「メルハバ通信」 第2章 クズルック村からメルハバ通信

★村の暮らし
クズルック村へやって来る
田舎カラス
禁断の恋

★トルコの民族事情
「蒼き狼」の末裔
トルコ民族とは?
クズルック村民族事情
イスタンブール・トゥズラ
トルコ人は何人種?
イスラム異端派

★活発なトルコの女性と慄く男たち
ムスリムは恐妻家?
宇宙基地のタクシー?
娘さんには御用心
クズルック村はかかあ天下?
じゃじゃ馬娘と「ながロバ」
トルコでは女性も負けていない
女性ジャーナリスト、ヌーリエ・アクマンさんの強烈ルポルタージュ

★トルコのイスラム信仰
ムスリムの礼拝
宗教論議
インシャラー
村の弁士たち
イスタンブールのゼイティンブルヌ



★村の暮らし


クズルック村へやって来る

 ここは、アダパザル県のクズルック村。イスタンブールからアンカラ方面に向かって車で約2時間のところだ。アダパザルは、99年の大地震でも有名になったが、元来イスラム教の盛んな地域として知られている。

 99年の夏、私は当地にある邦人企業の工場に現地採用で就職した。工場では自動車の部品を生産していて、従業員が800名ほど。運営スタッフは日本からの出向者で、私の仕事はトルコ語の通訳である。

 クズルック村は三方を山に囲まれ、緑の多い長閑な農村。初めてやって来た時には、「とんでもない田舎に来てしまった。よくもこんな所に工場を建てたものだ」とまずびっくり。また、近くのアクヤズという町でバスを乗り換えた際、頭にスカーフを被っている女性がやたらと目に付いたことからイスラム的な雰囲気を感じ取ることができた。

 そもそもトルコでは国民のほとんどがムスリムである。しかし、1923年、アタトュルクを初代大統領に、世俗主義を国是とする共和国政府が成立して以来、あまり熱心にイスラムを信仰することは国父アタテュルクの精神に反し、好ましくないとされて来たのだ。

 女性のスカーフにも様々な制限が加えられていて、まず、国会のように公的な場所でスカーフを着用することは許されていない。役所も同様、民間においても大企業では一般的に職場内のスカーフ着用を禁止しているようだ。

 イスラムでは、女性のスカーフ着用の他にも、1日5回の礼拝、男性が金曜日にモスクへ集まって行なう礼拝、男子の割礼、メッカへの巡礼、ラマダン月での断食、酒を飲まないこと、豚肉を食べないこと等のように様々な戒律があるわけだが、トルコの場合、まず一番良く守られているのは、割礼と豚肉の禁忌。といっても、豚肉に関してはトルコ国内どこでも手に入るわけではなく、破る方が難しいかも知れない。

 反対にあまり実践されていないのは、5回の礼拝と禁酒。ラマダン月の断食は結構行なわれていて、平時は礼拝もしないし酒も飲むといった人が、ラマダンになるとちゃんと断食をしているのに驚かされることもある。

 断食は、1ヵ月の間日中の飲食を禁じるというもの。日が出る前と日没以後は食べても良いわけだが、ラマダンはイスラム暦により毎年開始日が11日ずつずれて行くので、夏の暑い時期にラマダンが始まることもあり、食べるのはともかく水も飲めないのはかなり苦しいと思われる。もちろん煙草とかガムのような口に入るものは一切ダメ、敬虔な信者は唾も飲み込まないそうだ。

 イスタンブールような都会では、酒を飲んでも断食を実践しているようなら、まず普通にイスラムを信仰していると言えそうである。アタテュルク精神を支持する左派のインテリや世俗主義の守護神をもって任じる軍の幹部などは殆ど何の戒律も守っていないのではないだろうか。逆に全てを熱心に実践しているようだと、これは反動分子と見なされかねない。

 それでも宗教活動に関する制限は、80年代、アタテュルク以来の国家企業政策に対して民営化を進める経済改革を断行したオザル政権のもとで大幅に緩和されたのだと言われている。

 私が働く工場では、従業員の6〜7割を若い女性が占めているのだが、職場でスカーフをしても良いことになっていて、半数近くの女性が着用。こういった女性は夏の盛りも長袖のシャツで、肌の露出を極力控えている。ただ、この地域には、美人で名高いコーカサス地方からの移民も多く、スカーフの中から微笑まれただけで思わず眩暈を感じるほどの美女も少なくない。

 しかしこれは、私にとって拷問に近いものがある。まず、この辺で、婚約前の色恋沙汰などはもってのほか。娘に手を出したの出さないので、刃傷沙汰(簡単に拳銃が手に入るため発砲沙汰?が殆ど)に及ぶこともあるくらいで、女性の貞操は極めて重要。それでは結婚ということになると、今度はイスラムへの改宗が前提条件。工場にいくら美女がいても、この条件を認めたくない私は、彼女たちに近づくことが殆ど不可能なわけだ。でも本当のところを言えば、恋愛は自由にどうぞと言われたほうが、困ってしまうかも知れない。そうなると、いつまで経っても彼女ができないことに対する言い訳が難しくなる。

 私は今、工場の近くに部屋を借りて一人暮らし、このクズルック村では当然のことながら、部屋に女性を連れ込むような真似はできない。大っぴらに酒を飲むことも憚られる。もちろん、ムスリムでもない私が飲んだところで何も言われないし、村人の中にも飲む人はいる。しかし、酔って出歩くのは考えものだろう。夜になっても、男たちはカフヴェと呼ばれる喫茶店のような所に集まって、ひたすらトルコ風の紅茶を飲む。その前を通りすぎると、「あなたもお茶を飲んで行きませんか?」と誘われたりするが、無下に断われば、「俺のお茶が飲めないのか!」ということになる。また、近所にはちょっと原理主義者を思わせるくらいの厳格なムスリムの男がいて、さながら風紀取締委員といった雰囲気である。女性に触れるのはまかりならぬということで女性とは握手もしない。というわけで、私も毎日を極めてストイックに大真面目に過ごさせてもらっている。

 クズルック村へ来る前、トルコで農村と言えば、友人の実家があるエーゲ海地方デニズリとトラキア地方の農村を訪れたことがあるだけだが、どの村も結構豊かな感じがする。クズルック村では、住居も2〜3階建ての立派なものが多く、自家用車の普及率もかなりなものだ。

 トラキアでは向日葵、デニズリでは葡萄、クズルック村ではヘーゼルナッツが主要作物で、何れも国外へ輸出されており、村の経済もこれで潤っているのだろう。

 トルコは、日本の約2倍の国土で半分の人口を養っているわけで、近代産業化で遅れを取ったとはいえ、元々豊かな国なのかも知れない。


田舎カラス

 2001年の年が明けて、まだ間もない日のことだ。朝早くから用事があり、久しぶりに暁闇の中を工場へ向かった。田舎道を歩きながら、白々としてきた東の山の端を見ていると、散り散りに黒いものが、空高くだんだん広がりながら頭上に迫って来る。もちろん、カラスだということは直ぐ分かったのだが、その数の多さに少なからず驚かされた。

 このカラスたち、どういう分けかあの大地震の後、目に見えて増え始めたのだそうだ。死肉に群がって来たのが居ついたなどと不吉なことを言う人もいる。しかしまだ本当のところは解かっていない。工場でも、周りに植えてある芝を大分やられてしまったのだが、簡単な案山子を立ててみただけで、以来近づかなくなった。生身の人間さえ屁とも思っていないような図々しい東京のカラスに比べれば、トルコの田舎カラスは余ほど純朴なのだろう。もっとも、群れるカラスに向かって実弾をぶっぱなしている人もいるから、ただ警戒心が強くなっているだけなのかも知れない。

 さてカラスはともかくとして、この辺りの人が純朴なことは疑いもないところだ。その晩、工場で働くチョンガーのおっさん、と言っても未だ29歳。しかし私にはどう見たっておっさんである。このおっさんにつかまって、さんざん愚痴をこぼされたのだが、これがまた実に他愛ないというかとぼけている。この日、工場で新しい配属先の責任者であるライン長の女性に挨拶をしたら、そのラインにいた、これまたチョンガーおやじが、「よそのラインに来て慣れ慣れしくライン長に話しかけるんじゃない」と噛みついて来たそうなのである。

「いや俺はね、新しく配属になったから上司であるライン長に挨拶するのは当然だと思うんだよ。それで、彼女の下では前にも働いたことがあって知らない仲じゃないから、ちょっと話が長くなったのさ。そしたら、あの馬鹿がいきなり突っ掛ってきたんだ。おかしいなと思って、後で聞いてみたら、奴はずっと彼女にホの字だっていうんだよな」

 それから長々と、その馬鹿にどうやって忠告したのかを真っ赤になって説明していた。しかし、このおっさんも彼女のことを話す時になると、「彼女きれいだろ」とか「あの娘きれいだから」といちいち付け加えるのである。ちなみにその娘はどう見ても十人並み。これでは、何とか言って、こっちもホの字に違いないと、如何に鈍い私でも分かってしまう。

 さあ、この恋の鍔迫り合い、これからどうなることやらと気になるところだが、まあ、この辺では大したことにもならない。まず、いよいよ本気になれば、親を通して交渉、うまく話がまとまれば、さっさと婚約して、晴れてお付き合いと。大概こうなっているようである。それまで二人でいるところを見たこともないカップルがいきなり婚約して翌日からアツアツで語り合っているなんていうのは、ごく当たり前のことだ。

 案山子に慄くカラスと同じで、生身の女に近づこうなんていうのは、なかなかいないのだろう。


禁断の恋

 昔、イスタンブールで会った日本人のおじさん、「イスタンブールには頭をスカーフで覆った女性が少ないんだね。僕はあれにそそられるんだよなぁ」と残念がっていた。彼がこの村に来たら大喜びだったに違いない。

 工場で、いつもきちっと髪をスカーフで覆っている娘。これがまたなかなかの美人なんだが、この娘は詩を書いたりするのが好きで、その詩をよく写真と一緒に自分の持ち場へ張り出したりしている。で、ある日何気なくそれを見たら、長い黒髪を露わにした彼女が写っているのである。その時、思わず何かこう、いけないものを見てしまったような気がして、熱いものを感じてしまった。しかも、詩の題名は「恋」。これってやっぱり、彼女も誰かに感じてもらおうと仕組んだことなんだろうか。女心の読めない私には、この辺のところが何とも良く判らない。

 さて、去年から1年がかりで、オスマン朝の末期を舞台にしたトルコ語の小説を読み終えた。この本を知ったのは、テレビの「文学案内」って感じの番組。そこで、「教養おばさま」って雰囲気の司会者が、「この作家は男であるにも拘わらず、女性の心理を的確に捉えているので驚きました」とか言っているのを聞いて、これはトルコで女心を知る為にもぜひ読んで見なければと思ったのだ。ところで、今読み終わって見ると、あの「教養おばさま」は一体どういう女性だったのだろうと考えてしまう。何故なら、この小説に出てくる女性は、はっきり言って、皆淫乱である。どんなに淫らなことを思っているのか、そういう心理描写が延々と続く。おばさまは、果たしてどこで驚いたのだろう、ぜひとも訊いてみたいところだ。

 この小説のヒロインは、堅物のイスラム僧と別れた後、フランス帰りの伊達男と再婚し、そこで初めて性の喜びを知るのだが、物語も終りに近づいたところで、こう告白する。

「夫とは燃えることができるけど、快感を共有することはできない。私の感じている喜悦を解かっているのは前夫だけ。何故なら、彼には性に対する罪の意識があるから」

 やはり、いけないものには快感があるようだ。この村の娘たちも、男の前でスカーフを外す時、罪の意識に悶えているのだろうか?


