているわけじゃないんだ。ただ、教会へ行けば英語の勉強にもなるしね。それと、身分証明書にムスリムって記してあるのは、どうしても変えたいと思ったけれど、さすがに無宗教とまでは書かせられなかったんだよ」

 その頃のフィクレットは、アタトュルク精神の賛美者で、イスラムは大嫌い。次のような話を、得意げに説明してくれたこともある。

「イスタンブールのドルマバフチェ宮殿に行くと、直ぐ隣にモスクがあるから、注意して見るといい。あのモスクから、礼拝を呼びかけるアザーンの声は聞こえて来ないはずなんだ。というのも、昔アタトュルクが、ドルマバフチェ宮殿で上機嫌に一杯やっていたところ、アザーンの声が聞こえて来たので、『あそこで騒いでいる坊主を連れて来い』と側近に命令。連れて来られた坊主のこめかみに拳銃を突きつけて、『人が気持ち良く飲んでいるのに変な声あげて騒いだら承知せんぞ』と一喝したんのさ。それで、今でもあのモスクじゃ、アザーンを読まないことになっているんだ」

 この話、真実とも思われないが、全く彼の創作ってわけでもなく、巷に流布していた。しかし、ある程度の信仰があり、且つアタトュルクを敬愛する平均的なトルコ人によれば、こんな話はとんでもない出鱈目であるという。

 フィクレットの実家はイスタンブールだったので、92年にイスタンブールへ移ってからも、彼とは度々会う機会があった。ちょっと変わってはいるものの、直情径行で気持ちの良い青年である。

 イスタンブールでは、一緒に教会を訪ねたりもしたが、徐々にクリスチャンとしての自覚も生まれたのか、他人の信仰を茶化すようなこともなくなり、イスラムについても一定の敬意を表して語るようになった。

 94年、フィクレットとイスタンブールで、彼のスリヤーニの友人を訪ねた。イスタンブール大学の学生というこの友人も、出身地は、やはりマルディンのようだった。ここで彼から、「トルコの何処に魅力を感じるのか」と訊かれたので、

「トルコは東西文化の橋渡しをしているのではないかと思います。この地にはアラビア的なものとギリシャ的なものが混在していますが、トルコの要素も加わったことにより、このふたつは融合できたんじゃないでしょうか」とまずは月並みに答えた。

「トルコ人が、その橋渡しの役割を果たして来たと言うのですか?」と重ねて質して来た彼に、

横合いからフィクレットが、「僕もそう思うな。トルコ人だけの文化を見ると大したものではないかも知れないけど、様々な文化をひとつに合わせる糊のような働きがトルコ人にはあったんだ」と嬉しそうに言ったけれど、

「そんなことはないね。トルコ人なんて何の役にも立っていない」とあっさり切り捨てる。

 フィクレットは当惑した様子で、

「それじゃ、歴史の中でトルコ人の果たした役割は何もなかったと言うのかい?」

「その通りさ。何にもないよ」

 これに対して、フィクレットは目線を宙に浮かせて呟くように「それはあんまりだ」と言ったきりだった。

 この後、何の話になったのか、良く憶えていないが、結局のところ、これで場が白けてしまい、早々に退散したのである。フィクレットも別れる時には、何事もなかったかのように、にこやかに挨拶していた。

 それから程なくして、私は日本へ戻り、98年、再びトルコに戻って来ると、フィクレットはアメリカへ渡ってしまっていて、まだ再会を果たしていない。しかし、改宗したトルコ人のプロテスタントは、たかだか1500人。その消息は直ぐに知ることができた。カドゥキョイのトルコ人教会で聞いたところによれば、彼は今年中(2001年)にも帰国して、イズミルで牧師として活動するそうである。


イラン人の教会「ペルシャ語によるミサ」

 イラン人の集まる教会というのを一度見て置こうと、出かけてみた。イラン人の知り合いから聞いていたのは、ベヤズィットのイスタンブール大学正門近くの教会。土曜日の夕方、下見に行くと、教会の入口には「アルメニア聖書教会」と書かれていて、どうやら元来はアルメニア系のプロテスタント教会であるようだ。中に入って管理人のおじさんから案内を求めると、この人はモルドバから来たガガウズトルコ人。日曜日の午前中のミサはトルコ語で行なわれ、集まるのはアルメニア人やガガウズ人が多く、夕方になってからイラン人のためにペルシャ語のミサがあると説明してくれた。

 翌朝、10時頃に行って見ると、ミサは既に始まっていて、濃い口ひげをたくわえたアラブ的風貌の中年牧師がトルコ語で説教の最中だった。トルコでは、アラーの他に神を表す言葉としてタンルという固有のトルコ語を使ったりもするが、この牧師さんはアラーを多用。他の宗教用語も大概ムスリムと同じものを使うので、ちょっと聞いただけでは、どの宗教の説教をしているのか良く解らない。

 賛美歌を歌う段になると、ギターを抱えた若い女性が前に出て音頭を取る。歌は殆どがポップ調で、アナトリア風の調子は現われなかった。

 ミサの後、お茶会になってから、周りの人たちに色々訊いて見た。なかなか押し出しの良い中年の男性は、「アルメニア系のトルコ人」と自己紹介。牧師さんもアルメニア系なのだそうである。それまでに出会ったアルメニア人の多くは、「私はトルコ人ではありません。アルメニア人です」と言っていたので、ちょっと意外な感じがした。「アルメニア正教の教会へは行かないのですか?」と訊いたところ、

「私はシバスの生まれで、アルメニア語は解りません。アルメニア人学校はイスタンブールにしかないので、地方ではアルメニア人としての教育を受けることはできなかったのです。近くには正教の教会もなく、身分証明書にクリスチャンと書かれているだけで、以前はクリスチャンという自覚もありませんでした」

「この教会へはどうやって来るようになったんですか?」

「妻も私と同様に地方出身のアルメニア人なんですが、彼女が先に教会へ通い始めました。でも最初、教会へ行ってるという話を聞いた時は驚きました。なにしろそれまでは、余り宗教に熱心な連中は皆原理主義者のように思っていましたから、何かいかがわしい教団にでも勧誘されたんではないかと妻を疑ってしまったほどです」

 イスタンブールはベイオールにあるアルメニア正教の教会で知り合った、やはり地方の出身である初老のアルメニア人から聞いたところによると、彼が生まれた頃、イスタンブールでもない限りアルメニア人としてのアイデンティティーを認めてもらうのは難しく、彼の場合、やっとのことで身分証明書にクリスチャンと書き込むことはできたものの、姓名はトルコ風のものを余儀なくされたそうだ。

 南東部のビトゥリスを旅行した際には、土地の人たちから教会村と名づけられた、言わば「隠れキリシタン」のアルメニア人が住む村の存在を聞かされた。カイセリでは、アルメニア人が去った後の崩れかかった家々がそのままになった街区を見たこともある。その初老のアルメニア人もトルコ語しか話せなかったが、自分がトルコ人であるということなどは絶対に認めたくない様子だった。

 しかし「アルメニア聖書教会」には、ガガウズトルコ人やムスリムから改宗したトルコ人も来ていたので、ここではアルメニア人も自分達を「アルメニア系トルコ人」と意識するようになったのかも知れない。

 ガガウズ人の男性には、なぜロシア正教の教会へ行かないのか訊いてみた。彼によれば、正教の信仰は真摯なものではないそうである。

「正教の教会へは娼婦も祈りに来るんですよ。もちろん、『そんなのはクリスチャンではない』とは言いません。悔い改めることができます。でもね、彼女たちは日曜に教会で祈って、翌日から同じ仕事をして、また日曜になると祈りに来る、それの繰り返しです。これじゃあいけません」

「モルドバにもプロテスタントの教会はあるんですか?」

「モルドバでもロシアでもプロテスタントになる人は増えているんですよ」

「正教徒の人たちとの間で問題がおきたりはしませんか?」

「正教の聖職者たちが、プロテスタントの教会へは行かないようにと呼びかけているくらいで大きな問題にはなっていません」

 他に、スリヤーニであるという青年も来ていて、「両親は今でもシリア正教の教会に行ってますが、私はプロテスタントになりました」と言う。

「シリア正教ではスリヤーニの人しか受け入れません。これっておかしいでしょう。本当は信仰だけが問題のはずです。ここに来ているムスリムから改宗した人たちの方が、よっぽど真面目に信仰と取り組んでいますよ」

 ムスリムからの改宗は、欧米への移住を狙ってのことだとも言われている。イラン人について言えば、確かに難民申請の口実にしている者がかなりいるに違いない。しかし、トルコ人の場合、国内で堂々と改宗しているわけで、そうとは言いきれないような気もする。