★トルコの民族事情


「蒼き狼」の末裔

 子供の頃、といっても中学生の時分であるが、トルコという国に興味を覚え、図書館へ行って調べたりしたことがある。

 西の彼方、ヨーロッパのすぐ隣にトルコという国があり、住民のほとんど、9割近くがトルコ人で、彼らはモンゴル人に近いアジア系の民族で、遊牧をしながら彼の地に移り住んで国を建てた「蒼き狼」の末裔。という話を聞いて、それなら私たちと同じような顔をした人々がそこに住んでいるのかと想像をめぐらした。それに、その頃はソビエトといえば皆ロシア人であるとばかり思っていたので、モンゴルからソビエトを挟んで遠く離れたトルコにアジア系の人達が暮らしている、そんなことが何かとても不思議に感じられたのだ。

 ところが、百科事典などを捲って、写真で紹介されているトルコの人達を見ると、全くといって良いほど殆どが西洋風な顔立ちで、どこにもアジアの面影はない。その時は、これで何だかがっかりしたことを思い出す。

 ずっと後になって、トルコ語を学び始めてから、今度は言葉の構造とか、語尾に「〜ヤ!」なんていう感動詞をくっつけて話すその雰囲気が、日本語や韓国語に大変良く似ていると解かり、そこにアジアの面影を見出すことができた。

 それで、初めてトルコを訪れた頃は、人々の風貌の中に、シルクロードを伝わって来た血の痕跡のようなものを探そうとしたのだが、そのうち、果たしてこの人達にモンゴロイドの遺伝子がどのぐらい受け継がれているのか、と疑問を感じるようになった。

 稀に、如何にもモンゴロイドといった印象を与える人たちもいる。しかし、大概はタタール族とかウズベク族、トュルクメン族のような、20世紀以降に中央アジアから移住して来たトルコ系民族の子孫である。

 現在のトルコ共和国の地へ、トルコ系のオウズ族が侵入を開始したのは、10世紀〜11世紀のことであると言われている。その後、ギリシャ系を初めとする多様な民族からなる先住民と混血を繰り返しながら徐々にこの地域のトルコ化が進んだということだが、現トルコ人の容貌を見る限り、先住民の血の方がかなり濃いのではないかと思わざるを得ない。

 トルコ人の間でも、「アダナ(地中海沿岸のトルコ第4の都市)の人たちは、元を正せば皆アラブだ」とか「エーゲ海地方なら、先祖はギリシャ人と思って間違いない」というようなことが良く囁かれている。トルコとギリシャの関係は芳しいものではないが、トルコ人にとって「先祖はギリシャ人」ということは、別に不都合なわけでもないようだ。

 トルコ人の友達が、「私たちの先祖であるアリストテレス」と頻りに言うので、

「ギリシャ人が聞いたら怒るよ」と言ってやると、

「えっ、だってアリストテレスはギリシャ正教徒じゃなかったんですよ」

「そんなこと言ったって、ムスリムでもなかったでしょう?」

「えー確かにそうです。でも彼はアナトリアの出身なんですよね。その子孫は皆ムスリムになったはずです」

「しかし、アリストテレスはギリシャ語を話していたんじゃないんですか?」

「そうかも知れませんが、ムスリムになった子孫はトルコ語を話しているんです」

 これとは逆に、先祖が中央アジアから来たことを誇りに思っているのかどうかは、ちょっと怪しげな感じだ。あるトルコ人から「ずっと東にも日本人という優秀な人たちがいるおかげで、我々は先祖がモンゴル高原にいたことを恥じなくてすみます」と言われて、とても複雑な気分になってしまったことがある。

 このような次第で、トルコに滞在して1年も経たないうちに、トルコ人は「蒼き狼」の末裔という幻想は見事に打ち砕かれてしまった。しかし、それと同時に、この国で見られる民族ということへの風通しの良さ、つまり、民族の違いをそれほど意識せずに済む気楽さのようなもの、そこに魅力を感じるようになったのである。

 ただ、クルド人に関しては、民族的な問題がないわけでもない。

 98年、イスタンブールで働いていた時のこと。事務所で電話番をしていたトルコ人のおばさんが新聞を読みながら、

「やっぱりクルドの人たちは虐げられているのかねえ。同化政策により自分たちの文化が失われていくってちょっと可哀想だよ」と誰に言うともなく呟くと、横で聞いていたいつもは軟派な青年が珍しくきっとなって、

「おばさん、それじゃ僕のところも虐げられてるっていうのかい。うちは両親ともクルドなんだよ」

 おばさんはポカンとした顔をして青年の方を見ながら、

「あれまあ、あんたはクルド人だったの。そりゃ、あんたのところはお父さん税務署の署長なんだから虐げられているってことはないわよねえ」と言ったきり考え込んでしまった。

 おばさんは、スラッと背が高く碧眼金髪、とてもトルコ人とは思えない風貌で、「よく、ドイツ人ですか、なんて訊かれることがあるのよ。うちはボスニア系なんだけどね」と話していたことがある。

 ボスニア人であれば、オスマン帝国の時代、便宜上イスラムへ改宗せざるを得なかったスラブ人の子孫であるということになるはずだ。彼らが父祖の文化の多くを失ってしまったのは言うまでもないだろう。

 トルコ共和国は西欧化を目指して、全く新しい国民・民族を作り上げようとしたのであって、既存の民族に他の民族を同化させようとしたのではなかったと言っても間違いではないかも知れない。果たして、この新しい民族へ同化されていく過程で、同化政策の対象にならなかった人達はどれくらい居たのだろうか。


トルコ民族とは?

 トルコにおける民族問題は、クルド人のようなエスニック・グループに限ったことではないのかも知れない。自分たちがいつからトルコ人になったのか、この問いに確信を持って答えられるトルコ人はどのくらい居るのだろうか。

 93年に他界したオザル大統領は死の数ヶ月前、ある雑誌でのインタビューに答えて、こんなことを言っている。

「トルコ人というのは民族ではないのです。アメリカにアメリカ民族がいるんですか? 彼らは皆、イングランドであったり、イタリアであったりと、それぞれ別の民族でしょう。トルコも同じように、様々な民族が集まってトルコ人を構成しているのだと思います。中央アジアでも自分たちのことを、ウズベクとかタタール、キルギスというように呼んでいるじゃありませんか、誰もトルコとは言っていませんよ」

 これを読んだ時、トルコ民族主義を謳う国の大統領が、ここまで言えるものかと驚くと同時に、民族の融和が一層進むことを期待した。(民族に該当するトルコ語は色々あって、民族主義と言ったりする場合、ミレットという単語を使い、これは英語のネイションに近いと思う。オザル氏のインタビューでは、ハルクという単語が使われていて、こちらは英語で言うフォークに近いだろう)

 ところが数ヶ月後、オジャラン(99年、逮捕されて話題になった)率いる反政府クルド人ゲリラPKKが一方的な休戦宣言を行ない和平の兆しが見えてきた矢先、オザル氏は突然心臓麻痺で亡くなってしまう。その日、クルド問題に対する「大統領特別声明」が発表されるはずだったといわれ、ジャン・デュンダル氏の記事によれば、オザル氏の死を知ったオジャランは「我々の大統領は殺されてしまった」とうめいたそうである。

 それから8年、民族融和は進むどころか、クルド人との間に、容易なことでは埋まりそうもない溝が生じてしまった感じがする。

 さて、いつからトルコ人になったのかという問題だが、かえってクルド人とかボスニア人であれば、いとも簡単に確信を持って答えることができるのかも知れない。「トルコ共和国が成立して以来」あるいは「我々はトルコ人ではない」という具合に。

 クズルック村の周辺にはラズ人をはじめ、コーカサス地方からの移民であるアブハズ人、グルジア人(グルジア共和国では殆どがクリスチャンのようだが、ここに居る人達は勿論ムスリムである)、チェルケズ人等々、実に多様な民族の人々が暮らしている。当たり前に自分をトルコ人であると考えている人の方が少ないのでは、と思われるほどだ。工場でライン長をしている娘に、「君んところは何なの、ラズ?アブハズ?」と訊いたら、「うちはかなり昔からこの辺に居たみたいなんだけど、それ以前のことは余りハッキリしていないの、なんだか分からない普通のトルコ人ってやつね」と苦笑していた。

 また、他の地方から家族で引っ越して来たという女性は、「新しく越して来た頃、周りから、あなた方はどの民族ですか、とよく訊かれたんです。トルコ人と答えると、だからどういうトルコ人ですか、と言われてとても驚いてしまった。それまで自分たちのルーツとか殆ど考えてみたこともなかったから、本当にどういうトルコ人なんだか良く分からないんですよ」と言う。

 はっきりと中央アジアからのルーツが確認できる人は、オウズとか、ウズベクというように答えるかも知れない。しかし、その辺りが明らかになっていない人たちの場合、「トルコ人というのは民族ではない」と言おうとすれば、帰属する民族がないことになってしまう。このことは彼らを不安にさせるのだろうか?


クズルック村民族事情

 クズルック村の辺りでは、黒海地方のトラブゾン県から移住して来た人たちがなんといっても一番多く、この人たちはラズと呼ばれたりしている。しかし、彼らの全てが、自らラズ人であると必ずしも認めているわけではない。

「私たちはトルコ人であって、ラズ人とは何の関係もないんです」という人もいれば、

「どうでしょうか、少なくとも近縁にラズ語が話せる人はいないようです」と曖昧に答える人もいる。

 クズルックに限って言えば、ラズ語の話せる人はもうほとんど残っていないそうだ。

「私たちは解からないけれど、おばあちゃん達はラズ語を話すことができます。ラズ語はギリシャ語に近いので、この前、テレビでギリシャ人が何かしゃべっているのを聞いて、おばあちゃんは少し解かったみたいです」

 と言ったのは工場で働く美人姉妹の妹、なるほど彼女たちはヘレニズム調の顔をしている。しかし、物の本によれば、ラズ語はギリシャ語の語彙をかなり含むものの、文法的には全く違う言語であるそうだから、ギリシャ人が何を話しているのか解かったというのはちょっと怪しいかも知れない。

 ちなみに、トルコ共和国の外相(03年2月現在)、ヤシャル・ヤクシュ氏はラズ人である。02年末に訪土した英外相と会見中、求めに応じてラズ語を披露したそうだ。英外相は「ラズ語はグルジア語に似ている」と言い(英外相にグルジア語の知識があったのかどうかは不明)、トルコの外相が少数民族語を知っていることに感動したらしいが、トルコでこれぐらいのことは珍しくもなんともない。

 隣に住んでいる家族もトラブゾンから来たのだが、トラブゾンへは父祖の代に移住したのであって、元々はシリアに住んでいたという。

「シリアということはアラブだったのですか?」と工場で働いている息子に訊いたところ、

「どうでしょうか、もっと前の世代に他所から移ってきたのかも知れません」

 それから笑いながら、

「なにしろ私たちは皆中央アジアからやって来たトルコ人ですから」と付けたす。

「えっ、やっぱりそう信じているんですか?」

「そりゃ、本当のところはわかりませんよ。なにしろ何度となく移住したようです。それでとにかく、私たちトルコ人は中央アジアから来たことになっているんです。でも、もっと遡れば、人間は皆アダムとイブに行き着くわけで、結局同じことでしょう」(コーランにもアダムとイブの物語は登場する)