 ところで韓国では、韓国人ムスリムが4万人近く存在すると言われ、ソウルには立派なモスクもある。しかしこれ、殆どがその昔、サウジアラビア等へ出稼ぎに行く際、ビザの発給を容易にするためのものだったとか。ソウルのモスク近くで「イスラム食堂」を経営するおばさんから聞いたのだが、最盛期には、ムスリムとして承認してもらうために来た人たちでモスクの前に行列ができるほどだったそうである。

 イラン人ミサのために、その日は夕方になってから、また「アルメニア聖書教会」へ出直した。大概のイラン人たちがトルコ語を流暢に話し、女性もモダンな服装、街中で会えばトルコ人であると思ってしまいそうな感じだ。しかし、ミサが始まって「おやっ?」と思ったのは、男女がきれいに左右別れて座っていたのである。私は男の列の一番端に座っていたので、通路を挟んだ隣には若い女性がいて、彼女はジーパンにTシャツというなりで、目が合えば「ニコッ」と微笑むが、何か話掛けて来たりはしない。こういったところの感覚はトルコと大分違うようである。

 ミサが始まると、まずは30歳ぐらいの女性が前に出て、テキストを手に何やら話すが、もちろんペルシャ語なので何を言っているのか全く解らない。ただ頻繁に「ホダー」という単語が聞き取れる。これがペルシャ語で神を意味することは知っていた。イラン人はムスリムでも神をアラーとアラビア語では言わず、ペルシャ語でホダーと言ったりする。この辺は古い歴史と伝統を持つイラン人の矜持なのだろうか。

 牧師は40歳ぐらいの人、スーツ姿で説教台に立つ。後で聞いたところによると、彼が牧師としての教育を受けた英国にある学校は、運営もイラン人によるものなのだそうである。改宗するイラン人は想像以上に多いのかも知れない。

 でも、なんと言っても一番驚いたのは、賛美歌を歌う場面。あの30歳ぐらいの女性、なかなか美人だが、ちょっときつい感じのする彼女がタンバリンでリズムを取りながら先導、牧師さんがエレクトーンで伴奏を努める。曲は、やはりポップ調のものが殆どで、歌詞はもちろんペルシャ語。タンバリンでリズムを取る彼女の胸元がユサユサ揺れるのも見応えあったが、とにかく皆の乗り方が凄くて、どこかのコンサート会場に紛れ込んでしまったのではないかと錯覚するような雰囲気。トルコ人の場合、この教会の朝のミサでも、カドゥキョイのトルコ人教会でも、何人か手拍子を取る人が出るくらいで、おとなしいものである。それが、イランの人たちは歌う声も大きいし、隣の娘などは完全に踊っていた。イラン人はトルコ人より遥かに熱情的なようである。


エピソード〜94年、日本、川崎の産廃屋でダンプの運転手

 94年の9月、トルコから帰国すると、とりあえず川崎市にある産廃屋でダンプの運転手として働き始めた。この会社を選んだことに特別な理由があったわけではない。「住み込み歓迎」と書いてあるのが目に留まったのと、川崎市なら韓国人がたくさんいるかも知れないと考えたぐらいのことである。トルコにいた3年の間に、以前せっかく学んだ韓国語がシドロモドロになってしまっていたのをなんとかしたいと思っていたのだ。

 実は私が韓国語を勉強し始めたのも、その昔お世話になった産廃屋の社長が在日の朝鮮人であったことがきっかけだった。それでこの川崎の産廃屋も、ひょっとして在日の人の会社ではないだろうかという妙な期待があった。が、面接を受けに行って社長の顔を見た時に、これはどうも見当違いだったなと思わされた。ゲジゲジの太い眉にグリッと丸い大きな目、朝鮮・韓国の人には滅多にない顔だった。

 しかし、見当違いでも何でも、妙なことで選り好みをしている場合ではなかったから、結局ここで働くことにしたのである。住み込みとはいえ、古いアパートを寮として使っていて、ちゃんと個室が与えられ、住み心地は悪くなさそうだった。

 翌日、荷物を持って寮に行ったのだが、道すがら近くで「沖縄料理」という看板を目にした。沖縄料理なんて珍しいなと思い、荷物を整理すると早速そこへ一人で出かけてみることにした。その日は全員夜勤だとかで、寮には誰もいなかったのである。

 さて、寮を出ると、目指す沖縄料理の店へ行きつく前に、直ぐ別の沖縄料理屋の看板が目に飛び込んで来た。あれっ、ここにもあったぞと思ったのも束の間、次から次へと沖縄料理の店が出て来た。中には沖縄食材店らしきものまである。ここはどうやら沖縄の人たちの街であるようだった。

 試しに、「うちなーすば、やじグワ」と意味不明の言葉が看板に大書きされている食堂に入って見ることにした。腰を落ち着けて壁に掛かっているお品書きを見てみると、これも何のことやらさっぱり分からない。「テビチー」「ナベラー」「ゴーヤチャンプル」「チキナー」。かろうじて、「山羊刺し身」「山羊汁」「やきそば」等々がどんなものであるか見当が付いたぐらいである。しょうがないから店の人に一つ一つ訊いてみることにした。テビチーは豚足のこと、ナベラーはヘチマ、ゴーヤチャンプルにが瓜炒め、チキナーは高菜。やれやれと思ったが、その時、周囲の視線が自分に注がれているような気がしてハッとした。「こいつ、よそ者だな」と言われているような感じがしたのである。つい3週間ほど前まで居たイスタンブールで、もう永いことそんな風に感じたことがなかったのを思い出すと何だかおかしかった。

 その翌日、年輩の運転手が一緒に仕事の要領を教えてくれることになった。ところが、私がハンドルを握って道に出た途端、とんでもないポカをやらかしてしまった。無意識のうちに右の車線に出てしまっていたのだ。「アホ何すんのや。危ないやないか」と一喝された。見事な関西弁だった。それから少しトーンを落として、「あんた外国で暮らしとったことでもあるんか」と訊いてきた。そうだと答えると、「やっぱりそうか、俺たちも経験あるから、よう分かる」と言う。ちょっと意外な感じがして「えっ、どちらの国に行かれていたのですか」と尋ねたところ、「沖縄やで、外国やないぞ。あんた知らんのか、返還前の沖縄は右側通行だったのや。はじめて大阪へ働きに出た時はこれで苦労したわ」というのだ。すでに関東での生活の方が長くなったのに、若い頃に苦労して身に付けた関西弁はなかなか抜けないそうである。

 この人もすごいゲジゲジ眉毛だったが、やはりあの社長も沖縄の人で、寮にいる人もほとんどが沖縄の人らしい。果たしてその晩、寮長さんのところへ挨拶に行くと、その部屋に4〜5人が集まっていて、まあ一杯飲んでいけという。そのうち皆が興にのって話し始めると、驚いたことに見事なくらい何を言っているのかわからない。方言などというものではない、完全に外国語である。しばらくして、2〜3人新たにやって来たが、彼らが私の顔を見て何とか言った中の「ヤマトンチュ」というのを聞き取ることができた。これは私のことを指して言ったのだから、「この人、大和人か?」ということなのだろうと察しがついた。「そうか俺は大和人なのか」と思いつつそれを確かめると、「そう、ヤマトンチュは日本人のことだよ」という返事だ。チュというのは人のことらしい、だから沖縄人のことはウチナンチュというのだそうだ。私は気になっていた「うちなーすば、やじグワ」のこともついでに訊いてみた。「うちなーすば」は「沖縄ソバ」、「やじグワ」は「やじさんの小さな店」といったぐらいの意味だと教えてくれた。そして、「あそこで飯が食えるなんて、お前は変な日本人だな」と言われた。

 私はそれからも「やじグワ」へせっせと出かけて、ひとつきもしないうちに全メニューを制覇した。ほとんどのものを最初から何の抵抗も無く旨いと思って食べることができた。ただ、炒め物などに入ってくるポークと呼ばれる輸入品のソーセージ缶詰だけは、何度か口にするうち、どうも鼻についてきて、注文する時から入れないでくれと頼むようになった。店のおばさんは、「ヤマトの人の中には、ここで食べれるのはポークだけだなんて言う人もいるのに、あなたは変わっている」とおもしろがった。

 このポークというのは、戦後、米軍によってもたらされたそうだが、今ではすっかり沖縄の食生活にとけこんでいるように見える。こんな風にして沖縄特有のチャンプルー(ごちゃ混ぜ)文化が生まれるのだという。この街で沖縄の食料品を扱っている店には必ずこの缶詰がおいてあったが、他所ではなかなか手に入らないだろう。ラベルを良く見ると米国製よりデンマーク製が多かった。

 このポークが大和人にとって一番食べ易いとすれば、食べ難いのは山羊汁ということになるだろう。さすがにこれは、私も慣れるまでに、ちょっと時間が掛かった。山羊の肉はかなりくせがある。あまり上等でない羊肉の匂いをもっと強くしたような感じだ。

 トルコでも、南東部のウルファやカジアンテップへ行った時、市場で山羊が沢山売られているのを目にしたが、アンテップのちょっと洒落たレストランではメニューに、「当店は全ての料理に羊肉を使用しています」とわざわざ書かれてあった。山羊はまがいものという扱いだったのかも知れない。

 山羊汁では内臓も一緒に煮込んでいるから臭みはさらに増してしまう。味付けは塩だけで、匂いを和らげる為、食前に生姜のすりおろしたものとヨモギの葉を加える。慣れれば何ともいえない味わいだが、沖縄の人たちも、これを薬餌として食べるようである。山羊には血圧を上げる効果があり滋養強壮に良いのだそうだ。

 この山羊の効用については、以前韓国にいた頃にも聞いたことがある。韓国では山羊を内臓ごと圧力釜で煮込んで薬効のあるそのエキスを抽出する専門の業者もいた。といっても、これはあくまでも薬であり、一般に山羊を食べるということではなかった。

 しかし、沖縄の人たちの山羊好きは相当なものだ。会社で借りているダンプの駐車場でも、山羊が数匹放し飼いにされていたことがある。この山羊は食用として売るためのもので、買い手が見つかるまで、そこで餌を与えられていた。山羊は減ったり増えたりしていたが、この山羊の売買は社長のサイドビジネスでもあったのだ。

 滅多にはなかったが、駐車場で焼肉パーティーをする際に、社長がこの中から一匹つぶして、我々運転手に振舞うこともあった。屠殺解体は何時も社長の手で行われ、その手際は見事なものだった。トルコでは羊を屠った後、直ぐに皮を剥いでしまっていたが、ここで見た沖縄のやり方はちょっと違っていた。屠った山羊は皮をそのままにして、さっと熱湯に浸けたうえ、火で炙りながら丹念に毛だけをむしり取るのだ。なぜなら、山羊汁の場合はともかくとしても、刺し身で食べる時には、この皮の部分が特に美味しいからである。

 山羊まで食べるようになると、寮にいる人たちは「おまえは本当に日本人らしくない奴だな」と言いながら結構喜んでくれているみたいだった。でも、その前に韓国の友人が寮に電話してきたこともあったから、実のところは「こいつも韓国人ではないのか」と思われただけだったのかも知れない。

 なにしろここで韓国人はごく身近な存在だった。というのも、元請けの産廃処理場は在日韓国人が経営していたのである。会長は韓国生まれの一世で、体調を崩した時には沖縄人の社長に頼んで、あの山羊を買い求めることもあったそうだ。こんなことから、文化的にもお互いに近いものを感じていただろう。

 隣の部屋にいたKさんなどは、よく私にこう話し掛けてきた。「日本人というのは随分おかしな連中だな。おまえもそう思わないか」。私が「自分も日本人だからそう言われても困る」と言うと、「俺は自分のことを日本人だとは全く考えていないから変な気を使う必要はないよ」なんて言いながら、韓国について知りたがった。

 私もここで働いた一年の間に色々なことを教わった。それまで、あまりにも沖縄について知らず、関心もなかったことを恥かしく思った。沖縄が130年前までは独立した琉球王国であったという歴史上の事実は知っていたとしても、その言語をはじめとする文化が如何に独自なものであるかを実感として分かっていたのではない。そして、日本の社会に今も残る差別的な感覚に対する沖縄人の憤りの声を聞き驚かずにはいられなかった。

 Kさんは現場で大手ゼネコンの管理者から、「運転手さん、日本国籍もっているのか」と訊かれたこともあったそうだ。不法就労と疑ったのだろうが随分ひどい話である。よく世間には、朝鮮・韓国人は顔を見れば分かるなんていう人たちがいる。そんなことは無理に決まっているのだが、一応は日本人であるはずの沖縄人のことは、しっかり見分けてしまうのである。

 言葉にしても同様のことが言えるようだ。ダンプで業務無線を使っていたが、沖縄の言葉(ウチナーグチ)で交信すると管理局からクレームが来るそうである。社長によれば、暗号のようなもので交信してはならないという規約に触れるとのこと。日本語の一方言と決めつけておきながら、いざとなれば暗号扱いするとは、これもひどい話だ。韓国語での交信はどうだろうかと社長に訊いてみたところ、「韓国語というのは大韓民国の公用語だろ。それなら良いんじゃないか。我々のは言葉として認められていないんだよ」という答えが返って来た。

 最近は沖縄でも日本語への同化が進み、都市部においてはウチナーグチを解さない若者も増えたそうだが、川崎市のここではウチナーグチが主流であり、私と同じ世代でまともに日本語を話せない同僚もいた。

 日本語を話す場合でも、ウチナーグチの表現をそのまま使うことが良くあった。中でも面白いと思ったのが「歩く」の使い方。ダンプの運転席に座っている時、「歩け」と言われたら、それはダンプを走らせろということ。ダンプから降りて自分が歩いてはいけない。他にも学校に通うとか、何かの仕事に携わるといった時にも、この「歩く」(ウチナーグチではアチャルというらしい)を使うようだ。これにまつわる有名な笑い話も一つ教えてもらった。昔、ボクシングの世界チャンピオンになったばかりの具志堅用高氏に、記者が「ボクサーになっていなかったら今頃何をしていましたか」と訊くと、用高氏は「海で歩いています」と答えたそうだ。もちろんこれは「海で働いています」、すなわち漁師になっているという意味なのだが、世間では、しばらく迷答として話題になったという。

 ところで、この街にはウチナーグチが飛び交っていただけではない。沖縄料理店で、スペイン語やポルトガル語の会話が聞かれることも珍しくなかった。沖縄から南米に移民した人たちの2世や3世が出稼ぎに来ていたのだ。彼らの中には日本語はダメでもウチナーグチなら何とかなるなんて人が多かった。料理店をはじめた人もいて、「沖縄&南米料理アミーゴ」という看板には驚かされたものだ。この街は、直ぐ近くにコリアタウンもあったりして、実にコスモポリタンな雰囲気。どうやら私には、イスタンブールからごく当たり前な日本へ帰ってくることは許されていなかったようである。


★4年ぶりにトルコへ戻る


気持ちが優しいトルコの人達

 98年の夏、4年ぶりにトルコへ舞い戻って来ると、まずはイスタンブールのオスマンベイに事務所を構え韓国製服地の輸入に携わっていた韓国人キムさんのところで5ヶ月ほど働いた。

 キムさんは、91年イズミル以来の知り合いで、私より三つほど年長。トルコへは、もともと、韓国の大手家電メーカーがトルコの会社と合弁でイズミル近郊に設立した現地法人の副社長として赴任。その後、92年、その家電メーカーが、合弁事業から手を引くことになった際、社を辞して、トルコへの半ば永住を決意したのである。

 韓国の人たちは93年頃から韓国製の化繊をトルコの市場に持ち込んで大分稼いだらしく、98年の夏、オスマンベイの界隈には韓国の繊維商社が数社、事務所を開いていた。しかし、この頃既に韓国製はもう下火になっていた上、トルコ繊維業界の不況も重なって、相次ぎ撤退、キムさんも翌99年早々に事務所を閉鎖することになる。

 キムさんは、如何にも韓国人らしい明朗さのある教養人。しかし、商売の方は、殿様商売というか、結構おおらかなところがあって、扱っている商品の原価もあまり正確には知らないような感じだった。

 上手く袖の下を使うなんていうのも苦手なようで、一度税務署の役人ともめたこともある。その時は、税務署長が直々に処理してくれたものの、後で、「将来有望な若者を知っているが、おたくで使ってくれないか」なんてことをもちかけられた。翌日、その青年は事務所にやって来たのだが、署長と同じ姓なので、「署長さんとは、親戚にあたるんですか」と訊けば、「父です」という返事。ちょっとこれでは、断わるわけにもいかない。次の日から早速働き始めたこの青年、どうやら、殆どサッカーと女のことしか頭になく、きっと署長さんも「うちの倅には困ったものだ」と頭を悩ましていたのだろう。

 営業の仕方もキムさんの場合、とにかく押しの一手。「都合が悪い」と逃げられても、繰り返し商談に押しかける。しかし、イエスとノーをかなりはっきりさせる韓国人と違って、トルコ人は日本人のように、断わる時でも、ちょっと婉曲な言い方をしたりするので、ここを上手く見極めないといけない。一人で営業に回ったとき、得意先のトルコ人から、「韓国の人たちって、なんであんなにしつこいのかなぁ?」とこぼされたことがある。彼によれば、「私達がはっきりと断わらないからいけないんですかね。でも、これが文化ってものでしょう」。

 反対に韓国の人たちから見るとトルコ人は、本音と建前が違い、腹の底が読めないということになる。「我々韓国人の中では、仲違いして挨拶もしなくなったところで、別にどうって言ったこともないけど、トルコ人たちが挨拶しなくなったら怖いですよ、だって相当仲が悪くても、ちゃんと挨拶だけはしてますからねえ」。