 彼は信仰心の強い男なのだが、これには頷かされた。

 クズルック村では、トラブゾン県から移住して来た人たちとは別に、アブハズ人というコーカサス地方からの移住者もいる。彼らの故地は現在のグルジア共和国。地図を見ると、黒海沿岸でロシアと国境を接する地域が「アブハジア自治共和国」となっているはずだ。

 アブハズ語を解する者はクズルックの若い世代にもかなりいる。彼らには大きなコミュニティーがあり、クズルック村からアダパザル一帯だけでなく、トルコ全域で、アブハズ人がどこにどれくらい居るのかを把握しているそうだ。さらに、「アブハジア自治共和国」はもちろん、アメリカへ移住した同胞とも結びつきがあるという。

 ところで、私がこんなことを知るようになったのは、去年(2000年)、工場で働くアブハズ人の青年からお茶をご馳走になって以来のこと。

 去年の夏、村の中を散歩していて、家の前を通ると、彼はちょうどテラスでお茶を飲んでいた。当然の如く呼び止められ、一緒にどうぞということになった。

 席について先ず、『おやっ?』と思ったのは、テーブルに左系の新聞が2種類も置かれていたからで、『こいつはちょっと村の他の連中とは違うのかな?』と感じた。それで、

「この村でこんな新聞読んでいる人を初めて見たよ。大概はスポーツ紙かイスラム系じゃないか?」と言うと、ちょっと照れながら、

「いや、必ずこれってわけじゃない。なんでも読んでますよ」

 お茶の後、うちの農園を案内すると言うのでついて行くと、家の裏手にはこの辺の特産品である「ヘーゼルナッツ」が植えられており、間にはちょっとした小川が流れていて結構な広さだ。小川のところまで来て立ち止まると、「マコト、アブハズって知っているか?」と言う。彼がアブハズ人だということは知らなかったが、工場で何人かについては知っていたので、その旨伝えると、それから延々と続くアブハズについての講釈が始まった。

 その歴史から文化、コミュニティーの広がりまで、メモでも取らなきゃ消化しきれない内容のことをどんどん説明するのである。アブハズの歴史は、対立するロシア、オスマン両帝国のエゴにより翻弄され続けたようなのだが、とにかくその背景に至るまで実に良く知っていた。

 工場にいる他のアブハズ人の面々を思い浮かべて見ても、優れ者が多く、彼はともかくとして大概が出世頭。また、ラズ人に比して宗教傾向も弱いとみられ、スカーフをしている女性も少ないようだ。

 優秀なのはマイノリティー特有の強さなのだろうか。クズルック村には少ないのだが、アダパザル一帯では、グルジア人もかなりいて、この辺はマイノリティーの寄り合い所帯といった趣きがある。その中で、彼らが差別や圧迫を受けているとは、ちょっと考えられない。しかし、ラズの人達と違い、彼らは自分たちの民族性を維持しようと絶えず緊張しているような感じもする。

 この日、彼は共和国政府によるトルコ化政策のことを激しく非難していた。それから、ラズ人に対しても、かつて農地をめぐって諍いがあったことなど挙げながら、辛辣な言い方で詰りつけたのだ。やはり、こんなところにはマイノリティーとしての意識が現れていたのかも知れない。

 独演会が終って、家の方へ戻って来ると、工場で彼と仲の良い同僚が訪ねて来ていた。どこだかへ中古車を一緒に見に行こうと誘いに来たのである。

 この時、私にはまだ独演会の余韻が残っていたので、思わず「この人もアブハズ人なのか?」と訊いてしまった。彼がつまらなそうに、「いや、ラズ人だよ」と答えると、同僚も「俺はアブハズ人じゃないよ」と受けて、すぐにまた、中古車の話を始める。私は適当に暇を告げてそこを離れた。


イスタンブール・トゥズラ

 今年(2001年)になって、イスタンブールにある工場も本格的に稼動を開始、最近はクズルック村よりこちらにいることの方が多くなった。イスタンブールといっても東の外れのトゥズラというところである。

 クズルック村の工場と同様、トゥズラでも従業員には若い女性が多いのだが、そこはなんといってもイスタンブールのことだから、村の娘たちとは違い、鼻にピアスをくっつけているものやら、胸元の大きくはだけたシャツにピチピチのスラックスでお尻をプリプリさせながら歩いているのがいたりして、ストイックに生きる私の苦悩は深まるばかりである。

 この辺りの市街地は新しく開けたばかりで、派手なカッコしてイスタンブールの都会っ子らしく振舞っている娘たちも、出身地を訊けば、すごいド田舎である場合がほとんど。まあ、本人はこっちで生まれているか、うんと幼い頃に移って来たりしているから、それなりに垢抜けてもいるのだろう。

 ところで、クズルック村はさながら民族の展示場といった感じであったが、トルコの津々浦々からやって来た人たちの住むこの辺も当然のことながらバラエティーに富んだ民族構成だ。

 中でも、クルド人はかなり多いように感じられる。こうなるともうマイノリティーとは言い難いような気がしないでもない。朝、出勤して来た彼らの一人にそっと近付いて、私が知っている唯一のクルド語で「チュワニバシィ(今日は)」と声を掛けたところ、周りにいた4〜5人を呼び寄せて、ワイワイ言いながら皆で私にクルド語を教えようとする。これにつられてクルドではない人まで寄って来て、「皆集まって何やっているの?」と訊くと、「この人にクルド語を教えてやっているんだよ。君は知ってる?」なんて言う。彼は「いやーそっちの方は全然解からないよ」と苦笑いしていた。

 オフィスで私の向こうに座ってパソコン叩いている長身の美女はボスニア人だそうである。

「うちの家族は30年前にボスニアから移住して来たんです」

「君はボスニア語(正しくはセルボ・クロアチア語と言うようだ)が解かるんですか?」

「もちろんです。うちでは皆ボスニア語で話しています」

「ご両親はトルコへ移住して来た時にトルコ語を知っていたの?」

「全然。90才のおばあちゃんは元気でちっともボケていませんが、今でもトルコ語はほとんどできませんよ」

 すると、その隣に座っている、これまたスラリと背の高い美女が、

「私の父もボスニア人ですが、母はアルトゥビン(トルコの東の果て、グルジアとの国境近く)の出身なんで、私はボスニア語が解からないんです」

 91年、まだトルコへ来たばかりの頃、イズミルで80才の矍鑠とした老人から、「君もトルコ人になりなさい」と言われて驚いたことがある。老人は60年前に、やはりボスニアからやって来たそうだが、当時トルコ語は全く知らなかったらしい。それで、「我々は皆こうしてトルコ人になったのだ」と言うのである。

 このことを思い出してボスニア人の彼女らに話していると、これを横で聞いていたもう一人の美女(しつこいようだが、本当に皆さん美しい)も話に加わって来て、

「うちも父はチェルケズ人でコーカサスから来たの。本当に私たちみたいなトルコ人の方が多いかも知れない。この国は、どこから来た人でも住めるようになっているんです」

「でもそれは、ムスリムであることが条件なんじゃないの?」

「そんなことありませんよ。私たちを見たってムスリムらしいところなんて全然ないでしょ。父はソビエトに居たんです。宗教は全て禁止されていたから、やっぱりイスラムの要素も薄くなっていますよ」

 確かに彼女たちの様子を見れば、これには納得。ボスニア辺りのイスラムも随分いい加減であるらしい。

 でも、イスラムが吸引力になっていなかったとすれば、彼らはいったい何故、トルコにやって来たのだろうか。いい加減なムスリムとは言え、少なくともキリスト教徒ではない彼らにとって、トルコが一応イスラム圏であるということは無意味なこととも思えない。

 他に、アラブ人とかアルバニア人もいて、正しく民族の展示場といった趣きである。郷里がトラブゾンであるという美女(これも本当だ)に、「ラズ人ですか」と訊いたら、チェプニなんていう聞いたこともない民族名が出て来てびっくり。

「チェプニ語というのがあるんですか?」

「ギリシャ語を話していたんだそうです」

 これは面白いと思ったのだが、あまり根掘り葉掘り訊くのも変なのでそれぐらいにしておいた。トルコの人たちがいくら民族についてこだわっていないとはいえ、クルド人等の問題には、なんとも微妙なところがあるので、迂闊なことは話せないのである。

 この前も、何人か集まってお茶を飲んでいる時、「マコトはクルド語も少し解かるらしい」なんていう話になったら、クズルック村から来ていた奴が、

「マコトさん、トルコ語には、一番良いクルド人は死んでいるクルド人だ、という諺があるんです。知っていますか?」

 ととんでもないことを言い出す。そこにいた賄いのおばさんはクルド人。私は内心「ハーリュック、お願いだ妙なことは言わないでくれ」と冷や汗が出た。

 ところで、このハーリュックはアブハズ人。自分の結婚式の招待状に、わざわざアブハズ語の姓名まで明記させていたくらいである。それで、「ハーリュック、そんな諺あるわけないだろう。アブハズ人は死んでも良くならない、の間違いじゃないのか」と言ってやった。しかし、トゥズラの人たちはアブハズ人が何のことかも分からないようだ。これに、気転が利くハーリュックはすかさず、「皆、アブハズ人って知らないでしょう。私のことですよ」と笑いながら説明。おばさんの顔にも笑みがこぼれ、これでなんとか丸く収まった。


トルコ人は何人種?

 ボスニア人は、クズルックの工場にもいる。この人も色白で背が高く、これはスラブ系である彼らの特徴なのかも知れない。しかし、彼の家族は既にトルコで三世代を経ていて、両親もボスニア語を自在に話せるわけではないそうだ。

 この彼が私に、こんなことを言う。

「新聞で読んだのですが、アメリカのインデアンは我々トルコ人と近い関係にあるそうなんですね。その昔、シベリアの辺りに住んでいた我々の祖先の中からアメリカへ渡った人達がインデアンになったのだと書かれていました。どうでしょう、日本人にもインデアンに近いところはありませんか? きっと私たちは皆親戚なんですよ。違いますか?」

 ほんの数日前、彼がボスニアについて語っていたことを考えると、この話はなんだか合点の行かないような気もする。彼は「親戚、親戚」と言いながら、私の肩を叩き、もう一方の手で仲の良い同僚の肩を叩く。この同僚の方はちょっと浅黒い肌でトラブゾン県の出身。彼は尚もこの同僚に向かって、「知ってる? トルコ語と日本語はとても良く似ているらしい。やっぱり何か近い関係があるはずだよ。そう思わないか?」と同意を求めていた。

 トルコ人の民族や人種に対する感覚は、どうにも良く解らない。とにかく私たちとは大分違っているようだ。彼に、「あなたはボスニア人と言ってたけど、先祖が中央アジアから来たということについてはどう考えているの?」と訊いてみると、苦笑いしながら、次のように説明してくれた。

「うーん、どうなんでしょう。オスマン帝国の時代、コンヤの辺りに住んでいたトゥルクメン族がボスニアへ移住して、その地をトルコ化させる為にスラブ系の住民と混ざり合ったから、私達にもトルコ系の血が流れているのだという話を聞かされたこともあります。しかし、私達の父祖はボスニアに居た頃、トルコ語を知らなかったようだし、オスマン帝国には民族主義なんてなかったはずなんですよね。だいたいアナトリアにも中央アジアから来た人達がどれ程いたのか解ったもんじゃないでしょう。でも私達はトルコ人としてひとつにまとまっていないと困ります。民族紛争なんて起きたら大変ですよ」