 さて、キムさんの事務所では、電話番に中年の女性を使っていたのだが、ある日の夕方、このおばさんが銀行への入金を忘れてしまい、キムさんは偉い剣幕。で、さんざん怒鳴りちらしてから、「得意先へ行って来る」と言い残して出ていった。おばさんは、怒鳴られている時、既に目が潤んでいるような感じだったが、キムさんが出ていくと、まるで小娘のように、しゃくりあげながら泣き始めた。泣き方は段々激しくなるばかりで、慰めようもない。暫くして泣き止むと、「キムさんは私をとても悲しめた。名誉をひどく傷つけられたので、もうここで働くことはできない」と言って事務所をあとにした。

 キムさんが帰ってから、「電話番のおばさんですが、もう来ないんじゃないかと思います」と報告すると、

「えっ? 何かあったんですか?」

「ええ、あれから大分泣いていました」

「泣いた? なんでまた泣いたんですか?」

「銀行入金のことで社長が叱責されたじゃありませんか」

「叱責? ああ、あれのことですか。あれで泣いてしまったんですか?」

 それから、少し考え込んでいたが、やがて顔をあげると、

「しょうがないでしょう。そりゃ可哀想なことをしましたが、彼女はもう40過ぎているんですよ。ちょっと信じられません。あんなことで泣いて、良く人生渡ってこれましたね。まあ、彼女のことは忘れることにしましょう。電話番のおばさんぐらい、また直ぐに見つかりますよ」

 実際、あれしきのことで泣いてしまう韓国の女性がいるとも思えないから、キムさんも驚いたに違いない。

 工場での様子を考えて見ると、トルコでは、女性に限らず、男性も叱責されることに弱いようだ。男の場合、まさか泣きはしないが、「名誉を傷つけられたので、もう働きたくない」なんて言い出したりする。

 上司が部下をどついてしまうようなことは、日本や韓国だけに見られる現象なのかも知れないが、チーフのマサルさんによれば、

「欧米の人たちもかなり厳しく部下を叱責することがありますよ。こんなに甘いのはトルコだけです」

 確かに、少し叱責されたぐらいで傷ついてしまう名誉なんて、そもそも大した名誉ではないのだろう。


オスマンベイのボレッキ屋

 オスマンベイのキムさんの事務所は、アパートの2部屋を利用したもので、もうひとつの部屋は私の住居。もちろんキッチンもついていたが、朝食はいつも2軒先にある「ボレッキ」の店で済ませていた。

 ボレッキというのは、チーズやらひき肉の入っているパイのようなもの。中までパリパリに焼けていないで柔らかくなっているのが特徴。この店でも、定番のチーズ入り、ひき肉入り、ほうれん草入り、それに粉砂糖をかけて食べる中身の入っていないサーデ(純)が、朝のメニュー。昼になるとピザも加わる。店は6人も入れば一杯なので、殆どがテイクアウト、近所に配達もしていた。

 この手の店は、大概むさくるしい兄貴やおじさんが店番しているものなのだが、この店の場合、蝶ネクタイなんかして垢抜けた感じの若い兄弟が、愛想良く、ボレッキを切ったり、お茶入れたりとサービスに努め、これまたモダンな雰囲気の綺麗な妹さんがレジを打っていて、大分様子が違う。毎朝7時に店を開け、夕方は6時ぐらいまで営業。朝はテイクアウトを求めるお客で長蛇の列ができるほどで、なかなかの繁盛ぶりだった。

 ある晩、12時ぐらいになって店の前を通ると、まだ明かりがついていたので、ちょっと中を覗いて見たら、弟のムラットがいる。

「あれっ、こんな時間までどうしたんですか?」

「これから、ボレッキの仕込みをしないといけないんですよ」

「まさか、毎日こうやって夜中も働いているの?」

「ここんところは、ずっと兄貴と交代で徹夜しています。今来てくれる職人がいないもんで仕方ありません」

「でも大変でしょう?」

「いや、これぐらいへっちゃらです。御存知のように我々トルコ人はとても勤勉にできていますからね」

 まあ、彼らのような自営業者の中には、こんな風に頑張っている人たちが結構いるのかも知れない。

 それからも、夜ムラットとこうして話す機会が何度かあった。私は彼らのことを、そのさばけた様子から、もともとイスタンブールの人かと思っていたのだが、出身地を訊いてみたところ、「ビンギョル」と言う。

「えっ、ビンギョル。それじゃあ、あなた方はクルド人なの?」

「もちろん。こういうボレッキの店をやっているのは大概クルド人ですよ。知らなかったんですか? 店に来るお客さんでも、サーデをクルドボレッキって注文する人がいるくらいで、ああいうボレッキは我々に特有なものなんです」

「イスタンブールへは、いつ出て来ました?」

「12年前で、僕は11歳でした」

「時々、田舎へ帰ることもあるのかな?」

「一度もありません。帰ったところで、もう私達の村は残っていないんですよ。PKKのことは知ってますよね? ああいう事態になって、結局村は放棄されました」

「今でも危険な状態?」

「そんなことはないみたいですね。親戚の中には向こうへ行って来た人達もいます」

「それじゃあ、あなたも行って見たいでしょう。懐かしくはありませんか?」

「懐かしいって? 何も無いつまらないところですよ。誰がそんなところへ用もないのに、わざわざ出掛けるんですか? お金があって暇があれば、アンタルヤとかボドルム(どちらも地中海沿岸のリゾート地)に行きたくなるのが当たり前です。あなた、行ったことあります? 好いですよアンタルヤは」

 どうも、ちょっと成功したトルコの人達にとって、夏の休暇をアンタルヤで過ごすというのが、とても魅力的なようである。ロシア教会で知り合ったディヤルバクル出身のゼキさんも、

「ロシアの人達は可哀想ですよ。あんなに広い国土があっても、アンタルヤみたいなところはありませんからね」と言っていた。

 ここで、ディヤルバクルみたいなところ、という風にはならないようだ。トルコの人達が故郷を思うのは、そこに近縁の人がいる場合に限られているようで、日本人の持つ故郷へのこだわりとは、大分隔たりがあるような感じもする。このあたりは、農耕民族と騎馬民族の違いなのかも知れない。


オスマンベイの繊維街

 オスマンベイは繊維の街。生地問屋から、既製服の卸し、小売り店に至るまでが軒を並べている。影響力のある大きな生地問屋の経営者には、ユダヤ人やアルメニア人のトルコ国民が多く、他にも様々な外国人が事務所を構えていて、なかなかコスモポリタンな雰囲気。

 例えば、「アジェムオウル」(異邦人の息子、の意)という生地問屋の社長はナタン・コーヘンというドイツ人。この人、ドイツの生まれなのか、もともとトルコで生まれ育ったのか良く分からないが、言葉使いからその仕草に至るまで、周囲のトルコ人と何ら変わるところもなかった。

 数世代に亘ってイズミルで海運業を営むオランダ人の一族もいるそうだから、あるいはコーヘン氏も、そういう人であったのかも知れない。

 トルコの繊維商いは殆どイスタンブール一極集中で、地方に基盤を持っている業者も、本社はこの辺に置いている。それで、ムスリム・トルコ人経営者たちも出身地は様々、クルド人やアラブ人など色んな人たちがいた。

 さらに、この街には、韓国人の経営する洋服屋もあったということだ。

 94年頃、イスタンブール在住で専門はペルシャ文学という韓国人の少壮学者から聞いた話で、彼は雑談の最中、「ところで、ソウルの鐘路に何で洋服屋が多いのか知っていますか」と切り出した。

「あれは、まだ日本の殖民統治時代、ロシア革命で亡命して来たトルコ系のタタール人たちがあの辺に洋服屋を出したのが始まりなんです。戦後、彼らの多くはイスタンブールへ渡って来て、今でもオスマンベイの辺りで洋服屋をやっている人たちがいます」

「すると、タタール人の洋服屋さんには、多少韓国語の分かる人もいるのでしょうか?」

「いや、少なくとも私は、そういう人に出会いませんでした。何しろもう半世紀経っていますから、忘れてしまったんでしょう」

 でも、良く考えて見れば、当時の鐘路は明治町と言われていて、日本人の居住区だったそうだから、タタールの人たちは日本語を使っていたのかも知れない。

 さて、韓国人の洋服屋さんだが、店主である韓国人の男性は、戦前ソウルの鐘路でタタール人夫婦が営む洋服屋に奉公していた人で、夫に先立たれた女主人と結婚、一緒にイスタンブールへ渡って来たのだそうである。

 こんな話を思い出して、オスマンベイに居た頃は、その韓国人の洋服屋さんやタタールの人達に出会わないものかと、期待した。しかし、ここに居られたのも僅かに5ヶ月で、結局彼らにまつわる話を聞くことさえなかった。

 この当時オスマンベイでも、既に韓国製は安かろう悪かろうという評価になっていた。あるトルコ人の問屋さんは、「韓国の人達って、メンタリティーがトルコ人に似てんじゃないのかな?」と言う。

「小口で発注している時は、ちゃんとしたもの送って来るんで、安心して大口の発注かけると、どかーんと大量に不良品を送りつけて来るなんて、トルコ人も良くやる手なんですよ。そこへ行くと、日本の人達は本当に誠実ですね。日本人と取引して嫌な目に合ったという話は全く聞いたことがありません」

 しかし、日本でも明治時代、アメリカへ鉛筆を輸出するのに、先っぽと尻の方だけ芯を詰めてごまかそうとした業者がいたという話をどこかで読んだことがある。それで、このトルコ人の問屋さんに、日本人は誠実と言われたことに感謝しながらも、

「それは、誠実であるとか、そういう問題じゃないと思いますよ。日本人だって、昔は似たようなことをやっていたんでしょう。ただ、そんなことしていると、長期的には儲からないことが分かったからやらないだけで、利益追及に関してはずっと厳しいはずです」と説明すると、

「えっ、そうなんですか。それでは、日本人はユダヤ人みたいだってことになってしまいますね。ユダヤ人は根性の悪い連中ですが、彼らの扱っている商品には嘘がありません。みんなそれを知っているんで、結局この辺でもユダヤ人ばかりが儲けてしまいます」

 この人は、それでも日本人のことは大好きだ、なんて言っていた。でも、これは、お互い遠く離れていて、経済的にも関係が薄いから、言っていられることで、日本がトルコの隣に引っ越して来れば、「日本人は根性の悪い連中ですが・・・」となるに違いない。そういえば、このセリフ、韓国の人たちからは随分聞かされたものだ。

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2003年の11月15日、このオスマンベイにあるネベ・シャローム・シナゴークが自爆テロの攻撃を受け、多数の死傷者が出ました。負傷者の中には、本文でも紹介されている“ナタン・コーヘン氏”もいらっしゃったようです。これについては、2003年11月16日付けの“トルコ便り”に詳細を記しているので御参照下さい。

“トルコ便り”
11月16日 (日) 爆発で負傷された方の中に

昨日の爆発事件、新聞によると、ネベ・シャローム・シナゴークでは、10時半から「Bar Mitsva」なる儀式が行われる予定だったということであり、もしも、爆発が儀式の最中に起こっていたら死傷者がもっと増えていたに違いないと記されています。

この「Bar Mitsva」、子供が13歳に達して宗教的な責任を負えるようになったことを祝うものだそうで、昨日はコーヘン家の子供達が儀式を待っていたとのこと。

私は、98年、イスタンブールのオスマンベイで、韓国製服地の営業に携わっていたことがあります。この時に、一度訪れて商談した「アジェムオウル」という服地問屋の社長は、ナタン・コーヘンという人でした。当時はドイツ人であると聞いていたのですが、「Bar Mitsva」にまつわる記事を読んでもしやと思い、亡くなったり負傷した方々のリストに注意深く目を通していると、負傷者のほうで、何人かコーヘン姓を持つ人達が記載されていた中に、果たして「ナタン・コーヘン」という名も出ていました。トルコでは珍しい名前なので、あのナタンさんに間違いないはずです。ナタンさん、当時既に60歳ぐらいではなかったかと思いますから、「Bar Mitsva」で祝福される予定になっていたのはお孫さんだったのでしょう。どの程度の負傷なのかわかりませんが、直ってからまた儀式を受けられるようになれば良いですね。


トルコ語のすすめ

 韓国大手家電メーカーのエリート社員であったキムさんは、トルコ語は勿論のこと英語も堪能、以前パナマに駐在していたことからスペイン語もできる。まあ、私は英語が殆ど解らないので、キムさんの英語力がどんなものなのか、本当のところは何とも言えないが、傍で聞いている限り、かなりのレベルであるような気がする。このキムさんの説によると、英語は国際語として不適格なんだそうだ。

「これだけ各国の人達が長い間英語の学習をして来ているのに、未だに何処でも通用するってほどではありません。英語は発音が難解で簡単に学べる言語ではないからなんですね。私も随分英語を勉強しましたが、今でもネイティブ・スピーカーの会話を正確に全て聞き取ることはできません。もし世界の人々が英語の学習に費やした労力をトルコ語の学習に使っていれば、世界何処へ行ってもかなりのレベルでトルコ語が通用するようになっていたと思いますよ」

 確かに、トルコ語は発音の面で英語に比べれば相当楽なはずである。ネイティブ・スピーカーであるトルコ人の会話は聞き取り難いなんてこともない。かえってネイティブ・スピーカーの方が解り易いだろう。だいたい私でも何とかなっているのを見ればトルコ語が聞き取り易いのは明らかだ。

 なにしろ、私は耳が頓珍漢に付いているのか、日本語でも固有名詞や数字を聞き取れないことが時々ある。友人のところへ電話したら、携帯の番号を告げるメッセージが録音されていたので、何回も電話を掛け直して聞き取ろうとしたものの、結局聞き取れず、後で友人に苦情を言うと、「聞き取れなかったのはあなただけですよ」と言われてしまった。

 それで、トルコ語の学習を始めた時も、各国語の学習テープを聞き比べてみて、とにかく聞き取り易いということでトルコ語を選んだくらいである。

 トルコ語の文法は、日本語や韓国語に近いので、なおさら私達には学び易いのだが、イズミルのトルコ語学校で勉強していたドイツ人によると、彼らにとっては、まるっきり違うはずの文法も、活用の変化などが規則的で例外が少ないため、そんなに困難ではないとのこと。キムさんの言う通りトルコ語は国際語に適しているのかも知れない。

 それに、トルコ語は表現が豊かでなかなか味のある言語ではないかと思っている。といっても私は他に韓国語がある程度わかるだけなのだが、トルコ語を学んでみて、少なくとも韓国語より遥かに面白いと感じた。韓国語は、動詞によっては受け身や使役の形にすることが難しい場合もあり、何か表現の幅が狭いような気がするのである。

 ある韓国の人から、「トルコ語と日本語に共通する韓国語にはない特徴というものがありますか」と訊かれた時に、共に受動態を良く使う点を挙げると、

「そうですか、韓国語にはもともと受動態などありませんでした。良く『センガクトェンダ=考えが成る(考えられる、という意味で使われている)』なんて言い方をする韓国人もいますが、あれは殖民統治時代に日本語から受けた悪しき影響の名残で本来韓国語にはなかったものです。『考える』と言えば充分なわけで、『考えられる』というのは、責任の所在を明確にしない卑怯な言い方だと思います」

 トルコ語でも、この「考えられる」とか「言われる」は実に良く使われていて、やはりそこには責任を逃れようとする意図が見えなくもない。

 とはいえ、受け身などを使うことによって主語を変えたり曖昧にしたりするのは、何も責任逃れの為だけではないだろう。例えば、「私は女房に逃げられた」と受け身にするのは、主語を「私」にすることで「私」の責任を明らかにする為であると説明する人もいる。また、「お茶が入りました」という言い方は、「私がお茶を入れてあげました」と言った時の押しつけがましさを避けた日本語特有の奥ゆかしい表現であると書かれた本もあった。しかし、そういう言い方だったらトルコ語にもある。「チャイニズハズル、ブユルン(あなたのお茶が準備できています。どうぞ。)」

 この他にも、「アンラドゥヌズム?(あなたは解りましたか?)」と訊くより、「アンラタビルディムミ?(私は解らせることができましたか?)」、電話口で相手が誰であるか尋ねる時も、「シィズキムシィニス?(どなたですか?)」ではなく、「キミィンレギョルシュヨルム?(私はどなたと話していますか?)」と言うことで、もっと敬意を伝えることができるなど、トルコ語にはなかなか奥ゆかしい表現がある。もちろん、実用性が低く、お金の稼げる言語ではないが、趣味として学んでみるつもりなら充分に楽しめるはずだ。


★イズミル、そしてトラキアで友人たちと再会


イズミル(1)「キョフテ屋のケマル・パシャ」

 2001年の夏、クズルック村工場の夏休みを利用してイズミルを訪れた。イズミルは、91年に初めてトルコへやって来て、一年ほど滞在した思い出深い街。99年にも半年近く居たことがあり、その時は写真現像機やらカラオケ機の販売に携わっていた韓国人チェさんのところで厄介になっていた。このチェさんと知り合ったのは、やはり韓国人で、91年来の友人であるドンギョン氏から紹介されたからだ。

 ドンギョン氏は、91年に、新婚早々、韓国から夫人を伴ってトルコへ来て以来、ずっとイズミルで輸入業を営んでいるのである。彼のところへはイズミルに居た頃も何度となく泊まり込んでいて世話になりっぱなし。今回も当たり前のように一泊させてもらった。