 要するに親戚とは言ってもそれ程血のつながりを意識してのことではないのかも知れない。これが日本人同士であれば、同じ日本人であることに血の近さを意識しているだろう。少なくとも日本人どうし、自分たちは同一人種であると思っているはずだ。しかし、トルコの人たちを見ていると、彼らに人種という概念があることさえ疑わしい感じもする。

 トルコ人に一番多いのは、アメリカ映画にイタリア人として登場するような人たちの風貌、あれは地中海型人種とでも言うのだろうか。それから、もう少し北のフランス辺りの人たちを想起させるような顔やアラブ風の濃い顔も多く見られる。中には、金髪碧眼でゲルマン系のように見える人もいるし、かなり浅黒い肌を持つ人も少なくない。スーダン辺りからの移民ではないかと思われる黒人のトルコ人にも何度か会った。そんなアフリカ系とでも言えるような学生から、「我々トルコ人と日本人は同じウラル・アルタイ語族で親戚のようなものです」と言われたこともある。こういう人達がまたお互いに混血しあった結果なのか、兄弟で肌の色がかなり違っていることも珍しくなく、肌の色や人種によって人を区別することなど、ここでは全く意味を成さないのかも知れない。


イスラム異端派

 ある日、トゥズラの工場でクルド人の連中と話していると、彼らがこんなことを言う。

「僕らは民族も違うけど、実は宗教も違うんですよ」

 以前にも何度か同じような場面を経験しているので、「そら、来たぞ」と思いながら、「アレヴィーですか?」と問いかけると、「おっ、良く知っていますねえ」と嬉しそうな顔をした。

 アレヴィーというのは、この表現で良いのかどうか分からないが、イスラムの中で異端とされている宗派。主流のスンニー派とは、断食する期間も異なっていたりと、教義の面でも大分違いがあるようだ。

 アレヴィーは、クルド人の中にも、そうではないトルコ人の中にもいるが、ほとんど戒律を守らないなど、無宗教に近い印象もある。熱心な主流派ムスリムとの間に生じている軋轢は社会問題になっていて、この時も、クズルック村から来ている運転手が顔を見せるや、彼らはさっと話題を変えてしまった。

 数年前、イズミルで知り合った友人は、「僕は初対面の人に、自分がクルド人のアレヴィーであると前以て伝えるようにしています。まあ、クルド人であることが後で分かったからといって特に問題とはならないので、これは言う必要もないんですが、アレヴィーについては、必ず話して置かないといけません。後々、お互い気まずい思いをします」と言ったものである。

 この友人は、その後日本へ行って3年ほど滞在することになるのだが、とにかく協調性があって、異郷に居ても誰彼なしに上手く付き合っていた。彼のような人が、気まずい思いをしなければならないというのは、よっぽどのことなのかも知れない。

 実際、アレヴィーに関しては、当事者でない私まで気まずくなってしまうようなこともあった。

 92年、当時イスタンブールにあった邦人経営の会社で働いていた時のこと。同僚のトルコ人は日本語がペラペラ、日本でキックボクシングの試合に出たこともあったと言う。彼は、ほとんど無信仰で、豚肉も平気で食べていた。アレヴィーであると匂わせるような話を時々するのだが、はっきり「アレヴィー」という単語を私が口にすると、たちまち不機嫌になった。

 真面目にムスリムやっている人達には異様な敵愾心を持っていて、例えば、ラマダンの最中タクシーに乗ると、運転手に「あんたは断食しているのか?」と聞く。運転手が「もちろん」と答えると、「そうか、そんなら俺はここで煙草を吸おう」とか言って、煙を運転手の方へ向かって吹きつけながら、「ふーっ、旨い」なんてことをやるのである。これで一度、車から降ろされたこともある。運転手も一緒に降りてきたが、昼飯食って元気もりもりの元キックボクサーを前に、「腹がへっては戦ができぬ」と悟ったのか、捨て台詞を残してスゴスゴ車に戻った。

 また、これもラマダン中の話。会社が新しい顧問弁護士と契約、日本料理店で夕食を御馳走することになった。弁護士さんは夕刻、約束の時間に会社へやって来たが、断食中なので日没まで待ってから出発したいと言う。やがて、日没が知らされると、コップ一杯の水を旨そうに飲み干した後、「お待たせして申しわけない、さあ出掛けましょう」と言って立ちあがった。

 車に乗り込むと、元キックボクサーの彼に、「日本の料理を食べるのは今日が初めてなんですよ。どんなものが美味しいんですか。君は日本に居たこともあるから良く知っているでしょう」と訊く。これに対して彼は、平然とこう言い放った。「豚肉ですね」。それから私の方を向くと日本語で、「ラマダンの時に食べるトンカツがこれまた最高に旨いんだ」と言って、「ハッハッハ」と笑ったのである。弁護士の先生は唖然とした表情で返す言葉もない。しかし、この先生なかなか出来た人で、夕食の席に着くと、本当にトンカツを注文して旨そうに食べる彼と何事もなかったかのように談笑していた。

 後日、このいきさつをイズミルの友人に話したところ、

「その人は多分、アレヴィーということを乗り越えられないでいるんだね。それに、トンカツが好きだというのも本当かなあ、僕は何でも食べるけど、豚肉は食べ慣れていないせいか余り美味しいとは思えないんだよ」というのが彼の意見だった。

 ところで、このイズミルの友人は日本滞在中にフィンランドの女性と結婚、トルコへは戻らずにフィンランドへ旅立ってしまった。

 そして、もう一人、トンカツが好きな友人も、どういうわけかアルゼンチンの女性と一緒に成ってアルゼンチンへ。トルコ人がこうやって海外へ出ていくのは珍しいことではないので、これを彼らがアレヴィーであることへ結びつけて考えるのは止めた方が良いかも知れない。ただ、トルコをこよなく愛すると言っていたこの二人、いつかはトルコへ帰って来るのだろうか。その辺がちょっと気になるところだ。


★活発なトルコの女性と慄く男たち


ムスリムは恐妻家?

 クズルック工場の生産現場で指揮を取っているのはトルコ人のマサルさん。中東工科大学出身のエリートで35歳。非常に仕事熱心な上、温厚な人柄で日本人スタッフからも全幅の信頼を寄せられている。英語はもちろんだが、日本で3ヶ月ほど研修を受けたこともあって日本語もかなりできる。

 そしてもう一つ、このマサルさんを特徴付けているものがあって、それは彼がとても信仰心に篤い敬虔なムスリムであるということ。時間の許す限り日に五回の礼拝を欠かさず、もちろんアルコールは全く嗜まない。

 女性とは握手をしないなんてことはないが、それ以上のことは絶対にしないだろう。とにかくえらい恐妻家なんで奥さん以外の女性に興味を持つなんてことはあり得ないと思う。

 奥さんは頭にスカーフを被っていて如何にも敬虔という感じ。しかし、工場での催し物などには積極的に参加する。今は子育てに忙しく休業しているものの、以前は保険の外交に飛び回っていたそうだ。

 イスラムでは男が強いのではないかと誤解されるようだが、トルコに限ってそんなことはない。日本の地震・雷・火事・親父も、この国では、地震・事故・テロ・女房ではないのかと思えるほどである。

 最近結婚した友人の例を挙げれば、彼自身はそれほど熱心なムスリムでもなかったのに、またえらく敬虔な女性と一緒に成ってしまって、「悪いけどもう飲めないんだ。女房に見つかったら大変でねえ。まあ、昼ならビールぐらい付き合うよ。うちへ帰るまでにアルコール消化できるから」などとこぼしていた。

 こんなことを言ったら怒られるかも知れないが、専業主婦だったら断食のような戒律を守るにしても結構楽なのではないだろうか。それで、あとは亭主の方もイスラムの掟でがんじがらめにして厳しく監視、絶対に浮気はさせないと、そんな感じがしないでもない。

 マサルさんなどは、もう呆れるくらい模範的な亭主。彼が昼休みに新聞を読んでいるところを見ていると、その生真面目さが良く解る。どういうことかと云えば、まず工場にはフュリエト紙のような大衆紙しか置かれていない。ところが、この手の新聞には必ず水着モデル(完全に脱いじゃっているのもある)の写真などが掲載されているのである。これに対して、マサルさんは前以て適当な紙切れを用意し、禍禍しい写真が出てきたら、それでパッと隠す。その時、どうしたって一瞬は見てしまうから、それだけで苦痛に顔が歪む。

 一度、「マサルさん、あなたが隠したということは、その下に私の大好きな写真があるってことですね。ちょっといいですか?」と冗談を言いながら、ちらっと捲って見ると、「なんだこれは」と拍子抜けするような、ミニスカートを着た女性の写真だったことがある。

「マサルさん、どうでもいいけど、これがだめだったら、あなたイスタンブールの街を歩けないでしょう?」と言ったら、

「そうですね。かなりつらいものがあります」と大真面目に答えていた。

 ところで、マサルさんは、意外にもエーゲ海沿岸のイズミル出身。イズミルはトルコで最も宗教色が薄いと言われている地域だ。実家を訪問して御両親と会ったこともあるが、典型的なイズミルの人で、ほとんど宗教傾向がなかったのに驚いた。

 本人の話によれば、彼は大学在学中、イスラムに目覚めたそうである。私には、彼が、現代的なムスリムの生き方を模索する新しいタイプのトルコ人であるように思えてならない。彼は、よくこんなことを言う。

「近代化というのは、産業化して物を生産することから始まるんです」

 全くその通りだと思う。スカーフを取り、胸のホックを一つ外すと近代化が達成できるのだったら苦労は要らない。

 近代化の過程で生じる問題に対しても、長い歴史の中で培われて来たイスラム的な文化の中にその処方箋を求めるのが道理であるようにも思える。

 しかし、アレヴィーの人たちは、こういった考え方に何と言うだろうか? フィンランドに行ってしまった友人ではなく、また別のクルド人アレヴィーであるが、彼の手帳の裏には大きなアタトュルクの写真が貼ってあった。オスマン帝国の時代にアレヴィーがどう扱われていたのかは知らないが、彼らは概ね、イスラムを吹き飛ばしてくれたアタトュルクを敬愛しているようだ。当然イスラム的な風潮には甚だしい嫌悪感を示す。

 マサルさんに一度、アレヴィーについて訊ねて見たことがある。彼は、なんでそんなことを訊くの、といったふうに訝りながら、

「大切なのは真人間になることです。宗教とか宗派の違いなんて大したことではありません。例えば、あなたが無信仰であることについて私は何も言っていませんよ」と答えてくれた。


宇宙基地のタクシー?

 私が働いている工場では、自動車用組電線を生産している、と言ったところでこれが一体何なのかは業界の人でもなければ分からないだろう。で、どんなものであるのか説明しようとしても、これがまた簡単には行きそうもない。とにかく自動車の部品を作っていて、この分野においては世界で2割以上のシェアを占めているということだ。勿論工場はトルコばかりでなく世界の至る所にある。

 この自動車用組電線の製造工程には自動化が困難な部分もあり、どこの工場でもある程度は手作業に頼らざるを得ない。この為、現場サイドの改善活動には作業者の積極的な参加が不可欠。ということで、この会社ではQCサークル活動にかなり力を入れていて、年に一度、世界各地域から選ばれた代表チームの参加によるQCサークル大会を日本で実施している。

 しかし、残念ながらトルコの工場から、この大会に参加したことは未だない。それでも、例年、見学ということで何名かが日本へ派遣されていた。こうやって日本へ行って来た人のレポートを読んで見ると、大会で見聞したことは勿論、初めて行った日本で驚いたことなどが書かれていて、なかなか面白いものがある。

 その中に、「宇宙基地に出て来るようなタクシー」なんて表現があったので、私はまた、最近日本で何か特殊な形のタクシーでも出現したのかと思い、本人に確かめてみたところ、何のことはない、自動ドアとカーナビにびっくりしただけらしい。どうも、トルコの人達には一般的に大袈裟な表現を好む傾向がある。この他にも、「整然とした街路には塵ひとつ無く」とか「この街では違法駐車されている車を一台も見なかった」というように書かれていて、これには読んでいる私もびっくり。

「一台も見なかったというのは、ちょっとオーバーなんじゃないの?」

「いや、本当です。だいたい路上には殆ど車が止まっていませんでした」

 これは、どうやら沼津市のことのようであるが、多分イスタンブールの余りにもひどい違法駐車を見なれている所為で、一区画に3台ぐらいまでなら目には入らなかったのかも知れない。しかし、QCサークル大会が大阪で開かれていなかったのは幸いだった。彼が大阪へ行っていたなら、「日本では土地が狭いので、空間を有効に利用するため、路上でも3重に駐車することになっているようだ」なんて書かれてしまったことだろう。

 さて、日本へ行けるのはQCサークル大会ばかりではない。マサルさんなどは研修で3ヶ月ほど浜名湖に滞在したことがある。

 その滞在期間中でのこと。研修地の近くで電車に乗ったところ、女子高生に英語で話しかけられたそうだ。その頃、彼はまだ日本語が殆ど解らなかったので、相手が女子高生であることはともかく、英語で話すことが出来たのに喜び、「これから毎日、私はあなたに英語を教えますから、あなたは私に日本語を教えてくれませんか?」と提案。連絡先の書かれた紙を彼女に渡そうとすると、彼女は何も言わぬまま逃げるようにその場から離れてしまったという。

「私はその時、彼女が何故逃げてしまったのか解らず、とにかく驚いてしまったのですが、後になって、日本ではそういう提案が何かとんでもない誤解を生むことになると聞きました。いったい彼女はその時何と思ったのでしょうか?」

 それで私は正直に、

「そりゃ、もちろん助平な外人に誘われたと思ったに違いありません」

 マサルさんは真っ赤になって、

「何と恐ろしいことでしょう。それはとんでもない誤解です」と声を震わせていた。

 しかし、浜名湖辺りの女子高生が、すれっからしでなかったのは、本当に良かったと感謝しなければならない。もし、これが渋谷のコギャルだったら、ひとりの純粋で敬虔なムスリムの一生が滅茶苦茶にされてしまうところだった。


娘さんには御用心

 工場で私は通訳として働いているが、この仕事、どうも私には向いていないようだ。トルコ語力が充分でないというのはもちろんのこと、通訳には運動神経ってものが要求される。

 つまり、ボールを受け取ったら、正しい方向へ直ぐに投げ返さないといけない。私は極めて鈍いもんで、ボールを受けてから、うーんと考えたあげくフィルダースチョイス。ボールを受ける前から投げ返す先を考えていると今度は後逸、といった具合で悪戦苦闘の連続である。

 慌てなくても済む翻訳はその点で楽と云える。しかし、トルコ語で正しい文章がなかなか書けるもんではない。それで、大事な文書の場合は、クズルック工場の事務所で向かいの席に座っている女性に校正を兼ねてパソコンで打ってもらう。

 彼女はチェルケズ系で名前がメレッキ、トルコ語で天使のこと。実際、余分な仕事を頼まれても嫌な顔ひとつしない真に天使のような女性だ。チェルケズには細身の美人が多いという通説も彼女を見れば納得。仕事は早いしミスも少ないので、まかせて安心、私の変なトルコ語も的確に校正してくれる。

 彼女、スカーフこそしていないが、コーランをアラビア語で読んじゃったりして結構敬虔な感じ。村娘の中には、慣習からスカーフはしているものの、煙草もスパスパ吸うし、昼休みには男子工員とワアワア言いながらバレーボールに興じるような娘もいて、そんな娘よりよっぽど信仰がありそうだ。

 メレッキさんの隣に座っているのがゼイネップ、彼女はきっちりスカーフをしている。煙草もスパスパなんてことはないが、コーランの文句なぞを知っているような雰囲気でもない。子供っぽい可愛らしい顔に似合わず、この娘はなかなか負けん気が強いらしく、事務所で働きたいと、町のパソコン教室で一生懸命勉強したのだそうである。

 でもゼイネップさん、本は余り読んでいないみたいで、ちょっと難しいトルコ語の単語を訊いたりすると解からないことがよくある。それで、なるべく彼女には校正を頼まないようにしていた。

 で、ある日のこと。メレッキさんに下書きの校正をお願いした時、ちょっとうっかりして、これは下請けに回さないで、と言うのを忘れてしまった。それからしばらくして、通り掛かりに何気なく、ゼイネップさんのところを見ると、さっき渡した下書きが彼女の前に置かれている。

 これはまずいなと思って、「あのー、メレッキさん、この下書きはやっぱりあなたに校正してもらわないと困るんですよね」と言ってしまったらその刹那、ゼイネップさん、その下書きの束を無造作に掴むが早いか、それをメレッキさんの席へ向かってバシャッとホン投げたのである。

 「ゼイネップさん」と声を掛けたものの、彼女は怒気を含んだ険しい表情でパソコンの画面を見つめたまま、こちらを振り向いてもくれない。私はもうオロオロしてしまって、「ゼイネップさん誤解しないで下さい。これ、あのメレッキさんに最初頼んだんで・・・」とかなんとか言い繕おうとしたのだが、彼女は真っ赤になってプイと横を向いてしまった。

 メレッキさんの方を見ると、彼女は「こういう時はそっとしておくのが一番よ」とでも言うような感じで静かに微笑んでいる。私はそのままオロオロと自分の席に戻った。

 それから正に3日間というもの、ゼイネップさんは私と全く口を利いてくれなかったのである。

 3日目、彼女たちの机の引出しから、いつのものとも知れぬチョコレートが1箱出てきて、どうも1年くらいは経っている代物のようだ。私はメレッキさんに、「どれ、私がひとつ毒見をしてあげよう」と言って、そのチョコレートを1個もらうと口にほおばり、ちょっと間を置いてから、「ううっー」と目を剥き、おどけながら苦悶して見せた。メレッキさんはいつもの如く静かに微笑んでいるだけだったが、ゼイネップさんは腹を抱えて笑っている。私はホッとしてアホな道化を止めることができた。


クズルック村はかかあ天下?

 クズルック村の我が家で、晩になってくつろいでいた時のこと。近くに住んでいるらしい工場の作業員が訪ねて来て、「うちでお茶を用意してありますからどうぞ」と言う。この男、近頃入ってきたばかりなんだが、使えないという評判で、見るからにぼんやりした感じ。適当にことわると、5分ぐらいしてからまた来て、「すみません、女房がぜひと言うもんで、お願いします」と今度は簡単に帰りそうもない。しかたなく承諾して外へ出ると、「僕は働き始めたばかりですが、女房は工場でもう4年になります。顔見れば分かると思います」なんてことを、きかれもしないうちから説明しはじめる。

 彼の家はほんの二軒先、スカーフを被り直しながら出てきた奥さんのことは確かに直ぐ分かった。こちらは使えると評判。家族はあと三歳になる子供がいるだけ。トルコのこんな田舎でも既に若いカップルは両親との同居をいやがるのだろう。

 お茶をご馳走になってから、亭主に工場へ来る前は何していたのか尋ねると、子供を抱き上げながら「子守り」と答える。それが、やけに嬉しそうで、別段恥ずかしいと思っているわけでもないらしい。奥さんも笑いながら「この人1年契約だから来年はまた危ないのよね」と屈託がない。彼はもちろん1年で切られることになるんだろうが、これなら心配することもなさそうである。

 トルコでは女性も思いのほか社会へ進出していて、街角にある銀行の支店長などが女性であることも多い。

 クズルック村の工場では、なにしろ現場作業員の7割近くを女性がしめているので、当然のこと班長さんのような役職にも女性が目立つ。まずはライン毎にライン長がいて、その上にグループ長が現在7名、このうち4名は女性で4人とも26歳以下。男性のグループ長では一番若くて29歳と、どうやら出世の早さも女性が勝っているようだ。

 最近になって、男の連中にも競争意識を持って頑張ってもらおうということで、男性だけによるラインが新設された。

 見回りに来た工場長、スカーフが良く似合っている22歳の美人グループ長をつかまえて、「どう? このラインはうまくいっている? 誰が監督しているの?」と訊く。彼女は「はい、私が見ていますが、大丈夫ですよ。問題ありません」と、にこやかに答えてから、ラインで働く、多分ほとんどが彼女より年上と思われる野郎どもに向かって、「みんな頑張っているわよねえ」と声を張り上げた。が、野郎どもは、数名きまり悪そうに顔をあげただけ。工場長は、「うーん、なんか元気ないなあ」と納得が行かない様子だった。

 他の女性グループ長のうち2名は既婚者で、どちらも職場結婚。彼女たちの旦那、ひとりはこの前やっとライン長に昇格したのだが、工場長から、

「ライン長は終業時に日報をグループ長に提出することになっているけれど、分かっているだろうね?」と訊かれると、

「ちゃんと提出しています。さもないと、グループ長からこれです」と自分の頭にゲンコツを振り下ろすジェスチャー、

「もしも、提出が遅くなってグループ長が先に帰ってしまったら、どうするんだ?」と重ねて工場長が問質せば、

「あの、すみません。グループ長は私の妻なんですが」

「・・・・・・」

 もうひとりは未だに平。平とグループ長では給与にも相当な差がある。日本的な感覚だと、「この夫婦、大丈夫か?」と心配になるところも、この辺では問題なさそうな雰囲気。どうも、社会の中で競争するという感覚が未だ希薄なので、旦那の方も「女房に遅れをとった。これは大変だ」という程には感じていないのかも知れない。


じゃじゃ馬娘と「ながロバ」

 クズルック村の工場で昼休みに新聞(トルコの大衆紙)を読んでいると、ライン長とかグループ長を務める娘どもが5人ほどやって来て、「何を読んでいるの、面白い話ある?」とか言いながら覗きこむ。中には亭主持ちもいれば、スカーフを被っている娘もいたりと色々だが、口さがなく、人の揚げ足を取って喜んだりするところは共通していて、かしましいことこの上もない。どうも嫌な予感がしたので、場所を変えようとすると、グループ長の娘に肩口の辺りをグッと押され、逃げ場を失ってしまった。この娘は淡褐色の長い髪に目、純西洋風の面立ちでまことに美人ではあるが、「今日は一段と綺麗ですね」などとお愛想を言おうものなら、「私はいつも綺麗です。解りませんでした?」なんて言う始末、男まさりのじゃじゃ馬で全く手におえない。