 91年には、15世帯ぐらい住んでいたイズミルの韓国人も年々減って来て、現在は7世帯ほど。スルタン・キムはもう随分前に韓国へ帰ってしまい、養鶏場を経営して羽振りの良かったおじさんも、その養鶏場が暴風雨で全滅してしまったとかで、文字通り尾羽打ち枯らしてしまった様子。しかしこのおじさん、トルコ人と結婚していて既にトルコ国民となっているので、事情はどうあれ今更韓国へは帰れないのかも知れない。

 ドンギョン氏のところも、トルコで深刻さを増す不況の影響を受けて楽なはずはないが、なにしろトルコ滞在10年にして4人も子供が出来てしまったという大所帯で、とにかく賑やか。長男と次男は近所にある普通の小学校に通っていて、もう韓国系トルコ人といった雰囲気。先日は二人そろって割礼を済ましたのだそうである。

「あの割礼って、イスラムの儀式に則ってやったんですか?」

「だって私たちはクリスチャンですよ。宗教的な意味はありませんが、なんでも健康に良いという話ですからね。それなら、やっておいた方がいいんじゃないかと思いました」

 ムスリムの人たちによると、割礼はともかく断食も健康に良いことになっているが、どういう根拠があってのことか良く解らない。

 他国から来た人たちを余り抵抗無く受け入れてしまうトルコの社会に、彼らもすんなりと入り込んでしまったような感じ。それでいて勿論、毎食にキムチを欠かさない純然たる韓国人の生活をしているわけだが、ドンギョン氏は味覚の面でもなかなか開けている。トルコ料理も方々食べ歩いているので、彼が薦めるレストランだったらまず間違いない。

 99年、イズミルに居た頃、彼から教えてもらったキョフテ(トルコ風ハンバーグ)の専門店へは、よく出かけたものだ。その店、キョフテの味は今ひとつなのだが、食後に出てくるケマル・パシャというお菓子にひと工夫凝らしてある。

 ケマル・パシャとは、小さな丸いパンのようなものを蜜に浸しただけの簡単なもの。この店では、それに生クリームを載せ、ターヒンという胡麻をすりつぶしたペーストをかけて出す。この菓子がなんとも言えず美味く、これを目当てに車で乗り付ける遠来の客までいてえらく繁盛していた。

 不思議に思ったのは、当時イズミルにケマル・パシャをこうやって出す店が他になかったことである。トルコ人の知り合いに理由を訊いてみたら、「他の店の連中は、真似するのがみっともないとでも思っているのではないか」と言う。『これじゃあ、この国が資本主義経済でやっていくのも並大抵のことではないなあ』と思った。

 さて、今回の旅行中、トンギョン氏にまた新しいキョフテ屋へ連れて行かれた。

「どうです。ここのキョフテはなかなか美味いと思いますよ。この辺じゃ一番でしょう。ただケマル・パシャはあのキョフテ屋に負けてしまいます」

「店の人に、クリームとターヒンをかけるように言ってみたらどうですか?」

「まあ、今お菓子が出て来るからちょっと見てくださいよ」

 で、出されたケマル・パシャを見ると、ちゃんとクリームにターヒンがかけてあって、おまけにクルミの刻んだのまでまぶしてある。

「最近はどこでもこうやって出すようになったんですよ。でも、味はどうも元祖に及びませんねえ」

 どうやら、真似するのが嫌だ、ということではなくて単に反応が遅かっただけのようだが、それにしても鈍過ぎる。やはり、これでは競争力がなかなかついてこないかも知れない。ともかくひとつ味わって見たところ、確かに元祖に比べて格段の差が明らかだ。

「クルミをまぶしてあるのがまずいんじゃないでしょうか?」

「いや、ケマル・パシャ自体に問題があるんだと思いますよ。どの店も元祖の味が再現できないんですね。簡単なお菓子のように見えますが不思議なもんです」

 なるほど、この店では、どうも元祖の味が出ないんでクルミをまぶしてみたりと色々工夫を凝らしたことが窺える。これなら、競争力云々と心配することもないようである。


イズミル(2)「イズミル在住韓国人家庭を訪問」

 ドンギョン氏のところは、亭主が食べ物にうるさいだけあって、奥さんの手料理も美味(勿論全て韓国料理)、泊まり込む度に堪能している。

 何度となく食卓に日本の豆腐が出たこともある。韓国の豆腐は木綿漉しどころじゃなくて麻漉しといったような感じでちょっと頂けない。ところが、チゲ鍋に入っている豆腐は絹漉しの柔らかなもの。「あれっ、この豆腐?」と言うと、「あなたが来るんで、わざわざ日本から取り寄せたんですよ。というのは冗談ですけど、NATOの基地があるでしょ、そこで勤務しているトルコ人の知り合いに買って来てもらったんです。あそこには何でもありますから」。別に私のためということでもなく、彼も日本の豆腐が気に入っているみたいだった。

 イズミルで世話になったもう一人の韓国人チェさんは、韓国から家族を呼び寄せる前、イズミル在住の韓国人家庭を順繰りに回っては夕食を御馳走してもらっていたそうで、「やっぱりヒョンチョルのお母さんの料理が一番美味いな。ドンギョンの女房はまだ若いだけあって年季が入っていない」とか言っていたが、彼は「トルコ料理なんて不味くて食えない」という人だから、あまりあてにならない。

 ヒョンチョルのお父さんは養鶏場のキムさんの実弟、つまりヒョンチョルはスルタン・キムの従兄弟ということになる。ヒョンチョルも、91年、中学2年生の時にトルコへ来て、そのままイズミルで中高と終らせてエーゲ大学の経営学部を卒業した。なんでも首席卒業だったそうである。彼の姉さんもどこだかトルコの一流大学を優秀な成績で卒業したと聞いている。彼の一族はスルタン・キムも含めて皆資質が良かったのかもしれない。しかし、そんなにガリ勉している様子もなかったし、エーゲ大学の他の学生達は何をしていたのだろう。ただキャンパスでいちゃついていただけなのか?

 ヒョンチョルのお父さん(キムさん)は以前、イズミルで家具を作って売っていたそうだが、5年ほど前にチェさんから現像機を購入して市内で写真屋を始めた。店番にトルコ人の若い女性を使っているが、よくキムさん夫婦が店番していることもある。私がそこへ居合わせた時、初めて来店したようなお客さんが来たりもしたが、どのお客も、たどたどしいトルコ語のキムさんを見たところで別に驚く様子もなく現像を依頼して当たり前に帰っていく。こんな風だから、キムさんの過度の飲酒癖にも拘わらず、なんとか商売になっているようだった。

 イズミルでは、キムさんの他にもチェさんから現像機を購入して写真屋をやっているパクさんという韓国人がいる。パクさんは公園等に設置するコンクリート製の机やら椅子を製作する仕事もしていて、写真屋の方は韓国人の奥さんが仕切っているのだが、こちらの方は立地条件も良く結構繁盛している様子。50歳になる奥さんは、「商売っていうのは、休んじゃったらだめなんだよね」と言って、週に7日、毎日夜9時まで店に立っている。

 店には、パクさんのベトナム戦争従軍当時に取った写真が飾ってあって、そこではベトナム人の捕虜と思われる男3人を数人の韓国人兵士が取り囲み、銃を掲げて「エイエイオー」をやっている。パクさんは頑健な体つきで視線にも鋭いものを感じるが、昔、船乗りをしていた時に何度か日本へ行ったことがあるそうで、「日本は好い国です」と私にはいつも相好を崩しながら、日本の話をする。これは別に愛想で言っているだけでもないようで、私と知り合う前から、周囲のトルコ人に、「韓国人もトルコ人よりは勤勉だが、日本人には全く敵わない。日本は凄い国だ」とふれまわっているので、その界隈では日本人の評判が一段と高まっているくらいである。

 パクさんは88年にトルコへ移り住んで以来、コンクリート製品を作っては市へ納め、一時は大分稼いだという話だが、最近はトルコ人の業者も似たようなものを作り始めたので年々厳しくなっていると言う。今回会った時には、「不況のあおりで、先月から全然注文が来ない」とこぼしていた。

 ところで、パクさんの奥さんは、パクさんよりずっと前、多分、1970年ぐらいにトルコ人男性と結婚してトルコへやって来たらしい。しかし、ひとり娘を残してその男性は亡くなってしまい、その後パクさんと一緒になったという経緯がある。それで、スザンというトルコ名で呼ばれていて、私もこの名前しか知らない。

 99年、私がイズミルに居た頃、スザンさんは韓国にいたお母さんを引き取ってイズミルへ連れて来たのだが、数人のイズミル在住韓国人と集まって茶飲み話をしている時に、このことが話題になった。

「やっぱり、日本で育った人は違うね。なんか居ずまいがきちっとしているよ」

「えっ、誰のことですか?」

「スザンさんのお母さんのことなんですけどね。なんでも在日韓国人だったらしいんです。スザンさんがトルコへ嫁に来てから、またしばらくの間日本に戻っていたそうで、韓国語なんかあなたの方がよっぽど上手いくらいですよ」