 トルコでは、スカーフを被っているような女性であっても、わりと馴れ馴れしく男の肩に手を置いたりする。握手の習慣もあるので、体が触れ合うことにそれほど抵抗がないのかも知れない。さすがにスカーフを被っている人はあまりそこまでしないが、ごく普通の挨拶として単なる知り合いの男性と握手しながら頬と頬を摺り寄せ合ったりすることもあり、私も初めて妙齢の女性にさっと頬を寄せられた時には随分驚いた。イスタンブールで日本人と接する機会の多い結構敬虔な女性に、「日本人男性の肩なんかに何気なく触れたりすると、ビクッとして身を引いたりするのよね。あれって何なのかしら?」と言われたこともある。話に熱中すると平気でこちらの膝頭をつかんだりする女性もいるから、我々がビクッとするのも無理はない。こんな様子を見ていると、共和国になって政教分離などの改革が始まる前から、この国の社会はかなり開放的であったという話も容易に納得できる。

 その日の新聞には、トルコで初の野球協会が設立されたとか、南東部のシュルナックには野球と類似した伝統的な遊戯があって野球のルーツかも知れない、なんていう記事が出ていた。シュルナックと云えば、反政府クルド人ゲリラPKKが最初に蜂起したところ。早速、かしまし娘が、「シュルナックよ、ボールじゃなくて人の頭でもひっぱたいているんじゃないの?」とちゃちゃを入れる。確かに、おとなしいこの辺の人達に比べ、生活環境の厳しいシュルナック辺りのクルド人には気性の激しいものがあるかも知れない。

 それから、娘どもが、日本にはどんな遊戯があるんだとか喧しく話掛け、新聞を読むどころではなくなってしまった。しかし、日本で子供達がどうやって遊んでいるか説明すると、似たような遊びがトルコにもあるそうで、私もこれには興味深いものを感じ、思いがけず話が盛り上る。女の子が「ままごと」遊びをするのは当然として、地面に沢山輪を描き、その輪の上をケンケンしながら前進する遊戯などがトルコにもあって、女の子の遊びであるところまで共通していたりするのはちょっと不思議な感じだ。他に「だるまさんがころんだ」と類似するものもあり『他の国ではどうなっているのだろう?』と気になる。

 極めつけは男の子が数人のチームを組んで遊ぶ「なが馬」。壁を背にして立った子の股座へ次の子が頭を突っ込んで中腰の姿勢を取り、後ろ向きになったその子の股座へ次の子がまた頭を突っ込んで同じ姿勢を取るというように、順順に股座へ頭を突っ込んで、長い「馬」を作ると、もう一方のチームの子供達が次から次へと「馬」に飛び乗って「馬」が潰れてしまえば勝負有り、というあの遊びだ。これは実際に、イズミルやイスタンブールの街角でも見かけたことがある。

 トルコでは「ながロバ」と云い、このクズルック村のあたりでもポピュラーな様子。じゃじゃ馬は「どう? 一緒にながロバで遊ぼうか?」などと言って人をからかう。これに私も、『いつも言われっぱなしでなるものか。おじさんもたまには反撃せねば』と思い、
「日本ではどこの街にも、ひとりぐらいは変わった女の子がいて、男の子と一緒にながロバで遊んでいたりするけど、この辺りではどうなんだろう。やっぱり変な子がいるのかな?」とやったら、皆じゃじゃ馬を指して大笑い。調子に乗って、

「皆知っているかな? 子供の頃、ながロバで遊んでいたような娘も、大人になれば大概は普通の女性になるんだよ。でも、女の子と一緒にままごとしていた男の子は、大人になってもこれが大概普通の男にはならないんだな」

 と言えば、これは大分受けたらしく、手応え充分。皆の笑いがおさまるのを待ってから、

「あっ、ところでこの娘は普通なのかな?」

 これで爆笑、当のじゃじゃ馬も大口開けて笑っている。してやったりと思っていたら、誰かが

「ちょっと待って、マコトはままごとしていたんじゃないの?」

 すると娘どもは口々に

「キャー、マコトままごとしてたんだ」

「ほら、答えられなくて汗かいているわよ」

 と囃したて、あっという間に形勢逆転。おじさんは、やはりおとなしく早々に退散すべきだったようである。


トルコでは女性も負けていない

 イスラム系ザマン紙の報道によれば、最近トルコでは経済水準の向上に伴って重婚が増えているとのこと。例として、18年間連れ添った妻と4人の子供をブルサ市に残したまま、仕事の都合から滞在するようになったイスタンブールで、別の女性と結婚していた男の話が挙げられている。この場合、結婚と言っても、「イマーム・ニキャーフ」と呼ばれるイマーム(イスラム僧)だけの承認によるもの。この男は、子供の教育であるとか、地震の危険性を口実にして、家族をイスタンブールに呼び寄せず、週末だけブルサへ帰る重婚生活を続けていたところ、携帯電話に入っていた「現地妻」からのメッセージをブルサ市の妻に見られてしまい、全てが明らかになってしまったそうだ。

 トルコでは、イスラムの教義に則り複数の女性と結婚することは法律上許されていない。他の新聞ならば、このようなことは言語道断と非難されて終りになるところだろう。これが、反動的と言われているザマン紙では、ちょっと違っていて、2番目の妻と秘密裏に行なわれる「宗教的な結婚」は、家族の和を乱すことになるから、議論される必要があるとしたうえで、二人の識者から意見を聞いている。

 男性の大学教授(宗教学)は、「教義上許されていても、妻子の悲しみや社会的・文化的な条件との適合性を考えなければならない」「残された女性は、教義上も許されていないとはいえ、同様のことができたはずなのに、美徳を示した。男性も同じ美徳を示すべきである」というように説明しながら、「ムスリムであり、アラーを畏れ、責任感があるならば、このようなことはできないはずだ」と結論。

 もうひとりは女性弁護士で、スカーフをきっちり被った写真が掲載されていて、彼女自身、敬虔なムスリムであることが判る。「殆どの人達が宗教に基づいて暮らしていない現状で、宗教のこういった面だけが利用されるのはおかしい」と言う彼女は、人々の信仰心がこの点で揺さぶられ、宗教に対する理解を困難なものにしていると指摘、次のように主張している。「宗教家や宗教社会学に携わる人達は、日常的な問題と宗教との間に橋を渡し、場合によっては、新しい扉を開くことも必要である」

 このようにトルコでは、宗教的な問題に対して女性の立場から積極的に発言したり、イスラム主義運動の先頭に立つ女性もいる。なにやら堅苦しいイメージだが、教条的で全く冗談も通じない人たちというわけではない

 以前、イスタンブールでこんな光景を目にした。あか抜けた身なりで共和国の申し子とでも言えそうな青年達の前を、イスラム主義政党の街宣車が通り掛かった時のことである。街宣車の上にはスカーフを被った女性が数人いて、中でも黒い頭巾を頭からすっぽり被った女性は大きな身振りで気勢を上げていた。その女性に向かって、青年の一人が一歩進み出ると、中指を突き立てる「ファック・ユー」のゼスチャーをして見せたのだ。これに対して、黒頭巾の彼女は、なんと、ひじを直角に曲げてこぶしを突き上げる、もっとビックな「ファック・ユー」で返し、「ガッハハハ」と笑い飛ばす。思わぬ反撃に一瞬たじろいだ青年達は気を取り直すと、「お姉さん、格好いいぞ」とばかりに喝采。「ファック・ユー」の青年も、「あんたには負けたよ」とでも言うように、拍手で街宣車を見送っていた。

 トルコの女性達は負けていない。ザマン紙の続きを読むと、ブルサ市の女性は、夫の浮気を赦さずに離婚。大きい子は寄宿舎に、小さな子は祖父母に預け、主婦をしながら身につけていたコンピューター・プログラマーの技術を手掛かりに職を見つけ、困難の中をアラーに祈りながら頑張っているそうである。

 経済の発展は、男が妾を囲うことばかりでなく、女性や若者達の自立も容易にしたのではないだろうか。トルコでは伝統的に、恋する若者達の最後の手段として「駆け落ち」が認められているが、こちらの方も増加しているのではないかと思う。実際、トゥズラの工場では、何度となく従業員同士による「駆け落ち」事件が発生していた。彼らは、自分達だけで結婚届を出し、ほとぼりが冷めてから父母達の了解を取り付けるようだ。

 しかし、クズルック工場では今まで聞いたことが無かったし、さすがにこの村では、そうそう「駆け落ち」なんて起らないのだろう、と思っていたら、これがとんでもない話。

 「田舎カラス」という話で紹介させてもらった「美人ライン長」、こともあろうに、あの娘が「駆け落ち」してしまったのである。しかし、相手方は残念ながら、29歳のおっさんでも、その恋敵でもなく、別の男。私は十人並と見ていたのだが、どうやらあの娘には、男心をくすぐる何かがあったのかも知れない。彼女達は1週間ほどで親を説得、村に戻ると、彼女の方はそのままライン長として職場に復帰。スカーフを被るようになったぐらいで別段変わった所も無ければ、周りもそんなに騒いでいなかった。工場には、無断欠勤3日で解雇、という規定があったはずなのだが、「駆け落ち」は特別な事情として考慮されたのだろうか?

 大家の息子の話では、この村でも「駆け落ち」なんてしょっちゅうあるそうで、「どうだいマコト、お前もひとり連れて逃げてみなよ」なんて言われてしまった。しかし、正真正銘の「田舎カラス」である私には、ちょっと無理な相談である。


女性ジャーナリスト、ヌーリエ・アクマンさんの強烈ルポルタージュ

 ヌーリエ・アクマンさんという女性ジャーナリスト。以前は中道の大衆紙サバー紙に記事を書いていたのだが、今はイスラム系のザマン紙で活躍している。歳は40代の半ばぐらいだろうか、元気一杯でなんとなく元体育会系といった感じ。その雰囲気と同様にパワフルな記事を書く女性である。ザマン紙に移ったのは、彼女が敬虔なムスリムになったということではなく、イスラム傾向の強い人達と彼女自身も含むそうではない人達との対話を促進させようという狙いがあってのことだと思われる。(以前、本人と会う機会があったので、このことについて尋ねて見ると、「信仰の有る無しで人を区別して考えたことすらありません」とあっさり否定された)

 芸能人から小説家や政治家に至るまで社会各層の様々な人々に試みたインタビューを中心に構成されたルポルタージュは、遠慮会釈のない鋭い切り込み方に唖然となってしまうほどである。

 その一例として、エユップ・アシュクという政治家が与党の祖国党から野党である正道党へ移籍した後に行なったルポルタージュの一部を紹介して見ると、インタビューは、のっけから以下のように切り出される。

ヌーリエさん:「50歳になって変身願望にとりつかれたようですね。眼鏡を外して髭を剃り、ダイエットしたうえに植毛して禿から救われました。こういった全ての変化は、権力から遠のいてしまったと感じられた時期に起こっています。若返るや否やタンス・チルレル女史(元首相で正道党党首)の懐にとびこみました。党と身体に起こったこの変化には満足されていますか?」

 これに対してアシュク氏、まだこの辺では余裕があるようで、「本当はトルコに変革をもたらしたいのです。私には変革への情熱があります」。しかし、ヌーリエさんはアシュク氏に休む暇も与えない。

ヌーリエさん:「タンス女史と会われた時にですね。一時期『チルレルは何処でも行きたい所へさっさっと行ってしまえば良いのだ』なんて僕は言ってたけど、『行ってしまわなくて良かったなあ』とか言ったりしますか?」

アシュク氏:「そんなことありません。私を罠に落とさないで下さい。政治の世界ではインパクトを与える為に面白い言葉を使う必要があります。あの時は、職務に相応しからぬ財産があることを訴えようと思ってあんな言い方をしたのです」

ヌーリエさん:「その財産について今はどうお考えですか?」

アシュク氏:「財産に関しては世論の要求というものがあります。それに応えなければなりませんが、あの人の財産ですから、私が命令することはできません」

ヌーリエさん:「それでは、『チルレルはトルコのミロシェビッチだ』というお言葉ですけど、今だったらミロシェビッチの代わりに何を使います?」

アシュク氏:「それは多分、当時の統治スタイルを批判するつもりでそう言ったのだと思います。今は野党ですから」

ヌーリエさん:「じゃあ、政権についたらどうなるのか見てやろうってことですか?」

アシュク氏:「権力に対するミロシェビッチのような考え方には党内であっても抗議しますから心配しないで下さい。『アシュクはおとなしくなったなあ』なんて思われているかも知れません。私はオザル氏が首相であった時、自邸からトルコを統治しようとすることに反抗しました。党内のことだったら構いませんが、政府のことを自邸で行なってはいけません」

ヌーリエさん:「チルレル女史も首相だった時に自邸で要人と会ってましたよ。また首相になったら・・・」

アシュク氏:「彼女にも抗議しますよ。私は正しいと信じたことであれば自分の利益を守ったりしません」

 さらに、移籍についてや祖国党党首であるメスット・ユルマズ氏に対する感情を根掘り葉掘り問質した後、こう続ける。

ヌーリエさん:「メスット・ユルマズとタンス・チルレルにはどんな違いがありますか?」

アシュク氏:「タンス・チルレルは、より勇気があって積極的です。リスクを恐れません。メスットさんはずっと慎重で教条的です。タンス・チルレルはオザルに似ていると言えるけど、メスットさんは違います。昔ね、メスットさんにもオザル氏と同じ様な少年時代があったのか気になって本人に訊いて見たんですよ。木登りして遊んだことがありますか? 答えはノー。泥んこ遊びは? これもノー。喧嘩は? ノー。人に毒づいたり、人から毒づかれたことは? ノー。床に座って食事したことは?(トルコの庶民的な家庭では椅子を使わない)ノー。全部ノーです。これじゃあ、大衆は彼に票を投じませんよ。大衆の姿からかけ離れてしまってますからね」

ヌーリエさん:「巧く言い当ててますね。でも、カレッジ(トルコでは金持ちの子弟が行く私立高のこと)出身のお嬢さんであるタンス女史は、多分、メスットさんの千分の一も体験してませんよ」

アシュク氏:「だからお嬢さんもメスットさんより多くの票を獲得できなかったじゃありませんか?」

 また、移籍に関してアシュク氏が、「私は与党を離れて野党に移りました。平らな道を行く車の座席に座っていたのに、これから降りて、坂を登ろうとしている車の後押しをしようとしているんです。」と述べたのに対し、ヌーリエさんは凄まじい突っ込み入れる。

ヌーリエさん:「ちょっと待って。座席なんかには座ってなかったじゃないの。いきなりドアを開けられて、ドンとばかりに突き落とされてしまったんでしょ?」

アシュク氏:「突き落とされてなんかいませんよ。私は自分から降りたんです。私はこの場で何も自分の利益を引き出そうなんて思っていないのに、貴方の態度はとても自己中心的だ。このルポルタージュで私も伝えたいメッセージがあるのに貴方は全くチャンスを与えてくれないじゃないですか」

ヌーリエさん:「どうぞ仰って下さい。何をお話したかったのですか? 私は何を訊き忘れてしまったのかしら?」

アシュク氏:「もちろん貴方が訊かなければいけないってことではありませんが、私の描いているトルコの理想像があり、その為のプロジェクトもあるんです」

 ここでアシュク氏は税制改革等について簡単に説明するのだが、ヌーリエさんは、「そのことは、タンス女史とも話し合っているんですか?」と軽く受け流し、「でも、私は他のことが気になっています。例えば、コードネーム『グリーン』は何処にいるんでしょう?」と直ぐに話を別の方向に持って行ってしまう。このグリーンとは、かつて政府が秘密工作に使っていたとされている男で、その存在が明るみに出るや未曾有のスキャンダルとなった。

 この後も、スキャンダルの処置に深く関わったとされるアシュク氏をヌーリエさんは執拗に問質して行くのだが、話がかなり際どいところまで来ると、インタビューの行なわれている部屋に突然二人の男が現われ、ヌーリエさんが彼らに、何をしに来たのか尋ねると、アシュク氏に呼ばれたのだという返答。

ヌーリエさん:「アシュクさん、貴方は部屋から出ていませんよね。すると、私の気がつかない間に携帯でメッセージを送ったんですか?」

アシュク氏:「私が諜報部と関係のあることは知ってるだろう。後でもめたくないから、どんな話になっているのか聞いといてもらおうと思って特別に頼んだんだ」

ヌーリエさん:「お望みであればテープを一つお渡しできますよ」

アシュク氏:「いや、ただ声だけじゃないんだ。精神状態とかも読み取れるようにしないとね。あんたはルポルタージュを行なうと言ったじゃないか。私もメディアにいくつかのメッセージを伝えようと思ったんだ。ところが、気がついてみると私は尋問されていたんだよ。私は心の中で自分に向かって呟いたね、『おいお前、最少の被害でこの場から逃れるべきだ』って。こんなルポルタージュなんてあんたに良いことないぞ」

 この記事は紙面の都合なのかここで突然終っている。これは02年4月28日付けのザマン紙で、以来既に4ヶ月が経過。ヌーリエさんは現在もますますパワフルに活動を続けているが、アシュク氏については、その後、これといったニュースを聞いていない。


★トルコのイスラム信仰

ムスリムの礼拝

 礼拝の際、ムスリムは、メッカの方へ向かって平伏して祈る。これは、女性も同じやり方のはずであるが、未だかつて女性が礼拝しているところを見たことはない。モスクで、女性が祈るのは2階に設けられた専用の礼拝所。夫婦が家に居る時でさえ礼拝は別々にするそうだから、ムスリムであっても男が女性の礼拝姿を見る機会はあまりないだろう。

 クズルック工場には、一応小さな礼拝所がひとつだけあり、真中に簡単なついたてを置いて男女を隔てている。

 出向して来たばかりの或る日本人スタッフは、入口に脱いだ靴が置かれ男女の出入りするこの部屋を見て訝り、英語の分かるトルコ人に、中で何をしているのか尋ねたところ、「プレイ」という答えが返って来たので、一体どういう「プレイ」なんだと益々不審に思ったそうである。

 ムスリムの礼拝は、決められた作法通りに立ったり平伏したりと、まさにプレイするわけだが、彼らはこれでとてもリラックスできるらしい。日本の茶道も、細かい作法に気を取られることによって雑念が消え去り、くつろいだ気分になれると言うから、それと同じような理屈かも知れない。

 さて、ある夕方、残業して、閑散としたオフィスにいると、チーフのマサルさんが、部下の青年を隅に呼んで、厳しい調子で注意を与えている。休憩時間でもないのに、礼拝所で祈っていたというのがその理由。しかし、なんでそれが分かったかのと言えば、どうやらマサルさんも、そこで一緒に祈っていたようなのである。マサルさんの話によれば、
「チーフの私に残業代はつきませんから、仕事の合間を見て適当な時間に祈ることもできます。でも、彼の場合は、就業時間中なんですね。5回の礼拝は休憩時間中にできるようになっているので、その間にしないといけません」。

 マサルさんが、礼拝所で何時、彼に気がついたのか聞き漏らしたが、祈っている最中は一心になっていて、それどころじゃないだろう。また、祈り始める前に気付いたとしても、礼拝所の中で、「おい、就業時間中に何やっているんだ」とやるわけには行かなかったはずだ。それで、とにかく雑念を払って祈り、礼拝所を出た後、「何で今頃祈っているんだ。これは一言注意しなければならんなあ」と考えたのかも知れない。

 いずれにせよ、礼拝所の中で、ひたすら神に祈っていた敬虔なムスリムが、礼拝所を一歩出た時には、冷厳な資本主義者になっていたのである。

 イスラムには、「明日にでも死が訪れるかのように来世を考えよ。そして、永遠に生が続くかのように現世を生きよ」という言葉もある。礼拝所を出た途端、冷厳な資本主義者になることは、ムスリムにとって一向に矛盾したものではないのだろう。


宗教論議

 トルコの人たちと親しく付き合って行く過程でどうにも避けられないのが宗教論議。しかし、相手がかなり熱心なムスリムであっても、教養のあるムスリムならば、そんなに恐れる必要はない。こちらの話もちゃんと聞いてくれる。

 イズミルのエーゲ大学で、パレスチナ人の留学生は、欧米から来ているクリスチャンと議論になると、紙切れに9と書いてテーブルの上に置き、「この数字は何ですか」と訊いていた。相手が9と答えると、「さあ、私には6に見えますが」とやりかえすのである。

 私もこの彼に、宗教のことを訊かれたので、「一応、仏教徒ということにしといてもらっても構いませんが、はっきり言えば無宗教です」と言うと、首を振りながら、「そんなことは有り得ない」と言い出したので、紙切れに9と書いてやったら、やられたって顔をして、「ハイ、解りました。降参します。今後は宗教の無い人達のことも考えるようにしましょう」と物分かりの良いところを見せてくれた。

 これで引っ込んでくれない人達は、まず神の存在を問い質して来るので、私はいつも次のように答えている。

「神がいるのかどうかは良く解りません」

「それでは不安になりませんか?」

「そんなことはありません。私は自動車のメカニズムなんて良く解っていませんが、車は運転できます。神の存在は知らなくても、とりあえず生きてますから、それで充分です」
「自動車は人の作り出したもので、神とは次元が違います。神のことを知りたいとは思いませんか」

「だから、その人間が作り出した自動車のメカニズムさえ解らぬほど愚かな私が、どうやって、そんな高い次元のことを知ったりできるんですか?」

 こういう人を馬鹿にしたようなことを言ったら、怒られるのではないかと思うのだが、信仰を持っている人達は、これで馬鹿にされたとは感じないらしい。この愚かな人間を救わなければと、ますます親切に神の存在を説明しようとする。

 94年、イスタンブールのあるモスクの裏庭で、敬虔な学生たちと話していた時のこと。ひとりの学生が、机を指して、「ここに机がありますね。これも神が人間に授けてくれたものです。人間はその御かげで便利な生活ができます」と切り出した。こうやって、「ここに机がありますね」で始まる話は他でも聞いたことがある。その時は、

「あなた、この机を愛せ、キスをしろ、と命令されたら、どう思います。この机を壊したくなってしまうでしょう。今、イランとかサウジ・アラビアでやっているのは、正にこれなんですね。あれではイスラムのために良くありません」と続いた。

 これは、フェトフッラー・ギュレン師の教団に属する青年。髭をきれいに剃り、ジーパンにポロシャツという、こざっぱりした青年の身なりが示すように、現代的なイスラムと云われているギュレン師の教団は、優秀な学生達を養成して世界各国に派遣。イスラムにおけるミッション活動のようなことを繰り広げていて、日本にも彼らの運営するトルコ語学校がある。

 あるいは、モスク裏庭の学生達も同教団の信徒で、ミッション活動のマニュアルみたいなものがあり、どこにでもある机から、話が始められるようになっているのかも知れない。一度彼らと、机のない所で話してみたいものだ。