 当時はスザンさんのことを私よりちょっと上、43歳ぐらいと思っていたので、このお母さんも60代と仮定して、『そういう在日の人がいてもおかしくはないな』と考えていた。

 しかし、今回この方にお会いして見ると、どうもそうではないらしく思われて来た。まずは一見して、相当なお年ではないかと思った。スザンさんが私のことを「日本人ですよ」と紹介すると、よどみのない日本語で、「日本はどちらのお生まれですか?」と私に尋ねる。

「東京です」

「そりゃ、結構ですね。私は山梨県の甲府で生まれました。甲府は御存知ですよね」

「勿論です。ところでおばあちゃん、失礼ですけど御幾つになるんですか?」

「私? 私は大正10年の生まれだから、そう、どのくらいなもんかね。私は若い時、言葉の解らないところへ嫁に行って苦労しました」

 山梨県には今でさえ在日コリアンがそんなに多く居住しているとも思えない。ひょっとして、この人は日本人ではなかったのか、という考えが頭に浮かんだ。翌日、スザンさんにその辺を確かめてみると、

「私たちも、お母さんの実家がどういうところだったのか全然知らないんですよ。嫁に来たのは日本統治時代のことだから、あるいはそういうことかも知れません。なんでも随分とお金持ちだったのが急に家運が傾いて、韓国へ嫁がなければならなくなったと聞いています」

 他に知り得たのは、スザンさんのお父さんはとても日本語が達者だったということ。それと、スザンさんには妹がいて、88年頃に日本へ嫁に行ったということぐらい。

 妹さんは、岐阜県に住む在日コリアンのもとへ嫁いだそうで、スザンさんも、いつかは日本を訪れて見たい、それまでには少しでもいいから日本語を習っておきたいと言う。

「お母さんから習えばいいでしょう」

「だめよそれは、何しろあの年でしょ。お母さん、足の具合さえ良くなれば、まだ日本に行って働くことができるなんて言うのよね。それに自分の姉妹とかいるわけでしょ。日本へ行きたくて仕方ないみたい」

 この日、スザンさんの娘にも会うことができた。彼女は25歳ぐらい、父親に似たのか、茶色の髪に碧眼で東洋人らしいところは全く無し。韓国語で知っているのは「アンニョンハセヨ」だけ。トルコの大学を卒業した後、現在はニューヨークで勉強していて、夏休みでトルコへ里帰りしているのだそうである。この時、娘と一生懸命になって話しているスザンさんのトルコ語がそれほど上手いものでもないことが解って少々驚かされた。スザンさんが自分の母親と韓国語で会話する時も苦労していることを考えると、その運命の不思議さを思わずにはいられない。


トラキア(1)「旧友ムジャイを訪ねる」

 休みの間に、トラキア(トルコでアジア側のアナトリアに対しイスタンブールから西側の地域)の方へも出かけて見た。イズミルの「アルサンジャック学生寮」以来の付き合いであるムスタファが今はルレブルガス市にいるのと、やはり寮で一緒だったムジャイという友人の実家もブルガスからさらに一時間ほど先のハブサ市なので、久しぶりにまとめて彼らを訪ねて来た。

 彼らも一時は相互に行き来していたようだが、最近はお互い忙しいこともあって疎遠になっているらしく、ふたりとも相手の近況を私から聞こうとする。ほとんど宗教傾向のないムジャイなどは、「どうだい、ムスタファは元気? 相変わらずお祈りばっかりしているのかな。まあ、宜しく伝えといてよ」なんて言うのである。

 まずは、ハブサ市のムジャイから訪ねた。彼のところは、近くの村にも家があって、前に来た時は、そこへも寄ったのだが、今回は市内だけだった。彼はここで父親と家電の販売店を営んでいる。夕方着いて一泊し、その翌日、昼過ぎてから店をお父さんにまかせ、「見るようなものもないけど、その辺をブラブラしよう」という話になり、とりあえず市場の方へ行って見ると、結構古めかしい感じのモスクが目にとまった。

「あのモスクは歴史的なものなの?」

「そういえば、この前あそこへは連れて行ってやらなかったな。あれは、ミマルシナンの作だっていうから随分古いもんだよ」

 で、早速モスクの境内に立ち入ったところ、老人ばかりが数人集まっている中にひとり、まだ30代ぐらいの男がいて、何やら老人たちに話しかけている。ムジャイはその男を指差して、

「あいつのこと憶えていないか? 前は村のモスクのイマーム(坊主)だったんだ」

 そう言われて見ると確かに思い出した。ムジャイの村は、老人たちも村の雑貨屋の前に腰掛けて平然と酒を飲んでいるようなところなのだが、彼は東部アナトリアのエルズルム出身で、モスクのイマームをしていたのだ。ムジャイの話によれば、この村では、毎日の礼拝にモスクを訪れる人も少なく、イマームが忙しいのは葬式の時ぐらいなんだとか。

 当時、村の若者と談笑するイマーム氏を見てムジャイに、「イマームさんは不信心な村の人たちに腹をたてたりしないのか?」と訊いたら、

「あのなぁ、トルコじゃモスクのイマームってのは国の宗教庁から任命されるんで、言わば公務員みたいなものなんだ。彼も任期中に村の連中と問題を起したいとは思っていないはずさ」

 さて、老人たちと話していたイマーム氏。話が終ると、ニコニコしながら私たちの方へやって来て、「ムジャイ、この人は日本の友人だよね」と親しげに声をかけて来る。一緒にお茶でも飲もうかと思ったが、ちょうど礼拝の時間になってしまい、彼は「また、後で来て下さい」と言ってモスクの中へ入って行った。

「村のモスクからこっちへ来るというのは栄転だよ。彼はなかなか努力家で通信教育を受けながら大学を卒業したくらいで、そのうちこの地域の宗教行事の責任者になると思うね」とムジャイは言う。

「すると、村のモスクには今、他のイマームが着任しているわけでしょ。その人も村の人たちとは上手くやっているのかな?」

「うん、そんな感じだね。でも、ここにいる彼ほどは人気者になれないだろうな。なにしろ彼には、こんな話もあるんだ。村の若い連中とサッカーに興じていた時、礼拝の時間になったから、モスクへ戻って呼びかけのアザーンを読んだけれど、誰も礼拝に来ないので、彼も礼拝するのはやめて、またサッカーをしに行ったというのさ」

 どうやら、そういう人はかえって出世が早いのかも知れない。ところで、この日ムジャイから、ちょっと気になる話を聞かされた。ムスタファの住むブルガス市が所在するクルックラレリ県の一部では、アナトリアの南東部から来るクルド人たちに居住許可が与えられなくなったと言うのである。トルコでは、地域毎にムフタルと呼ばれる町内会会長みたいな人を住民投票により選出するが、このムフタルの裁量で、南東部の出身者には居住許可証の出ない場合があるという。

「そういうのは法的に認められていることなの?」

「法的な根拠なんてあるわけないさ。だから勿論、何処其処の出身者だからいけません、というようなことは言わないで、とにかくダメってことにしているらしい」

「県の方ではこれについて、何も言って来ないわけ?」

「知事は黙認していりゃ、それだけ支持率が上がる。つまりこの辺の住民は皆、彼らに来てもらいたくないと思っているんだ」

 ムジャイはえらく冷めたところのある青年で、なにしろ初めて寮で知り合った頃、「なんでトルコ語なんか勉強してるの? 次の世代になったら誰もトルコ語を話していないと思うよ」なんて言うので、「じゃあ、何語を話しているんだ」と訊くと、「英語さ」と答えたものだ。だからこの件についても、「悪いことには違いないけど、まあ、しょうがないんじゃないの」というような反応しか示さなかった。

 しかしこれ、なり行きによっては、由々しき問題に発展しかねないと思うのだが、果たしてどうなることなんだろう。


トラキア(2)「ムスタファ、ムジャイとのモスク巡り」

 アダナ出身のムスタファが、ルレブルガス市に落ち着いたのは、92年ごろ、姉夫婦を頼って来た後、ここで結婚したからで、今は郊外の工場に技師として勤める傍ら市内の家電販売店でアルバイト的に働いている。ムジャイと疎遠になっているのは、宗教に対する意見の相違なんてわけではなくて、どうも業務上の思惑が絡んでのことのようだ。お互い相手の店の様子を頻りと気にしていた。

 ブルガスを初めて訪れたのは92年。その頃イスタンブールに居た私のところへムスタファから連絡があって、「姉さんの家でやっかいになっているんだけど、ムジャイも近くに住んでいるし、一度遊びに来ないか。一緒にムジャイのところへ行こう。それに、姉さんの旦那もとても良い人でお前に会いたがっている」。