 さて、モスク裏庭の話であるが、私は「机は便利」の説に対して、

「でも、今地震が来て、この机が頭の上に落ちて来たら、どうなります。この机は私を殺してしまうかも知れませんよ」

「いや、ですから神は人間に知恵を授けて下さったのではありませんか。人間は知恵を使ってこの机を簡単に転がぬよう頑丈に作ることができます」

「人間の浅知恵で地震に対抗できるとは思えませんね。だいいちビルが潰れてしまえば、それまでじゃないですか?」

「あなた、テクノロジーは日夜進歩しているんですよ。地震に耐えられるようなビルを作れば良いでしょう?」

「少なくとも我々にはそんなテクノロジーなんかありませんよ」

「随分悲しいことを言いますね。あなた方にも神から授かった知恵があるはずなんですが」

 話がここに至ると、それまで黙って聞いていたもう一人の学生が進み出て、

「おい、ちょっとまてよ。この人は日本から来たんじゃないのかい。日本の建物はトルコより遥かに耐震性に優れているんだぜ。この話はもう止めにした方が良いと思うな」

 これには、それまで一生懸命話していた学生も大笑いで、浅知恵の哀れな日本人の説得を諦めてくれた。


インシャラー

 トルコでは信仰の度合いにより挨拶の言い方もまたそれぞれで、熱心なムスリムであれば必ずイスラム式に「セーラムアレイクム」と言うが、これを信仰の度合いが低い人に対して使うと、「そんなアラビア語の挨拶をどこで習ったのですか?」なんて言われてしまう。しかし、「インシャラー」(神がお望みになるならば)というアラビア語の場合、熱心なムスリムは勿論のこと、不信心な人達からも広く使われていて、「明日、うちへ来てくれますか?」に対する答えが「インシャラー、行きましょう」であれば、その翌日、まずは来ないと思って間違いない。

 敬虔なマサルさんは、当然のことながら「セーラムアレイクム」と挨拶し、何かにつけて「インシャラー」を口にするが、彼によれば「インシャラー」とは本来、「人間として出来る限りのことをやり尽くした後、神の思し召しに従う」という意味で使うべきなのだそうである。それなら、「インシャラー」は「人事を尽くして天命を待つ」と訳せるかも知れない。

 実際、イスラム教は、「信ずる者は救われる」キリスト教や「南無阿弥陀仏を唱える者は成仏間違いなし」という浄土門の教えに比べて、遥かに人間の意志を重く見ているような気がする。ムスリムは戒律に従い善行を積むことにより天国へ近づけるのであって、信じるだけでは救われない。

 しかし、イスラムの伝承には、飲んだくれで戒律を守らなかったムスリムも砂漠で弱りきっていた犬に水を与えて介抱してあげたというたったひとつの善行が報われて天国へ行き、逆に戒律を良く守っていたムスリムが僅かな悪行のため地獄に落ちてしまったというような話もある。

 ムスリムは、戒律を守っているからといって必ず天国へ行けると思ってはならず、また如何に悪行を重ねたとしても神の慈悲を信じて希望を捨ててはならないと説かれているのである。これならば何か救われるものも感じるが、いずれにせよ自力で善行を積むことが必要。どう考えても、私の如き「罪悪深重煩悩具足の凡夫」の為の宗教ではない。

 同じくムスリムの人達にとっても、「罪悪深重煩悩具足の凡夫」の為の教え「悪人正機」の説などはなかなか理解し難いようだ。以前、それほど熱心とは言えないまでもある程度は信仰のあるムスリム・トルコ人の友人に、「歎異抄」に書かれていることをもとにしながら、「悪人正機」や「他力本願」について説明したところ、

「あなたの言いたいことは解りましたが、神への恐れがなくても良いものなんでしょうか? あなたは悪行を働くような人ではないでしょう。私もそうです。しかし、この世には放っておけば悪事をしでかす輩が沢山いるのではありませんか?」

 これには本当にがっかりした。正にこのような考え方を戒める為、「悪人正機」は説かれているように思っていたからである。

 ところで、クリスチャンの人達は「歎異抄」の内容を高く評価していて、「悪人正機」についても、「福音」で明らかにされている「罪人救済」との類似を指摘するそうだ。イスタンブールに住む韓国人宣教師の友人などは、「歎異抄」にまつわる話を聞いて、「その話を有り難いと思っていらっしゃるのなら、福音の有り難さもお解りになるはずです。是非一度、福音を読んでみて下さい」と早速営業に乗り出して来た。

 先日、この友人宅を訪ねた際、最近になってムスリムからクリスチャンへ改宗したという若い女性が来ていたので、また同様のことを話してみると、

「そういうのは、何かイスラムみたいで嫌ですね。やはり人間は自分の意志で道を切り開かなければなりません」

 と言われてびっくり。これには宣教師の友人も驚いたのではないかと思う。

 トルコで、イスラムが近代化の妨げであると言う人達は、「神に依存して、自分で可能性を高めて行こうとしなかったから、ムスリムは遅れてしまったのだ」と考えているようである。そうなると、いち早く近代化を達成した日本に「他力本願」なんて信仰があるというのでは、どうにも釈然としないに違いない。

 97年に出版された、フュリエト紙のエルダル・ギュベンという記者による「猿も木から落ちる」と題された日本見聞記をちょっと読んで見たところ、表題にもなっている日本の諺について書かれたくだりは、これがなかなか荒唐無稽な内容だった。

 ギュベン氏の見解によれば、この諺ぐらい日本人の特性を巧く言い表したものはないとのこと。まず彼は、「猿が木から落ちると思いますか」と読者に問いかけた後、「そんなことは不可能」と勝手に断定。それから、「この不可能であることも可能になると考えているのが日本人。彼らは何事に関しても不可能であるとは考えていません」と続ける。どう考えるとこういう解釈を導き出すことが出来るのか見当もつかない。トルコ人に不可能ということはないのだろうか。でも、この彼に日本での「他力本願」の信仰について理解してもらうのは不可能であるような気もする。なにしろ日本人は自分の意志力を頼んで不可能も可能に変えてしまうような人達なのだから。

 日本人は不可能なことや自然の力に対して極めて謙虚であり、自然は神から人間に与えられたものであると考えるクリスチャンやムスリムとは、その辺が違うのだと私は思っていた。しかし、自然を破壊し続ける日本の現況を見るならば、そんなことを思うほうがよっぽど荒唐無稽なのであって、ギュベン氏のように考えてもそれほど不思議なことではないのかも知れない。


村の弁士たち

 トルコでは、老若男女を問わずおしゃべりな人が多く、宗教や政治の話も大好きである。時々、村の喫茶店(見事に男しかいない)でたむろしてしている男たちの話を聞いていると、凄いことを大真面目で語り合っていたりする。

 30代から40代の男が、5、6人集まっているところへ同席していた時のこと。一番年配格の男が真剣な顔つきで、

「一昨年の大地震ですが、あれはイスラエルとアメリカの陰謀。トルコへつながる断層で核爆発を仕組んだのだそうです。まあ、世界各地ほとんど全ての地震が、アメリカの核によって引き起こされていると思えば間違いありません。日本にあれだけ地震が多いのも、これで何故だかお分かりになるでしょう」

 彼はこれだけのことを話すのに、もったいつけて、何度も途中で区切っては、面々の顔を見渡して反応を確認する。皆も感心した様子でこれに聞き入っていた。

 話が終ると、それまで小首を傾げながら聞いていた30代ぐらいの男がためらいがちに、

「ちょっと待って下さい。お話はごもっともだと思うのですが、私の聞いたところによると、オスマン朝の時代にも大きな地震はあったということです。その頃、未だ核爆弾は発明されていなかったはずですが、これは一体どういうわけでしょうか?」

 この問いに、もう一人別の男が、さも得たりという風な感じで手を叩くと、

「これは素晴らしい質問です。確かに彼の言う通りで、地震は大昔からありました。全てを核爆発に結びつけるのは難しいかもしれません」

 すると、最初に陰謀説を開陳した男も大きくうなづき、

「なるほど、それは言えてますね。まあ私も他所で聞いた話だったのですが、少し鵜呑みにし過ぎてしまったようです」

 こんな調子で延々と話し続ける。

 地震については色んな風説が流された。アメリカの陰謀ぐらいなら、まだ現実的な方で、不信心者にアラー(神)がお怒りになったなんていうのを真面目に説き付けられたこともある。

 この辺りでは、あの大地震の後になって、女性のスカーフ着用がすごい勢いで増加。1ヵ月ほど過ぎた頃がそのピークで、八割近くの女性がしていた。それが、3ヶ月ぐらい経つと、また徐々に減り始めたのである。神の怒りは、3ヶ月で鎮まるものなのだろうか。


イスタンブールのゼイティンブルヌ

 イスタンブールにゼイティンブルヌという街がある。上野や浅草といった感じのごく庶民的な街。94年頃、ここへ行くと難民風と言っては失礼かもしれないが、あまり暮らし向きの良くなさそうな外国人がたくさん住んでいた。バルカン半島からアフリカのスーダン、イラン、パキスタンと様々だが、ほとんどイスラム諸国からやって来た人達。信仰のあつい住民からは、外人扱いされずにイスラム同胞として受け入れられていたのかも知れない。

 そもそも、トルコ語で外人に相当する「ヤバンジュ」という言葉は、「見知らぬ」とか「不慣れな」といったような意味合いのもの。私は、もうクズルック村で「ヤバンジュ」と言われることはないが、イスタンブールから遊びに来たトルコ人は「ヤバンジュ」になってしまう。

 ゼイティンブルヌでは、中国のシンキョウ省から移民して来たウイグル人もかなりいて、彼らこそトルコ人の故地からやって来た正真正銘のトルコ人。しかし、中国人や日本人と変わりのない東洋的な容貌で、他の外人よりはるかに目立っていた。彼らの中にはここで生まれた2世もいれば、まだ中華人民共和国の旅券を持っている人たちもいた。トルコ語とウイグル語には方言程度の違いがあるだけで、新参者も数ヶ月で言葉を身につけてしまい、生活に支障をきたすこともないようだ。

 一度この町にあるモスクを訪ねたことがある。金曜日の礼拝が終る時間に行って、外から様子を覗っていると、出て来る出て来る、白黒、黄色、褐色、ありとあらゆる人種が、門のところでひしめき合いながら、お互いイスラム同胞としての挨拶を交わしているのは、なかなか壮観だった。

 イスタンブールにはキリスト教の教会もたくさんあるが、教会でこういう光景を見ることはあまりないだろう。というのも教会では、会衆が解かる言葉で説教することになっているし、その教会に所属する信者もきまっているから、ある程度同一コミュニティーの人達が集まることになるわけである。

 イスラムでは、モスクが特定の檀家のようなものを持つこともなく、世界中どこへいってもコーランの読誦はアラビア語。トルコではトルコ語の説教も入るが、だからといってパキスタンの人たちだけが別のモスクへ集まってウルドゥー語で説教するということはない。へたをすると説教している本人も良く解かっていないアラビア語の文句を、色んな国の人たちが集まって等しく解からぬままに拝聴する、とこういうことになっているようだ。

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▲「メルハバ通信」目次
▲第1章 トルコという国
▲第2章 クズルック村よりメルハバ通信(先頭にもどる)
▲第3章 クズルック村に至るまでのトルコ遍歴
▲第4章 クズルック村に別れを告げる