 ブルガスに到着してから電話を掛けると、ムスタファの妹だという女性が出て、「兄はちょっと買い物に行ったので私が迎えに行きます。今どちらですか?」と言う。信心深いムスタファの妹だから、『やっぱりスカーフはしているだろうなあ、どういう態度を取ったらいいんだ』と思案しながら待っていたところ、ジーパンにTシャツという出で立ちの現代風な娘が現われて、さっと握手を求められ、まずは当惑。家に着くと、ムスタファはまだ帰っていないようで、姉夫婦に迎えられたのだが、このお姉さんがまたモダンな感じ。近くの病院で看護婦をしていて、その日は当直なんだとか。挨拶を済ませると慌ただしく出掛けて行った。

 ムスタファの義兄もアダナ出身。職業軍人で、ブルガスは当時の勤務地だったのである。とにかく陽気でよくしゃべる人。夕食が始まる頃には、もう随分前から知り合っていたような感じにさせられた。ムスタファともお互いに冗談を言い合って、義兄弟という関係以上に親しい雰囲気。

 ところが、夕食後、ムスタファが、また何か買いに出かけたのを見計らって、この義兄が、急に改まった態度で、「二人きりでちょっと話したいことがある」と言い出した。何事かと思っていると、

「すみません、あなたが明日ムスタファの友人に会いに行くと聞いたので、ちょっと気になっています。その友人は一体どんな人でしょうか。問題の無い人だと良いんですが」

「えっ、何を仰るんですか。彼のことは良く知っていますが、何の問題もありませんよ」

「そうですか、私はその人が、外国人であるあなたに迷惑をかけるようなことがあっては困ると心配なんです」

「何を心配されているのか良く解りませんが、どういう人だと困るんでしょうか?」

 すると彼は、ちょっと言い難そうに、「なんでもムスタファの友人という話ですから、もしやこういう人では」と、手の平を開いて耳のところへあてるイスラムのお祈りのような仕草をする。

「それでは、ムスタファも問題のある人間だということですか?」

「いえ、とんでもない。ムスタファは良い人間ですが、彼の周囲にはちょっと問題のある人物もいると思うんですよ」

「まあ、それなら心配しないで下さい。明日会う友人は、あなた並に信仰の無い男ですから」

 ここまで言うと、彼はやっと笑顔になり、それでも「本当でしょうねえ?」と念を押すのだった。

 敬虔なムスリムが外国人に迷惑をかける、というこの発想はどこから出て来るのだろうか。何もムスタファの義兄に限らず、こんなことを言う人がトルコでは少なくない。

 さて、その翌日は、予定通りムスタファと一緒に、エディルネ市内で親戚のアパートに住んでいたムジャイを訪ねた。

 エディルネは、コンスタンティノープル陥落以前、オスマン朝の都であった古い町。名高いセリミエ・モスクをはじめ、歴史的なモスクが数多く見られる。で、この日は3人でひたすらモスク巡り。敬虔なムスタファは、ムスリムがモスクへ入る前に義務づけられているアプテスという手足等を洗う清めの作法をモスク毎に必ず実践。こうしてアプテスを行なうと、礼拝をしないわけにはいかないらしく、行く先々のモスクで何度も礼拝することになる。

 一方、生まれてこのかた礼拝など一度もしたことがないムジャイは、清めもへったくれもなく、そのままずかずかモスクへ上がり込んで、礼拝するムスタファを尻目に私の案内役。あるモスクでは、白い顎鬚を生やした如何にも敬虔そうな身なりの管理人らしき人を呼びとめて、

「お爺さん、このモスクは何時の建造なの?」

 老人も、この不信心な若者に、愛想良く由来などを説明していた。最後に訪れたモスクで、相変わらず礼拝を繰り返すムスタファにムジャイは、

「おいムスタファ、いい加減にしなよ。さっきから何度お祈りすりゃ気が済むんだ」

「ほっといてくれムジャイ、僕は君に礼拝しろなんて言ってないだろう」

 モスクを後にすると、ムスタファは、

「なあムジャイ、今日は色んなモスクを見物できて良かったんじゃないか。お前エディルネに居たって、殆どモスクには来たことがなかったろう」

「うん、まったくだ。なかなか素晴らしい歴史的遺産を見ることができた。これはマコトが来てくれた御かげだよ。ムスタファ、お前もたくさんお祈りできて良かったなあ」

 多くのイスラム国家では、異教徒がモスクへ立ち入ることさえむずかしいと聞いている。敬虔なムスリムと不信心なムスリム、それに無宗教者の和気あいあいとした珍道中。これはトルコ共和国政府が努力して来た政教分離政策の賜物なのだろうか?


トラキア(3)「ムスタファの結婚式での思い出」

 ムスタファは、91年、イズミルに居た頃、「結婚するんだったら、やはりスカーフをしている敬虔な女性が好いですね。それに、外で僕が働くかわりに家の中の仕事は全て妻にやってもらいたいと思っています」なんてよく言っていた。

 それから2年後、ブルガスで結婚。今は二人の娘がいて、上の子はもう小学校に通っている。でも、どうやら彼の結婚願望の中で実現したのは、奥さんが専業主婦であるということぐらい。

 奥さんのところは、結婚前、彼女が一人娘で母親と二人暮らし。そこへムスタファが家電の修理に出かけて知り合ったという話。結婚後も暫くはこの家で姑と同居していた。

 この姑さん、でっぷり太っていて、またえらい貫禄、痩せてヒョロリとしたムスタファを完全に圧倒している。入り婿同然のムスタファは、私が訪ねて行くと、自分でお茶を入れたりして、家事を奥さんに任せきってはいないようだ。

 結婚式も、ムスタファの両親がはるばるとアダナから出て来て、ブルガスの結婚式場で行なわれた。

 トルコでは、庶民的な式場の場合、出席者にはお茶菓子と飲み物がほんの申しわけに配られ、後は音楽に合わせてひたすら皆で踊るだけ。私のように、ひどい音痴でリズムに合わせることも困難な人間にとって、これほど迷惑なものはない。

 ムスタファの結婚式に出席した時も、『なんとか余り踊らされずに済めば良いが』と無事を祈るばかりだった。式が始まると、まずはテンポの速い民謡に合わせて、銘々勝手に一人で踊る。それから、これまた速いテンポで皆が輪になって踊るハライというのがあったりした後で、スローテンポの曲が流れ出し、照明が少し落とされると、いよいよ社交ダンス。

 私はムスタファの両親の隣に陣取り、まず一人で踊る民謡は、「あなたも踊りませんか」と誘いに来る人達を断わってなんとかパス。ハライは輪の中で隣の人の真似をしてグルグル回っていれば済むので、一応参加。

 社交ダンスになったところで、どうせ誘いに来る人もいないだろうと高を括って構えていたら、ムスタファの妹が父親に何やら耳打ちしてから私の前に立ち、「一緒に踊りましょう」。こんなことがあろうとは全く予期していなかったから、とにかく驚き茫然自失の態。なにしろ当時の私にとっては、社交ダンスの経験どころか、妙齢の女性とあのように体を密着させるなんてこと自体とんでもない話。顔をひきつらせて申し出を断わると、今度は隣に座っていたメフメットというムスタファの友人に申し込む。しかし、このメフメットも精悍な面構えに似合わずこういうのは苦手のようで、真っ赤な顔して逃げ出す始末。妹は憮然とした表情で立ち去った。

 彼女とは、この後一度だけ会ったものの、殆ど無視されてしまった。まあ、当然のことなんだろう。ムスタファも、この件については以来全く触れようとしていない。

 98年、4年ぶりにトルコへ舞い戻って来て、ブルガスにムスタファを訪ねると、「姉夫婦は義兄の転勤でビトゥリスへ行ったよ。妹は結婚してまだこの町にいるけど」と言う。私は、ひょっとしてメフメットと一緒になったなんてことはないだろうか、と思い、彼のことも訊いてみたのだが、「君と同じで、あいつもなかなか結婚しないんだ」と言われてしまった。

 メフメットは、シリア国境に近いウルファ出身のクルド人。代々の菓子屋で、ブルガス市内に「ハビブオウル」という店を持っている。ウルファやイスタンブールでも親戚が同じ商標の店を出しているとのこと。実直を絵に書いたような男で、菓子作りにも手抜きがないのか、ここの菓子は実に美味。これ、妹の件の照れ隠しに、書き足したわけでもないので、是非お薦めする。まあ、菓子を食べにブルガスまで行こうという人もいないだろうけど。

 さて、今回の訪問では、ムスタファにも、クルックラーレリ県でのクルド人問題について訊いて見た。とんでもない話で絶対にあってはならないというのが彼の意見。ただ、ブルガスではまだ問題になっていないし、居住許可を与えないのは、貧困層の流入を防ぐのが目的のようだから、メフメットのような人達は対象になっていないかも知れないというのである。

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▲「メルハバ通信」目次
▲第1章 トルコという国
▲第2章 クズルック村よりメルハバ通信
▲第3章 クズルック村に至るまでのトルコ遍歴(先頭にもどる)
▲第4章 クズルック村に別れを告げる